晉書卷七十七 列傳第四十七 殷浩

出自と若年の評判

  • 殷浩、字は深源、陳郡長平の人。父羨、字洪喬、豫章太守となった際、都下の人士が書簡を託した百余通を、行程中の石頭で全て水に投げ入れ「沈む者は自ら沈め、浮く者は自ら浮かべ、殷洪喬は書簡の配達人にはならない」と言った、その性格の孤高さはこの通りであった。光禄勲で終えた。
  • 浩は識見・度量が清遠で、弱冠で美名があり、特に玄言に優れ、叔父殷融とともに『老子』『易経』を好んだ。融は口頭の議論では浩に劣るが著述では浩に勝った、浩はこれにより風流談論の宗とされた。ある人が「官に就こうとする時に棺の夢を見、財を得ようとする時に糞の夢を見るのはなぜか」と問うと、浩は「官はもともと臭腐したものだから官を得る前に屍を夢見る、銭はもともと糞土だから銭を得る前に汚穢を夢見る」と答え、時人はこれを名言とした。

隠棲と出仕

  • 三府の辟召にも応じなかった。征西将軍庾亮が記室参軍に引き立て、累進して司徒左長史となった。安西庾翼が再び司馬に招いた。侍中・安西軍司に任じられたがいずれも病を理由に起たなかった。墓所に隠棲すること10年近く、当時管仲・諸葛亮になぞらえられた。王濛・謝尚は浩の出処を伺い江左の興亡を占おうとし、ともに訪ねて浩が確固たる志を持つことを確認した。帰った後「深源(浩)が起たなければ蒼生をどうするのか」と語り合った。
  • 庾翼は浩に書を送り、今江東の社稷の安危は内は何充・褚裒ら外は庾・桓の諸族に委ねられているが百年無事とは限らない、足下は若くして令名を得ながら潜居して自らの節を守ろうとするのは道理として難しい、一時の急務を済うには一時の勝を要する、王夷甫(王衍)は先朝の風流の士だったが立名が真でなく始めから終わりまで一貫していなかった、道が虞夏の世に及ばないなら超然と独往すればよいものを当初から謀を立てず名声と地位を極めながら名教を抑揚して乱の根源を鎮めることをせず『荘子』『老子』を高談し空論に終始した、晩年になっても人望が残っていたため人々が彼に命を託したが王衍自身は保身のため小さな名声を求めついに身は胡虜の虜囚となった、明徳の君子がこのような境遇で果たしてそれでよいものか、名実がまだ定まらず弊風がまだ改まっていないことがこれで分かると説いたが、浩はなお固辞して起たなかった。

簡文帝への出仕

  • 建元初、庾冰兄弟と何充らが相次いで卒した。簡文帝が当時まだ藩にありながら万機を統べ始め、衛将軍褚裒が浩を推薦、建武将軍・揚州刺史に召された。浩は上疏して辞退し、簡文にも書を送って詳しく事情を述べた。簡文は答えて、厄運に遭い危弊が極まっている、時に才ある者があれば遠く賢者を求める必要はない、足下の深い識見と練達をもって起てば経世済民に十分だ、もしなお謙退にこだわれば天下の事はこれで終わってしまう、足下の去就はすなわち時の廃興であり時の廃興は家国の興廃と変わらない、よく思案し必ず本懐を捨て衆情に従ってほしいと説いた。浩はたびたび辞退したが、3月から7月まで固辞した末、ついに拝命した。
  • 当時桓温はすでに蜀を滅ぼし威勢がますます振るい、朝廷はこれを恐れていた。簡文は浩に盛名があり朝野が推服することから心腹として引き立て温に対抗させようとし、浩と温は互いに疑い合うようになった。浩は父の喪に遭い去職、蔡謨が代わって揚州を摂り浩の復帰を待った。服喪明けに尚書僕射に召されたが拝さず、再び建武将軍・揚州刺史となり朝権に参与した。潁川の荀羨は若くして令聞があり、浩はこれを義興・呉郡の太守に抜擢し自らの羽翼とした。王羲之は密かに浩・羨に桓温と和同し内輪で嫌隙を構えるべきでないと説いたが、浩は従わなかった。

北伐と姚襄の離反

  • 石季龍(石虎)が死に胡中が大乱すると、朝廷は関河の平定を図り、浩を中軍将軍・仮節・都督揚豫徐兗青五州軍事とした。浩は受命すると中原平定を己の任とし、上疏して許洛への北征を求めた。出発に際し落馬し、人々はこれを不吉とした。淮南太守陳逵・兗州刺史蔡裔を前鋒とし、安西将軍謝尚・北中郎将荀羨を督統とし、江西に千余頃の田を開いて軍儲とした。
  • 軍が寿陽に至ると、ひそかに苻健の大臣梁安・雷弱児らを誘い、苻健を殺せば関右の任を与えると約した。以前、降人魏脱が卒し弟の魏憬が部曲を代わって領していたが、姚襄が憬を殺しその衆を併合した。浩はこれを大いに憎み、龍驤将軍劉啓に譙を守らせ襄を梁に移させた。まもなく魏氏の子弟が寿陽を往来し、襄はますます猜疑を強めた。やがて襄の部曲の中に浩へ帰順しようとする者が現れると襄はこれを殺し、浩は襄誅殺を謀った。
  • 折しも苻健が大臣を殺し、健の兄の子苻眉が洛陽から西へ逃れると、浩は梁安の計画が成功し苻健がすでに死んだと考え、洛陽進駐と園陵修復を願い出て、姚襄を先駆とし冠軍将軍劉洽に鹿台を鎮させ建武将軍劉遁に倉垣を守らせ、さらに揚州の解任を求め洛陽に専念しようとしたが詔で許されなかった。浩が許昌に至ると張遇が反し謝尚も敗れ、浩は寿陽に戻った。
  • 後に再び進軍し山桑に至ったが姚襄が反し、浩は恐れて輜重を捨て譙城に退いて守った。兵器・軍儲は襄に奪われ士卒の多くが離反した。浩は劉啓・王彬之を遣って山桑で襄を撃たせたが両者とも襄に殺された。

桓温の弾劾と失脚

  • 桓温は日頃から浩を忌んでおり、その敗北を聞くと上疏して浩の罪を糾弾した。中軍将軍浩は過分の朝恩を受け不相応な地位にありながら任を恭慎に守らず職掌を越え専断した、前司徒謨は義を守り台輔の位にあり先帝の師傅・朝廷の元老で70歳に達し礼をもって退官を求めたのにむしろ廷尉に送られようとした、一方浩は虚言を弄し朝聴を誤らせた、胡が滅び群凶が滅んだ好機に浩は専征の重責を負いながら雪辱の志なく自ら封殖するに留まり妄りに騒乱を招き寇讐の誅を遅らせ奸逆を並び起こさせ華夏を鼎沸させ民を疲弊させた、罪を恐れ朝に容れられず表向き進討を唱えながら内には苟免を求め寿陽に一年も逗留し天府の資と五州の力を傾け無頼を集めて自衛し爵命に節度なく猜忌害心を顧みなかった、范豐らは芍陂で反し奇徳・龍会は肘腋で変を起こした、羌の首長姚襄が帰化し母弟を人質に送ったのに浩はこれを慰撫せず陰謀で殺害しようとして刺客を再び送り襄に覚られた、襄が恐れて逆に転じたのはひとえに浩に始まる、しかも速やかに掃滅できず山桑で身を狼狽させ梁国で軍を破滅させ舟車兵糧を失った、神も人も怒り衆に見放され社稷を危うくする憂いがある、どうか唐堯の放命の刑と『春秋』の無君の典に照らし誅殺せずとも遠く荒裔に追放してほしいと述べた。
  • ついに罪に問われ庶人に廃され、東陽の信安県に流された。

桓温との確執と流刑後

  • 浩は若い頃から桓温と名声を並べ、常に心中で競っていた。温がかつて「君は私と比べてどうか」と問うと、浩は「私は君と長く付き合ってきたが、むしろ自分でありたい」と答えた。温は自らを英雄豪傑と任じ常に浩を軽んじたが、浩もこれを恐れなかった。この頃温は人に「幼い頃私と浩は竹馬で遊んだが、私が投げ捨てた竹馬を浩が拾って乗った、だから彼は私の下に立つべき人物なのだ」と語った。また郗超には「浩には徳も言葉もある、もし尚書令・僕射になっていれば百官の模範たり得ただろうに、朝廷は彼の才を誤って用いたのだ」とも語った。
  • 浩は追放されても怨言を発せず、泰然と天命を受け入れ談論と詠吟を絶やさなかった、家人でさえその流刑の悲しみを見ることがなかった。ただ終日空に「咄咄怪事」の四字を書いていた。浩の甥韓伯は浩に日頃から愛されており、流刑地まで随行し年を経て都に帰る際、浩は渚のほとりまで見送り、曹顔遠の詩「富貴は他人に合し、貧賤は親戚を離る」を詠み涙を流した。
  • 後に温が浩を尚書令に任じようとし書を送って告げると、浩は喜んで承諾した。返書を書こうとしたが誤りを恐れ何十度も封を開閉した末、結局空の封筒を送ってしまい、温を大いに怒らせ、これによって両者の関係は絶えた。永和12年(356年)卒去。
  • 子涓もまた美名があったが、咸安初、桓温が太宰・武陵王晞を廃した際、涓と庾倩が晞と共謀したと誣告され殺害された。

名誉回復

  • 浩の改葬に際し、故吏顧悦之は上疏して浩のために訴えた。故中軍将軍・揚州刺史殷浩は徳が深く純粋で識見も卓越し風流優雅で名声は当代随一だった、再び神州(中原)に臨み万里を粛清し勲績著しく朝廷にも称賛され分陝推轂(方面軍の統率)の任を授かった、寿陽に出鎮すると豺狼を駆逐し荊棘を切り開き義に向かう者を集め屯田を大いに開き苦労を厭わなかった、皇威を仰いで群醜が服し河洛に進軍し園陵を修復しようとしたが不慮の変により中途で頓挫し山を築く功が完成間際に崩れ忠款の志も廃れた、削黜を受けると自ら山海に身を退け門を閉じ世と絶ち克己復礼・窮而無怨の人と言うべきである、その罪は敗軍の常科であって永く責められるべき情ではない、その名徳と誠意はかくのごとく深く自ら過ちを悔い罪を認める態度もかくのごとしなのに見捨てて顧みなければ法に余りある冤罪が残ることになる、今すでに墓所は完成し埋葬されようとしているが庶人と同じ礼で葬られようとしている、どうか明詔を発して善人を旌表し本官を復し幽冥に彰らかにしてほしい、そうすれば国家の威恩は兼済の美をなし死者も心安んじられるだろうと訴えた。
  • 上疏は聞き入れられ、詔で浩の本官が追復された。