経歴
- 顧悅之、字は君叔、若くして義行があった。簡文帝と同い年だったが髪が早く白くなった。帝がその理由を問うと「松柏の姿は霜を経てなお茂り、蒲柳の質は秋を望んでまず萎れます」と答え、簡文はその応対を喜んだ。先に殷浩のために抗表して訴えようとした際、浩の親故の多くは適切でないとしたが、悦之は聞き入れる決意をし、朝臣とも争論して誰も彼を翻意させられなかった、時人はこれを称賛した。州別駕となり尚書右丞を歴任して卒した。子凱之は別に伝がある。
蔡裔
- 蔡裔は勇気があり、声は雷震のようだった。かつて二人の盗賊が室に入った際、裔が寝台を叩いて一喝すると盗賊は二人とも倒れ伏した、このため殷浩は軍の先鋒を裔に委ねた。
史論
- 史臣曰く、陸曄らは皆時望・国華をもって効を歴任で顕し、相次いで枢要の地位に居り機衡に参与した。しかし皆旧章に従い、大過を免れた。何充は幼帝(穆帝)の擁立を敢えて主張し、権臣に屈しながらも儲君を輔け、ついに末命(先帝の遺命)を導き揚げ、たびたび大議に参じ嘉謀を巡らせた、忠貞の士と言うべきである。殷浩は清らかな品格と度量を持ち衆望を集め、高位厚礼が求めずして至った、人々は教義の興廃・社稷の安危を彼に託せると考えたが、国政を執っても嘉謀善政はなく、軍を率いても国を蹙め軍を喪ったと聞くのみだった、風流は貞固の才とは異なり談論は奇正の要ではないことが分かる、適性に反する任用が播遷を招いたことは悲しむべきである。蔡謨は徳を量って身を処し止足の道を弘めたが、刑書にかけられたのは過ちであった。
- 賛に曰く、士光(陸曄)は時の名望、士瑶(陸玩)は道理にかなっていた。父子兄弟でともに政に携わり、台相の任に当たった。祖言(陸納)は簡素で率直、その遺風は尊ぶべきである。蔡謨・諸葛恢はともに名を知られ、一方は雅正、一方は清廉であった。次道(何充)は方正で謀遠(褚翜)は忠貞であった。中軍(殷浩)は識見に優れ雅俗に誉れが輝いたが、余裕は夷曠にあっても経綸には足りず、長所を捨て短所を用いたことでその功を欠き名を辱めた。