経歴
- 王廙、字は世将。丞相王導の従弟で元帝の姨弟(母方の従弟)。父は王正、尚書郎。
- 若くして文才に優れ、書画・音楽・弓馬・博打・雑伎に通じた。太傅の掾に召され参軍に転じた。大駕(元帝)を迎える功で武陵県侯に封じられ尚書郎を拝命、濮陽太守に出任。元帝が江左に鎮する際、廙は郡を捨てて渡江し、帝に大いに喜ばれ司馬となった。
- 廬江・鄱陽の二郡太守を歴任。周馥・杜韜討伐に参加し功により封邑を重ねて増し、冠軍将軍として石頭に鎮し丞相軍諮祭酒を兼ねた。王敦は上表して寧遠将軍・荊州刺史に推挙した。
『中興賦』上表
- 元帝即位に際し『中興賦』を奏上、上疏文を提出した。その要旨は、幼少より帝の恩を受け、濮陽で官を棄てて老母を扶け江を渡って帝のもとに帰した経緯、中興の慶事に立ち会えなかった悲喜、帝誕生時の瑞祥(白毫の瑞)や自身が体験した吉兆(壬申歳に四星が牽牛に集まったこと、郡の枯樟が甦生したこと、白兎・甘露、王導の語った金鐸の瑞、郭璞の予言など)を述べ、43歳になってなお報恩できていないことを憂い、『中興賦』一篇を献じたというもの。文が長いため省略。
荊州での失政と敗戦
- 王敦が陶侃を左遷し、廙を荊州刺史代行としたが、部下馬俊・鄭攀らが陶侃留任を上書、敦は許さなかった。廙は馬俊らに襲われ江安に逃走。賊杜曾は馬俊・鄭攀と結び第五猗を北から迎えて廙に対抗した。廙は諸軍を督して曾を討ったが敗れた。敦は湘州刺史甘卓・豫章太守周広らに廙を助けさせ曾軍を潰走させ、廙はようやく州に戻れた。
- 廙は性格が俊敏で率直、尋陽から都まで一日で帆走するなど豪放だった。王導が庾亮に「世将(廙)は時勢を傷める見識だ」と評すると、亮は「その逸気を発散させているだけだ」と応じた。
- 廙は州で陶侃時代の将佐を大いに誅殺し、征士皇甫方回も殺したため荊州の人望を大いに失い人心が離反した。帝は廙を輔国将軍・散騎常侍に召還。母の喪により去職、服喪明けに征虜将軍、左衛将軍に進んだ。
王敦の乱と死
- 王敦が禍を構えたとき、帝は廙を遣わして敦を諭させたが、廙は敦の逆心を諫めることができず、逆に敦に留められ乱を助ける役目を負わされた。敦が成功すると廙を平南将軍・領護南蛮校尉・荊州刺史とした。まもなく病没。
- 帝は縁戚の情から深く哀悼し、遺体が京都に還ると皇太子自ら柩を拝し、家人の礼をもって遇した。侍中・驃騎将軍を追贈、諡は康。
- 明帝が大将軍温嶠に送った書には「謝鯤を悼む言葉がまだ口から絶えないうちに、世将(廙)がまたこうなった。ともに盛年の俊才でありながら志を遂げられず、痛切の思いである。廙は博識で通達、鯤は識見が深遠だった。その言葉は必ずしも人を改心させるものではなかったが、味わって飽きないもので、近頃は得難い」とあった。
子孫
- 子頤之が継ぎ、東海内史に至った。頤之の弟胡之、字は修齢、若くして名声があり、郡守・侍中・丹陽尹を歴任。持病の風眩(めまい)を患いながらも識見は衰えなかった。石季龍(石虎)死去の際、朝廷は河洛の慰撫に胡之を西中郎将・司州刺史・仮節としようとしたが病により固辞、赴任前に卒去。
- 子茂之も美名があり晋陵太守に至った。子敬弘は義熙末に尚書となった。
弟彬――経歴と気骨
- 王彬、字は世儒。若くして雅正と称され、州郡の招聘に応じなかった。光禄大夫傅祗に掾として招かれた。兄廙とともに渡江し、揚州刺史劉機の建武長史となった。元帝に鎮東賊曹参軍として引き立てられ典兵参軍に転じた。
- 華軼討伐の功により都亭侯に封じられ、愍帝に尚書郎に召されたが道の危険により応じなかった。建安太守に遷り義興内史に徙り、赴任前に軍諮祭酒に転じた。
- 中興建国後、次第に侍中に遷った。従兄王敦が石頭で挙兵した際、帝は彬に敦を慰労させた。周顗が殺害されると、彬は日頃から親しかった周顗のため先に哭泣して深く哀悼した後、敦に会い、悲しむ理由を問われて「先に伯仁(周顗)を哭したが、悲しみが尽きない」と答えた。敦は「伯仁は自ら刑戮を招いたのだ、まして凡人がお前をどう扱おうと構わないだろう」と怒った。
- 彬は「伯仁は長者であり君の親友、朝廷で正論を述べたわけではないが党派を組んだわけでもないのに、赦免後に極刑に処されたのは痛惜すべきだ」と述べ、さらに敦を激しく責め「兄は旗を掲げて順に逆らい忠良を殺戮し、不軌を謀って禍を一門に及ぼした」と言った。声涙ともに下る様に敦は激怒し「お前の狂悖ぶりはここまでか、私がお前を殺せないとでも思うか」と言った。王導がその場におり恐れて彬に謝るよう勧めたが、彬は「脚の病があってから天子にすら拝礼したくないのに、何を跪くことがあろうか。何を謝ることがあろうか」と応じた。敦は「脚の痛みと首の痛みとどちらがましか」と言ったが、彬は意気自若として恐れる様子がなかった。
- その後敦が京師への進軍を議した際も彬は強く諫めた。敦は色をなし左右に彬を拘束させようとしたが、彬は正色して「君は昔兄(棱)を害し、今また弟を殺すのか」と言った。以前、彬の従兄で豫章太守の棱が敦に殺されており、敦は彬が親族であることから容認していた。まもなく彬は豫章太守となった。
- 彬は人となり質朴・方正で華美を好まず、高位にあっても常に布衣粗食であった。前将軍・江州刺史に遷った。
弟彬――王敦死後
- 敦の死後、王含は王舒のもとへ身を投じようとし、王応は含に彬のもとへ行くよう勧めたが、含は「大将軍(敦)は平素、江州(彬)とどう関わっていたか、それでも行くのか」と問うた。応は「それゆえにこそ行くべきだ。江州は敦が強勢のとき異を唱えられる人物で、常人には及ばぬこと。衰亡を見れば必ず憐れみを起こすはず。荊州(舒)は杓子定規で、意外なことを行えるはずがない」と答えたが、含は従わず舒のもとへ投じ、舒は果たして含父子を江に沈めた。彬は応が来ると聞き密かに船を用意して待ったが来ず、深く恨んだ。
- 敦の乱平定後、有司は彬と兄の子で安成太守籍之が敦の親族であるとして除名を上奏。詔に「司徒導は大義のため親を滅したが、その子孫に多少の非があっても百世これを宥すべきである、まして彬らは公(導)の近親である」として赦された。
- 光禄勲に召還され度支尚書に転じた。蘇峻平定後、新宮改築で彬は大匠となり、その功により関内侯を賜り尚書右僕射に遷った。在官のまま卒去、享年59。特進・衛将軍・散騎常侍を追贈、諡は肅。長子彭之が継ぎ黄門郎に至った。次子彪之が最も知られる。
彬子彪之――経歴と直言
- 王彪之、字は叔武。20歳で鬢髭が白くなり、当時「王白鬚」と呼ばれた。初め佐著作郎・東海王文学に任じられた。従伯王導が「選官はお前を尚書郎にしたいのに、諸王の佐官でよいのか」と言うと、彪之は「地位の多少は計るに足らず時に任せるべきで、急な昇進は望まない」と述べ、結局尚書郎となった。
- 鎮軍将軍・武陵王晞の司馬となり、尚書左丞・司徒左長史・御史中丞・侍中・廷尉を歴任。
- 永嘉太守謝毅が赦免後に郡人周矯を殺害した事件で、矯の従兄球が州に訴え、揚州刺史殷浩が従事に毅を逮捕させ廷尉に付した。彪之は球が訴訟の主体であり王爵を持たないため廷尉の管轄外として受理を拒み州と対立したが、穆帝の詔で受理させられた。彪之はさらに上疏して立場を主張、当時の人々は前漢の張釈之に比した。
- 南郊の祭祀で赦令の可否を尋ねられた際、簡文帝(当時撫軍)に「中興以来、郊祀のたびに赦免があるのは適切でない。民衆はその意を理解せず、郊祀には必ず赦があると思い込み、凶愚の輩が僥倖の心を抱く」と答え、その意見が採用された。
彬子彪之――吏部尚書としての人事批判
- 吏部尚書に転任。簡文帝の命で秣陵令曲安遠を句容令に、殿中侍御史奚朗を湘東郡太守に補そうとしたが、彪之は「秣陵令は三品県だが、句容は近畿の佳邑であり卜術の才しかない者を任じてよいのか。湘東は遠小だが奚朗の任用も卜術で進んだと見なされる。殿下がもし寒門の才を抜擢するならそれでよいが、奚朗らは凡庸で今回の選には値しない」と執奏し従わなかった。
彬子彪之――桓温の北伐と殷浩への進言
- 太尉桓温が北伐を望むも度々許されなかった。温が武昌に下ると人心が動揺、殷浩に身を引かせようとする者もいたが、彪之は簡文に「これは社稷のためでなく、皆自らの保身のための計にすぎない。殷浩が去職すれば人心が崩れ、天子は孤立する。その責任は殿下が負うことになる」と述べた。
- また殷浩に「彼(桓温)が上表して罪を問うたのは、卿が矢面に立たされているということだ。事の成り行きはすでに疑いが構築されており、匹夫となろうとしても全き地はない。まず静観すべきだ。相王(簡文)から手書を送り誠意を示し利害を説けば温は必ず旋回するはずだ。従わなければ詔で命じ、それでも従わなければ正義によって裁くべきだ、いたずらに慌てて先に躓くべきではない」と説いた。殷浩は「大事の決断は難しく悶々としていたが、卿のこの計を聞いて腹が決まった」と応じ、温も帝の意向を受け結局進軍しなかった。
彬子彪之――官制改革の上奏
- 官僚の増加と頻繁な異動を憂い、彪之は上議した。要旨は、為政の道は賢を得ることを急務とし、蒞任の道は長く在ることにある。凡庸な者が多く賢才が少ないのに官職が朝廷に多いため清濁を問わず官に就かせることになり、官が多ければ欠員も多く欠員が多ければ異動が速くなる、これが職務が修まらず朝廷の風紀が澄まない原因であり、職務を修めるには官を省き、風紀を澄ますには職を併せることが必要である、というもの。
- さらに六卿の職務について具体的な統廃合案(太常と宗正の統合、宿衛諸官の整理、無兵の軍校の廃止、四軍廃止に伴う左軍の改称など)を提案し、侍中以下の定員も従来4人から中興初の2人体制を経て3人に調整すべきと述べた。
彬子彪之――疫病時の措置と姚襄の乱の予見
- 永和末、疫病流行時、旧制で家族に伝染病者が3人以上出ると本人が無病でも100日は入宮できなかったため、多くの官が出仕を控えた。彪之は「疫病の年は感染を免れる家がない、これでは宮中の宿直が欠乏する」と述べ、朝廷はこれに従った。
- 長安の雷弱児・梁安らが苻健・苻眉殺害を詐称し援兵を求めた際、殷浩が洛陽進出・山陵修復を図ったが、彪之は病で帰郷中も簡文帝に上書し「弱児らの言は詐偽の疑いがあり、浩は軽々に進軍すべきでない」と諫めた。果たして弱児は詐りであり姚襄も反して浩は大敗、譙城に退いた。簡文は彪之に「まさに君の言う通りだ、近頃の君の謀は的中し続けている、張良・陳平もこれに及ばない」と笑って語った。
彬子彪之――簡文帝側近としての諸事
- 領軍将軍に転じ、尚書僕射に遷ったが病により拝せず。太常に徙り崇徳衛尉を兼ねた。武陵王が兵器を整備し謀反を企てているとの噂に対し、彪之は「武陵王の志は狩猟に尽きる、深く静観すべきだ」と答え、簡文を安心させた。
- 再び尚書僕射に転任。豫州刺史謝奕の死去に伴う後任選びで、簡文が桓雲(桓温の弟)を挙げると、彪之は「雲は才が無いわけではないが、温が上流に居て天下の半ばを割拠している上、弟までが西藩を担い兵権が一門に集中するのは根を深く固める上で好ましくない」と述べ、簡文はこれに同意した。
彬子彪之――会稽内史としての善政と桓温への対応
- 鎮軍将軍・会稽内史・散騎常侍に転じ、8年間郡にあって豪族を抑え、逃亡していた戸3万余口が帰還した。
- 桓温が姑孰に鎮し威勢が主君を圧するようになると、四方が上佐を送って敬意を示す中、彪之は「大司馬は富貴であるが朝廷には宰相があり、政務の可否は自ら奏上すべきもの、上佐を送って天子への貢献に代えるのはおかしい」として送らなかった。
- 温は山陰県の布米の未納を理由に彪之を郡が糾弾しなかったとして免官させた。彪之は郡を去る際、罪を得て未だ州台に赴いていなかった者たちを皆赦して解放した。温はこれも罪とし檻車で拘束させたが、赦免により免ぜられ、降格して尚書となった。
彬子彪之――桓温の廃立への対応
- まもなく僕射に復帰。桓温が海西公(廃帝)の廃立を図った際、百官は震え上がり温自身も動揺していたが、彪之は温の不臣の実態がすでに明らかで道理上覆せないと判断し、「公が皇家を輔佐するなら先代の故事に倣うべきだ」と『霍光伝』を取り寄せさせ、儀礼を瞬時に定め、恐れる様子もなかった。温は「元凱(名臣)たるものはこうあるべきだ」と嘆じた。
- 廃立の儀は久しく絶えていた古典で朝臣の誰もその典故を知らなかったが、彪之は毅然として朝服のまま階に立ち、文武の儀は彼が定めるところに従い、朝廷はこれに服した。
- 温はさらに武陵王遵を廃そうとし彪之に諮ったが、彪之は「武陵王は近親で顕著な罪もなく、疑わしいというだけで廃徙すべきでない。公が聖明を建て遠近の心を得たのは王室を崇め伊尹・周公と美を同じくするためであるべき、これは大事、さらに詳細に検討すべきだ」と述べたが、温は「これはすでに決まったことだ、もう言うな」と退けた。
彬子彪之――簡文帝崩御後の対応
- 簡文帝が崩御すると群臣は疑惑を抱き嗣立を決めかねた。大司馬(桓温)の指示を待つべきとの声もあったが、彪之は「君が崩じれば太子が代わって立つのが道理、大司馬にどうして異論があろうか。もし先に諮れば必ず責められることになる」と正色して述べ、朝議はこれで定まった。
- 孝武帝即位に際し、太皇太后は帝が幼少で諒闇にあることを理由に桓温に周公の摂政の故事に倣わせようとしたが、彪之は「これは異常な大事で大司馬は必ず固辞するはず、そのため万機が停滞し山陵(葬儀)も遅延する、まだ命を奉じられない」と、詔を封じ返してその実施を止めた。
彬子彪之――九錫辞退の勧め
- 温が病にかかり、朝廷に九錫を求めるよう仄めかし、袁宏に文を作らせて彪之に見せた。彪之は読み終えると文辞の美しさを嘆じ、宏に「卿はまことに大才だが、なぜこれを人に見せるのか」と言った。謝安もこの文を見て宏に何度も改めさせ、宏はためらい引き延ばした。宏が彪之に相談すると、彪之は「彼(温)の病は日増しに重くなっていると聞く、長くは持たないだろう、少し先延ばしにしてよい」と答え、宏はこれに従い、まもなく温は薨じた。
彬子彪之――謝安との朝政運営
- 桓沖と謝安が朝政を輔佐した際、謝安は新たに元輔(桓温)を喪い主上(孝武帝)がまだ万機を親覧できないことから太皇太后の臨朝を主張したが、彪之は「先代では主君が幼少で母子一体だから臨朝できたが、太后とて政事を独断できず、結局は僕(自分)や君たちに諮問することになる。今上は10歳を超え婚冠も近いのに嫂(太后)に臨朝させれば人君の幼弱を示すことになる、翼戴賛揚の道と言えるのか。二君(桓沖・謝安)がどうしてもというなら僕に止められることではないが大体を惜しむのみだ」と述べた。実は謝安は桓沖に委任したくなかったため太后臨朝を望んでおり、彪之はその意図を察せず異論を述べたが、安は結局従わなかった。
彬子彪之――尚書令としての最晩年
- 尚書令に遷り謝安とともに朝政を掌った。安は常に「朝廷の大事で衆議で決しかねることは、王公(彪之)に諮れば必ず判断がつく」と述べた。老齢により骸骨を乞う上疏をしたが許されず、護軍将軍・散騎常侍に転じた。
- 謝安が宮室の造営を望んだ際、彪之は「中興初は東府で即位し質素だったが元帝・明帝も改めなかった。蘇峻の乱で成帝は蘭台の座で寒暑を凌げなかったため修築したにすぎず、漢魏に比べれば質素だが陋劣でもない、豊約の中庸を保っている、今は必要に応じ増築修補すれば足りる。強敵がまだ滅んでいないこの時期に大規模な造営をして百姓を労するべきでない」と述べた。安は「宮室が立派でなければ後世に人材がいなかったと言われる」と反論したが、彪之は「天下の事に任ずる者は国を保ち家を安んじ朝政を允当にすることこそが能であり、屋宇の修築で能を示すべきではない」と述べ、安も反論できず、彪之の在世中は造営が改められなかった。
彬子彪之――最期
- 光禄大夫・儀同三司を加官されたが未拝のまま病篤くなり、帝は黄門侍郎を遣わして病状を尋ね、医薬料として銭30万を賜った。太元2年(377年)、享年73で卒去。光禄の官のまま追贈、諡は簡。
- 二子、越之(撫軍参軍)、臨之(東陽太守)。
彬従兄棱――王敦への諫言と死
- 王棱、字は文子、彬の季父(叔父)で国子祭酒琛の子。若くして清官を歴任。渡江後、元帝の丞相従事中郎となった。従兄王導は棱に政事の才があるとして豫章太守・広武将軍に任じた。
- 棱は従兄王敦の驕慢と上を凌ぐ野心を察し、日夜諫めて自制と盟主(元帝)の推戴を説いたが、敦は容れられずひそかに人を使って棱を殺害させた。
- 弟の侃も知られ、若くして顕職を歴任し呉国内史に至った。