晉書卷七十八 列傳第四十八 陶回

経歴と蘇峻の乱での献策

  • 陶回、丹陽の人。祖基、呉の交州刺史。父抗、太子中庶子。回は司空府中軍・主簿に辟されたがいずれも応じなかった。大将軍王敦が参軍に招き、州別駕に転じた。敦の死後、司徒王導が従事中郎に引き立て司馬に遷った。
  • 蘇峻の乱に際し、回は孔坦とともに導に早期の出兵と江口の確保を進言した(詳細は孔坦伝にある)。蘇峻が迫ると、回はさらに庾亮に「峻は石頭の守りが堅いと知り直進せず、必ず小丹陽の南道を歩いて来る、伏兵で迎え撃てば一戦で捕らえられる」と進言したが、亮は従わなかった。峻は果たして小丹陽から秣陵を経る際に道に迷い、郡人を捕らえて道案内とした。峻の夜行軍は統制を欠いていた。亮はこれを聞き回らの言に従わなかったことを深く悔いた。まもなく王師が敗れると、回は本県に戻り義軍を招集し千余人を得て歩兵とし、陶侃・温嶠らと協力して峻を攻め、さらに別に韓晃を撃破し、功により康楽伯に封じられた。

呉興太守としての飢饉対策

  • 大賊(蘇峻)平定直後で綱紀が弛緩していた頃、司徒王導は回の器量才幹を認め北軍中候に抜擢、まもなく中護軍に転じた。しばらくして征虜将軍・呉興太守に遷った。当時飢饉で穀物が高騰し三呉が特に深刻だった。詔で民同士の売買を認め急場をしのごうとしたが、回は上疏して「今天下が広く凶作というわけではなく東土だけが穀価が高い、民間で売買を許せば噂が遠くまで広まり北の賊がこれを聞いて国境を狙うだろう、愚見では倉廩を開いて振恤する方がよい」と述べ、報を待たずに倉を開き、府郡の軍資数万斛の米を割いて窮乏を救い、これにより一境が無事だった。まもなく詔が下り会稽・呉郡にも回に倣って振恤するよう命じられ、二郡もこれに頼った。在郡4年、召還され領軍将軍を拝命し散騎常侍を加官、征虜将軍はそのまま。

正義と最期

  • 回は性格が雅正で権勢を恐れなかった。丹陽尹桓景が王導に佞び深く親しまれていた。回は常に慷慨して景が正しい人物ではなく親しむべきでないと述べていた。熒惑(火星)が南斗を旬日にわたり守った際、導は回に「南斗は揚州の分野、熒惑がこれを守るのは吾が遜位して咎を受けるべき兆しだ」と語った。回は「公は明徳をもって宰相となり聖主を輔けるからには忠貞な者を親しみ邪佞な者を遠ざけるべきなのに、桓景と膝を交えて語り合っている、それでは熒惑がどうして退くだろうか」と答え、導は深く恥じ入った。
  • 咸和2年、病により辞職を願ったが帝は許さなかった。護軍将軍に徙り常侍・領軍はそのままとされたが、拝命前に卒去、享年51。諡は威。
  • 四子、汪・陋・隠・無忌。汪が爵を継ぎ輔国将軍・宣城内史に至り、陋は冠軍将軍、隠は少府、無忌は光禄勲となり、兄弟いずれも有用であった。

史論

  • 史臣曰く、孔愉父子と丁潭らは皆卑賤な出自から時運に恵まれ、覇府に名を連ね高い地位を歩み、清職を歴任してついに顕要に登った。外は政績を宣べ内は謀猷を尽くし、心力を尽くして時勢を輔け股肱の力を尽くして主君を衛り、皆名節を保ち始終を全うできた。愉は百万の資を高潔に辞退し数畝の宅地に栄誉を譲り、止足の分を弘めた廉譲の風があった。陶回は邪佞を遠ざけるべきことを陳べ、民間売買の不適切さを明らかにし、過ちを補い違いを正した、まことに称賛に値する。
  • 賛に曰く、愉はまさに公の才があり、潭はただ公の望みがあった。領軍(丁潭)は儒雅、平越(孔汪)は忠亮であった。君平(孔坦)は敵情を見抜き、彭祖(孔厳)は益をもたらした。茂(張茂)は象の夢のごとく身を焼かれ、群(孔群)は匡人の厄に遭った。陶回は過ちを正し、その言葉は金石のように確かだった。