晉書卷八十 列傳第五十 許邁

経歴

  • 許邁、字は叔玄、一名は映、丹陽句容の人。代々士族の家柄だったが、邁は若くして恬静で仕進を望まなかった。弱冠前、郭璞のもとを訪ねて占ってもらったところ『泰』が『大畜』に変わる卦が出て上六の爻が動いた。璞は「君は天より大吉を得ている、昇遐(仙術)の道を学ぶべきだ」と告げた。当時南海太守鮑靚が隠遁しており人に知られていなかったが、邁はこれを訪ねて奥義を探った。父母がまだ存命だったため親を離れることは忍びなかった。余杭の懸霤山は延陵の茅山に近く、洞庭の西門にあたり五岳に密かに通じ、陳安世・茅季偉がかつて遊んだ地であるとして、懸霤に精舎を建て茅嶺の洞室を往来し世務を絶って仙館を尋ね、朔望の時節には帰省するだけにした。父母が没すると妻の孫氏を実家に帰し、同志を連れて名山を遍く巡った。

仙道への傾倒

  • 初め桐廬県の桓山で薬草を採り、術(仙薬の一種)を服して3年を過ごし穀断ちしようとした。しかしこの山は人里に近く集中できないため四方に柵を巡らせ、道を好む者が訪ねてくれば楼に登って語り合うことを楽しみとした。常に気を服し、一度に千余息もの長さで呼吸した。永和2年、臨安の西山に移り岩に登って霊芝を食べ、悠然自得として終焉の地とする志を抱いた。そこで名を玄、字を遠遊と改めた。妻への書で別れを告げ、神仙のことを論じた詩12首を著した。羲之が訪ねると必ず終日忘れて帰らず、互いに世俗を超えた交わりを結んだ。玄は羲之への書で「山陰から南、臨安に至るまで、金堂玉室・仙人・霊芝が多くあり、左元放(左慈)の一門や漢末の得道者たちが皆そこにいる」と語った。羲之は自ら玄の伝記を著し、その霊異な事跡を数多く記したが、ここに詳述できないほどである。玄はその後行方が知れなくなり、道を好む者たちは皆彼が羽化登仙したのだと語った。

史論

  • 賛に曰く、文字の興りは中古に始まり、縄文・鳥跡の書体は見るに値しない。後世は素朴を離れ華美に向かい、書を競い巧拙を争うようになった。崔瑗(伯英=張芝)が池に臨んで書を学んだ妙技はもはや跡形もなく、師宜官の懸帳の奇も遺跡が乏しい。鍾繇・王羲之以降になってようやく論じるに足る。
  • 鍾繇は一時に美を専らにしたが極めて簡素で、尽善と評するには疑問が残る。細太の配置・疎密の按配・霞の流れ雲の巻くような趣には非の打ち所がないが、書体は古風で今に及ばず、字は縦長で規範を超えており、その点が瑕疵と言える。王献之は父の風を受け継いだが新奇な巧みさに乏しく、字勢は疎らで痩せ厳冬の枯木のようであり、筆致は拘束されて厳しい家の飢えた奴僕のようだ、枯木は撓みも伸びもなく飢えた奴僕は痩せ細って自由がない、この二つの欠点を兼ねているのが献之の書の病である。
  • 蕭子雲は近年出て江表に名をなしたが、書として成立しているだけで男らしい気概がなく、行はまるで春の蚯蚓が絡みつくよう、字は秋の蛇がとぐろを巻くようだ、王濛や徐偃の書法を紙上に横たえたようなもので、千本の兎の毫を禿びさせても一筋の筋も見えず、万の谷の皮を尽くしても半分の骨格も残らない、これで美名を得ているとは名声の濫用ではないか。これらの書家はいずれも実力以上に評判が高い。
  • 古今を詳しく考察し篆書・隷書を極め、尽善尽美と言えるのはただ王逸少(羲之)だけであろう。その点画の巧みさ・構成の妙は、霞がたなびき露が結ぶようで、途切れたようでいてまた繋がり、鳳凰が舞い龍がとぐろを巻くようで、傾いているようでいてかえって真っ直ぐである。眺めていて飽きることがなく、見てもその始まりが分からない、心が慕い手が追い求めるのはこの人だけである、その他の凡庸な書家など論じるに足りない。