出自と初期の建議
- 丁潭、字は世康、会稽山陰の人。祖固、呉の司徒。父彌、梁州刺史。潭は初め郡功曹となり孝廉に察せられ郎中に除せられ、次第に丞相西閣祭酒に遷った。元帝が称制した際、各人に時事の得失を陳べさせると、潭は上書し(要旨): 国を治める者は人材を頼みとする、二千石の長吏こそがそれである、才を明らかに選び適材適所とすべきである、人を得たら久しく職に留めるべきで、官にある者に苟且がなく下にある者に恒心があるのが政の要諦である、今の長吏は頻繁に転任し送迎の費用もかさむ、古人は3年ごとに考績し3回の考課で黜陟を決めたが中才の者が職にあれば速成は難しい。兵は未然を防ぎ奸凶を鎮圧するためのもの、周でさえ三聖の功は武によって成った、今戦乱の世ではなおさら心を留め精鋭を選抜し不測に備えるべきだ、平時には兵を優遇し有事にはその力を求めるべき、聞くところでは今の兵士は私的に使役される者もあり営陣が充実していない、国を治めるのは家を治めるのと同じ、財力の限界を計り進退を審らかにし、成し難い功を求めず分外の役を捨てるべきだ、今兵力はまだ強くない、遠征を性急に行い大勝を得られないまま力を失い威望を損なうことのないよう慎重を期すべきだ、と述べた。
琅邪王喪礼の議論
- 帝が即位すると駙馬都尉・奉朝請・尚書祠部郎を拝命。琅邪王司馬裒が初めて封を受けた際、帝は朝廷の賢者をその国の上卿にしようとし潭を用いることを考え中書令賀循に問うた。循は「郎中令の職望は清重であり慎重に選ぶべきだ、潭は清純貞粋で隠れた正しさがある、聖明が選ぶにふさわしい人材だ」と答え、潭は琅邪王郎中令となった。裒が薨じると潭は喪に服し終えることを願い上疏し(要旨): 三年の喪の義は礼にかなった制度だが、近代以来時に応じて簡略化されてきた、これを正し後世の範とすべきである、令文によれば王侯の喪では官僚は斬衰を服し葬儀の後に脱ぐとされるが、今国には継承者がなく喪庭に主がいない、自分は微賤の身だがこの重責を負う以上、礼として喪を全うすべきだと述べた。詔で博く議論に付された。
- 国子祭酒杜夷は、古の諒闇(天子の喪)は3年言を発しなかったが周代以降簡略化され、春秋時代には天子諸侯も葬儀後に喪服を脱いだ、三代で礼制が異なり三年の喪はこれにより廃れた、漢文帝の詔も時に応じたもので、国を有する者は皆帝皇と同様であるべき、殤(夭折者)や後継者のない者の喪は成人の礼より軽くされるが後継者がいれば葬儀後に脱ぐ、丁郎中も無後を理由に例外とすべきでなく喪服を脱ぎ祭祀を主宰して三年を終えるべきだと議した。
- 太常賀循は、礼では天子諸侯はともに至尊として人に臨み上下の義・群臣の礼は古来同一である、礼が盛んなら重きを全うし礼が簡略なら降格に従う、春秋の事例では天子諸侯は三年の喪を行わず、臣が君に服す喪も君に準じるべきで君が脱いでいるのに臣が服し続ける、あるいはその逆はあり得ない、今の法令では諸侯卿相の官属は君のため斬衰を服し葬儀後に脱ぐとされ、これは諸侯が三年の喪を天子と同じくしないことを示す、君が服し続けるなら臣子も軽重によらず脱ぐべきでない、礼には摂主(代理の主)はあっても摂重(重責の代行)はない、大功の親等の者が喪主を務める場合も必ず再祭・練祭・祥祭を行い大功の服のまま三年の喪を主宰する、もし諸侯と天子を同制とするなら国に嗣王がいる場合は完全な服喪をせず、君主自身が喪にある間は素服で祭祀を主宰し三年間吉事を行わず令制の尊厳を守るべきだ、遠く三代に倣い旧典を復すのでなければ、令に依らないなら諸侯の服は貴賤一律とすべきで一人だけ論じるべきでないと議した。
- これにより詔で服を脱がせ、心喪(喪服なしの服喪)3年とすることが定められた。
蘇峻の乱と晩年
- 太興3年、王導の驃騎司馬に遷り中書郎に転じ、広武将軍・東陽太守に出て清廉で称された。太子左衛率に召されたが拝さず。成帝即位後、散騎常侍・侍中となった。蘇峻の乱で帝が石頭に幸したとき、潭と侍中鍾雅・劉超らだけが帝の側を離れず従った。峻誅殺後、功により永安伯の爵を賜り、大尚書に遷り廷尉に徙り、累進して左光禄大夫・領国子祭酒・本国大中正に至り散騎常侍を加官した。
- 康帝即位後、たびたび骸骨を乞う上表をし、詔で光禄大夫のまま帰邸させ門に行馬を施し俸禄は旧制のまま、伝詔2人を給し銭20万・床帳褥席を賜った。享年80で卒去。侍中を追贈、大夫はそのまま、諡は簡。王導はかつて「孔敬康(愉)には公の才があるが公の望みがなく、丁世康(潭)には公の望みがあるが公の才がない」と評した。子話、散騎侍郎に至った。