晉書卷八十一 列傳第五十一 朱伺

出自と初期の武功

  • 朱伺、字は仲文、安陸の人。若くして呉の牙門將陶丹の給使となった。呉の平定後、江夏に移り住んだ。朱伺は武勇に優れたが口下手で書を知らず、郡將督となっても郷里の士大夫には拱手し名を告げるのみであった。将となってからは謙恭で知られた。張昌の反乱の際、太守弓欽が灄口へ逃げ、朱伺は同輩の郴寶・布興と共に討伐しようとして果たせず、弓欽とともに武昌へ逃れた。のちに部下を率いてこれを滅ぼした。騎部曲督に転じ、綏夷都尉を加えられた。朱伺の部曲らが諸県とともに張昌に付いていた中、朱伺の本部のみが義に唱えて逆賊を討ったため、逆順の別を明らかにすべく別に県を立てることが求められ、安陸の東界を割いて灄陽縣とし、そこに属させた。

陳敏・杜弢との戦い

  • のち陳敏が反乱を起こすと、陶侃は江夏に鎮していたが、朱伺の水戦の巧みさを見込んで大艦を作らせ左甄とし江口を守らせ、陳敏の前鋒を撃破した。陳敏の弟陳恢が荊州刺史を自称して武昌にあった際、陶侃は朱伺以下の諸軍を率いてこれを破った。陳敏・陳恢の平定後、朱伺は功により亭侯に封ぜられ騎督を領した。西陽の夷賊が江夏を掠めた折、太守楊瑉が督将らに対策を諮った際、朱伺だけが黙していた。楊瑉が理由を問うと「他の者は口で賊を撃つが、私は力のみでする」と答え、また「なぜいつも勝てるのか」と問われると「両軍が対峙したときはひたすら忍耐するのみ。彼が忍べず私が忍べるゆえに勝つ」と答え、楊瑉は大笑した。
  • 永嘉年間、石勒が江夏を破ると、朱伺は楊瑉とともに夏口に逃れた。陶侃が夏口に鎮するとこれに従い明威將軍を加えられた。陶侃の杜弢討伐に従い殊功を立てた(その詳細は陶侃伝にある)。夏口の戦いでは朱伺は鉄面を着けて自衛し、弩で賊の大帥数人を射殺した。賊が船を岸に上げ水辺に陣を敷くと、朱伺は水上を往来して迎え撃ち、矢が脛に刺さっても顔色一つ変えなかった。諸軍が到着すると賊は潰走し、船を捨てて水に投じ、半数以上が死んだ。賊は夜に長沙へ退き、朱伺は蒲圻まで追ったが及ばず引き返した。威遠將軍を加えられ赤幢曲蓋を賜った。

陳聲討伐と鄭攀の乱

  • 建興年間、陳聲が無頼の徒二千余家を率いて江を断ち掠奪したため、陶侃は朱伺を督護としてこれを討たせた。陳聲の兵は少なかったが、朱伺はあえて攻めず弟を陶侃に送って降伏を願わせ、これを許すふりをした。陳聲の弟が発つと、朱伺は勇士を送って途中で斬らせ、密かに軍を率いて陳聲を襲った。陳聲は正月に祭祀・宴会のため一同外出しており、朱伺の軍が門に入るまで気づかなかった。將の閻晉・鄭進はいずれも死戦し、朱伺軍も多くの死傷を出したため一旦引いた。陳聲は東へ逃れ董城に籠った。朱伺は諸軍を率いてこれを包囲し、柴で城を幾重にも囲み高い櫓を築き強弩で射下ろし水路も断った。城中に水が尽き牛を殺して血を飲む有様となった。陳聲の妻の弟である閻晉がついに陳聲の首を斬って降伏した。また蜀の賊を平定した高(襲高)の功により、朱伺は廣威將軍を加えられ竟陵内史を領した。
  • 王敦が従弟の王廙を陶侃に代えて荊州にしようとした際、陶侃の旧将鄭攀・馬俊らは陶侃の留任を王敦に乞うたが許されなかった。鄭攀らは陶侃が大賊を滅ぼしたばかりで人望が厚く、王廙が猜疑深く仕えにくい人物であることから、これに抵抗しようと溳口に屯結し朱伺に使者を送った。朱伺は表向き応じつつ病と称して赴かなかった。鄭攀らは王廙に抵抗を続けたが、士衆が動揺し横桑口へ散じ杜曾に投じようとした。朱軌・趙誘・李桓らがこれを撃とうとすると、鄭攀らは誅を恐れ、司馬孫景が王廙抵抗を謀ったとして孫景を斬り朱軌らに降った。

王廙の下での最期

  • 王廙が西進しようとし、長史劉浚を留めて揚口壘を守らせた。杜曾が襄陽での第五猗討伐を請うた際、朱伺は王廙に「杜曾は狡猾な賊で、表向きは西へ帰るように見せかけて衆心を疑わせ、官軍を誘い出したところで急襲するつもりだろう。大きく備えるべきで、今西へ向かうべきではない」と進言したが、王廙は自信家で朱伺が老いて信を置きにくいと考え西行した。案の定杜曾らは引き返してきた。王廙は朱伺を帰還させたが、壘に着くやすぐ杜曾らに包囲された。劉浚は壘の北門が危ういと考え朱伺に守らせようとしたが、朱伺が鄭攀に通じているという讒言により南門守備に転じさせられた。賊はこれを知り北門を攻めた。鄭攀の党馬俊らも壘を攻め、馬俊の妻子が壘内にいたため、その顔の皮を剥いで見せよという者もいたが、朱伺は「妻子を殺しても囲みは解けず、怒りを増すだけだ」と止めた。
  • 朱伺の弩が急に鳴らなくなり、朱伺はこれを不吉に思った。賊が北門を陥すと朱伺は傷を負い船に退いた。劉浚はあらかじめ諸船の底を開き木で覆う「船械」を設けており、朱伺が乗り込んだところへ賊が鋋(矛)で突いてきたのを、朱伺は逆にこれを奪って賊を突いた。賊は船屋に逃げ上がり「賊帥はここにいる」と叫んだが、朱伺は船底を伝って五十歩ほど泳ぎ逃れた。治療を受け傷は少し癒えた。杜曾は「馬俊らはあなたの恩に感じ妻子は生きている。あなたの家族もみな俊が世話している、来られよ」と説いたが、朱伺は「賊に白髪の者はいない。私は今年六十余、もはや賊にはなれぬ。私が死ねば南に帰り、妻子はお前に任せる」と答え、甑山へ帰った。当時王廙は李桓・杜曾と対峙し甑山下で戦いを重ねていた。軍中でしばしば「賊が来るぞ」と驚き叫ぶ声があり、朱伺は驚きと傷が重なって没した。甑山に葬られた。