晉書卷八十一 列傳第五十一 王遜

王遜(字は邵伯、?–逝去年不詳)。魏興の人。永嘉四年(310年)に南夷校尉・寧州刺史となり、荒廃した寧州を再建して李雄の蜀・夷の侵寇に対抗し、十四年にわたって寧州を統治した。

年表(6件)
  • 赴任後専ら威刑を用いて統御し、法度に従わぬ豪族数十家を誅し、夷を征伐して威を寧土に行き渡らせる
  • のち牂柯・朱提・建甯・永昌を分けて新郡を置くなど地勢に応じた再編を行う
  • 永嘉四年310年南夷校尉・寧州刺史に任じられ、荒廃した寧州へ赴任する
  • のち將軍姚崇・爨琛を遣わして李驤の軍を堂狼で大破する
  • 没時姚崇の怠慢に激怒し諸将を鞭打った末、夜半に急死する
  • 没後州人に中子の王堅が推され南夷校尉・寧州刺史となる、王遜には壮の諡が贈られる

寧州赴任まで

  • 王遜、字は邵伯、魏興の人。郡の孝廉に挙げられ、吏部令史から殿中將軍を経て上洛太守に累進した。私有の牛馬が郡内で仔を産むと、任期満了時にすべて官に引き渡し、郡の産だと言って恥じなかった。魏興太守に転じた。
  • 惠帝末、寧州刺史李毅が没し、城中の百余人が李毅の娘を推戴して城を守ること一年に及んだ。永嘉四年(310年)、治中の毛孟が都へ刺史の派遣を求めたが取り合われず、痛切に訴えたことで朝廷は憐れみ、王遜を南夷校尉・寧州刺史とした。王遜は毛孟とともに赴任したが、道中で賊に阻まれ、一年余りかかって到着した。外は李雄に迫られ、内は夷の侵寇を受け、吏士は離散し城邑は荒廃していた。
  • 王遜は荒廃を切り開いて離散した民を集め、専ら威刑を用いて辺境の民を統御した。赴任前に挙げた秀才董聯を、建甯の功曹周悅が不適任として認めなかったため、着任後に周悅を捕えて殺した。周悅の弟が王遜暗殺を謀り前建甯太守趙混の子趙濤を代わりに刺史に立てようとしたが、発覚して誅殺された。法度に従わぬ豪族数十家も誅した。夷を征伐して千を数える捕虜・首級を得、馬牛羊数万を獲得し、寧土に威を行き渡らせた。
  • 子の王澄を遣わして元帝に勧進の表を奉らせ、帝はこれを嘉し、散騎常侍・安南將軍・假節を累加し、校尉・刺史はそのまま、褒中縣公に叙した。王遜は地勢に応じて牂柯を分けて平夷郡、朱提を分けて南廣郡、建甯を分けて夜郎郡、永昌を分けて梁水郡とし、益州郡を晉寧郡と改めるなど、すべて実施した。

蜀との攻防

  • 先に越巂太守李釗が李雄に捕らえられ蜀から逃げ帰っており、王遜は再び李釗を越巂太守とした。李雄は李驤・任回を遣わして李釗を攻めさせ、李釗は南秦から漢嘉太守王載とともにこれを防いだが、温水の戦いで敗れ、王載は二郡ごと李雄に降った。
  • のちに李驤らが瀘水を渡って寧州を侵し、王遜は將軍姚崇・爨琛を遣わして堂狼で大破し、姚崇は瀘水まで追撃して溺死者千余人を出した。姚崇が遠さを恐れて渡水しなかったことに王遜は激怒し、諸将を囚え姚崇を鞭打った。怒りのあまり冠が裂けるほど激高し、夜半に急死した。

没後

  • 王遜が寧州にあること十四年、州人は再び王遜の中子である王堅を推して州府の事を代行させた。詔により王堅を南夷校尉・寧州刺史・假節とし、王遜には壮の諡を贈った。陶侃は王堅が蜀人に対抗できないことを恐れ、太寧末、零陵太守尹奉を寧州に任じるよう上表し、王堅を京師に召還したが、王堅は途上で病没した。兄の王澄が爵位を継ぎ、魏興太守・散騎常侍を歴任した。