晉書卷七十四 列傳第四十四 桓彝

桓彝――出自と若年期

  • 桓彝は字を茂倫といい、譙国龍亢の人。漢の五更(尊称)桓栄の九世孫にあたる。父の桓顥は郎中に至った。桓彝は幼くして孤児となり貧しかったが、簞食瓢飲の暮らしにも動じなかった。性格は通達明朗で早くから名声を博し、人物を見抜く鑑識眼を持ち、無名の者や幼児の中からも才を見出し、時人は許劭・郭泰に比した。若くして庾亮と深く交わり周顗にも重んじられた。周顗はかつて「茂倫は険しく起伏に富む、まことに人を笑わせる」と称した。州主簿から起家し、斉王司馬冏の挙兵に赴き騎都尉を拝した。元帝が安東将軍であった頃、逡遒令に版任された。まもなく丞相中兵属に招かれ、累遷して中書郎・尚書吏部郎となり朝廷に名を知られた。

桓彝――徐寧の推挙と王敦への警戒

  • 王敦が権勢を擅にし士望ある者を嫌忌していた頃、桓彝は病により去職した。輿県を通りかかった際、県宰の徐寧(字安期)が通達博学であったので歓待し、数日滞在して交わりを結んで別れた。かねて庾亮は桓彝に良き吏部候補を求めており、都へ戻った桓彝が「卿のために吏部候補を得た」と告げ、徐寧の人柄を「人が持つべきものを必ずしも持たず、人が持たぬべきものを必ずしも持たない、海岱の清士だ」と評してこれを取り持ち、徐寧は吏部郎に昇進し顕職を歴任した。

桓彝――王敦誅殺の功と宣城内史

  • 明帝が王敦討伐を計画すると、桓彝は散騎常侍を拝し密謀に参画した。敦の乱平定後、功により万寧県男に封ぜられた。丹陽尹温嶠が「宣城は山川に囲まれ度重なる変乱を経ており、望実ある者に治めさせるべきだ、桓彝がその任にふさわしい」と上言した。帝は「太真(温嶠)の表がこのようだ、大事が定まったばかりで朝廷は人材を要する、その方がいなくて国が成り立とうか」との手詔を下した。桓彝は深く辞退しつつも祖先の墓所がこの郡にあることから宣城内史を受け、善政を行い百姓に慕われた。

桓彝――蘇峻の乱での最期

  • 蘇峻の乱に際し、桓彝は義兵を糾合して朝廷に馳せ参じようとした。長史の裨恵は郡の兵が寡弱で山民が動揺しやすいことから当面は兵を伏せて後の機を待つべきと進言したが、桓彝は色をなして「君に無礼を働く者を見て黙っていられようか」と述べ、将軍朱綽を蕪湖に遣わして賊の別働隊を破らせた。桓彝は石硊に出陣したが、朝廷の将軍司馬流が慈湖で先に賊に敗れたため賊は長駆して迫り、堅城を持たぬ桓彝は広徳へ退いた。まもなく王師が敗れたと聞き桓彝は慷慨して涙を流し涇県に進屯した。
  • 州郡の多くが峻に降伏する使者を送る中、裨恵は再び偽って和を通じ災いを避けるよう勧めたが、桓彝は「国の厚恩を受けた身、義において死を致すのみ、どうして醜逆の徒と誼を通じられようか」と拒んだ。将軍俞縦に蘭石を守らせたが、峻の将韓晃に攻められ敗れる際、周囲が退却を勧めても俞縦は「桓侯の厚恩を受けた身、桓侯が国を裏切らぬように私も桓侯を裏切れない」と述べ力戦して戦死した。
  • 韓晃は勢いに乗じて桓彝を攻めた。桓彝は一年余り城を守ったが勢い尽き、賊が「降れば厚遇する」と持ちかけ将士も偽装降伏を勧めたが、桓彝はこれを拒み節を曲げなかった。城が陥落すると韓晃に殺害された、享年53。当時なお賊が平定されておらず子らは皆離散したが、宣城の紀世和が義によりその遺骸を葬った。賊平定後、廷尉を追贈され諡は簡、咸安年間に太常を改贈された。俞縦もまた死節により興古太守を追贈された。
  • かつて桓彝は郭璞と親しく、郭璞に占わせた際、卦が出ると郭璞は自らそれを壊し「卦は私と同じだ、丈夫たる者この非命の死に遭う、いかんともしがたい」と述べたが、まさにその言葉通りとなった。桓彝には五子(温・雲・豁・秘・沖)があり、桓温には別伝がある。

桓雲――生涯

  • 桓雲は字を雲子といい、初め驃騎何充の参軍・尚書郎となったが拝命しなかった。父の爵万寧男を襲い、建武将軍・義成太守を歴任。母の喪により去職、服喪後に江州刺史に起用されたが病と称し墓の傍らに廬した。詔書で強く促されても固辞し、服喪明けにようやく就任した。都督司豫二州軍事・領鎮蛮護軍・西陽太守・仮節を加えられた。桓雲は兵力を求めて強引な徴発を行い民の怨嗟を買ったが、桓温が権を握っていたため有司も弾劾できなかった。昇平4年(360年)に卒去、平南将軍を追贈され諡は貞。子の桓序が嗣ぎ、宣城内史に至った。

桓豁――軍歴

  • 桓豁は字を朗子といい、初め司徒府・秘書郎に招かれたがいずれも応じなかった。簡文帝が撫軍従事中郎に召し、吏部郎に任じられたが病により辞した。黄門郎に遷るも拝命前に、謝万が梁濮で敗れ許昌・潁川の諸城が相次いで陥落し西方が動揺した際、桓温は桓豁に沔中七郡軍事の監督・建威将軍・新野義成二郡太守を命じ、慕容の屈塵を撃破して右将軍に進んだ。桓温が内地に還ると桓豁は荊揚雍州軍事の監督・領護南蛮校尉・荊州刺史・仮節となった。梁州刺史司馬勲が梁益で叛くと参軍桓羆にこれを討たせた。南陽督護趙弘・趙憶らが太守桓淡を追放し宛城で叛くと竟陵太守羅崇と共に討破した。また偽の南中郎将趙盤を宛で攻め魯陽まで追撃して捕らえ京師に送った。寧益軍事も監督した。桓温薨去後、征西将軍に遷り交広並前五州軍事の監督に進んだ。

桓豁――対苻堅戦と辞退の上疏

  • 苻堅が蜀に侵攻すると桓豁は江夏相竺瑤を派遣して防がせたが、広漢太守趙長らが戦死し瑤は退却した。まもなく堅が涼州に侵攻すると、弟の桓沖が輔国将軍朱序と桓豁の子で江州刺史の桓石秀を派遣して連携し、桓豁も督護桓羆を序らとともに沔漢の遊軍とし涼州の後援とした。まもなく張天錫が陥落すると詔により中書郎王尋之が桓豁のもとへ赴き辺事を諮った。桓豁は梁州刺史毛憲祖に沔北軍事を、兗州刺史朱序に沔中軍事を監督させ襄陽に鎮させ北辺を固めることを表上した。
  • 太元初年、征西大将軍・開府に遷った。桓豁は固く辞退する上疏を上げ、自らの徳望が任に及ばないこと、賢俊の登用こそ功業の要であることを述べたが許されなかった。苻堅が仇池を陥落させると、桓豁は新野太守吉挹を行魏興太守・督護梁州五郡軍事として梁州を守らせた。堅が涪城を陥落させると梁州刺史楊亮・益州刺史周仲孫は防備を放棄して敗走した。桓豁は威略が振るわず各地で敗れたことを理由に再び上疏し辞退、開府を固辞したまま拝さなかった。まもなく卒去、享年58。司空を追贈され本官はそのまま、諡は敬。銭五十万・布五百匹が贈られ、使者が節を持して喪事を監護した。桓豁の名声は弟の桓沖には及ばなかったが器量は優れていた。ただ強敵に遭ったため功業が振るわなかった。

桓豁の子たち――符堅の童謡と石を名に持つ子ら

  • 桓豁は苻堅国内の童謡「誰か爾を堅石打ち砕くと謂うや」を聞き、20人の子に皆「石」の字を名に用いて応じさせた。石虔・石秀・石民・石生・石綏・石康が特に名を知られた。

桓石虔――勇武の逸話

  • 桓石虔は幼名を鎮悪といい、才幹があり敏捷絶倫であった。父の在荊州時代、狩猟中に猛獣が数本の矢を受けて伏しているのを、督将たちがからかって矢を抜かせようとしたところ、石虔が急に近づき一矢を抜くと猛獣が跳ね起き、石虔もこれに劣らぬ高さで跳んで猛獣を再び伏させ、もう一矢を抜いて戻った。桓温に従って関中に入った際、桓沖が苻健の軍に包囲され危機に陥ると、石虔は単騎で駆けつけ数万の敵中から沖を救い出し、誰も敵わなかった。三軍はこれに感嘆し敵にもその威名が轟いた。瘧病を患う者に「桓石虔が来る」と言って脅すと病が治ることが多かったほど、その勇名は畏怖された。

桓石虔――軍功

  • 袁真が壽陽で叛いた際、石虔は寧遠将軍・南頓太守として諸将を率いて攻め南城を陥した。また苻堅の将王鑒を石橋で撃ち馬五百匹を得た。竟陵太守に除せられたが父の喪により去職。まもなく苻堅が淮南に侵攻すると、詔で「石虔は文武の器量を持ち禦戎に長ける、古人も哭泣を絶って戦った例がある、まして喪に服す身とはいえ事を辞すべきでない」として奮威将軍・南平太守に任じられ、まもなく冠軍将軍に進んだ。苻堅の荊州刺史梁成・襄陽太守閻震が竟陵に侵攻した際、石虔は弟の石民とともに防ぎ、賊が拠る敖水を夜のうちに渡って力戦して破り、管城を陥落させ閻震を捕らえ、首七千級を斬り一万人を捕虜とし馬数百匹・牛羊千頭・具装鎧三百領を得た。梁成は軽騎で襄陽に逃れた。石虔は河東太守を兼ね樊城に進駐し堅の兗州刺史張崇を追い、二千家の降伏を受け入れて帰った。桓沖の没後、石虔は冠軍将軍・監豫州揚州五郡軍事・豫州刺史となったが母の喪により去職。服喪後に本位に復した。後に馬頭への移鎮を命じられ暦陽への留任を求め許された。太元13年(388年)に卒去、右将軍を追贈された。閻震討伐の功により作塘侯に爵を進められた。第五子の桓誕が嗣いだ。誕の長兄の桓洪は襄城太守。洪の弟が桓振。

桓振――江陵での擅権

  • 桓振は字を道全といい、若くして果断だが素行が悪かった。桓玄が荊州刺史のとき揚武将軍・淮南太守に任じられ、江夏相に転じたが凶暴さから黜けられた。桓玄の敗北に際し、桓謙は沮中に隠れ、振も華容の沮中に逃れた。桓玄配下の将軍王稚徽が巴陵を守っていたが偽情報(桓欽が京邑を克服し馮稚らが尋陽を平定し劉毅の諸軍が敗れたとの虚報)を振に伝え、振は大いに喜んだ。時に安帝は江陵にあり、振は数十人を集めて江陵を襲撃、城に至る頃には二百人に膨れ上がっていた。桓謙も兵を集めて出撃し江陵を陥落させ、行宮の帝を迎えた。振は桓升の死を聞き激怒して帝に逆意を向けようとしたが謙が固く止めた。楚の帝位を放棄し晋への帰順を装って璽綬を返上する体を取り、琅邪王を徐州刺史とし、振自身は都督八州・鎮西将軍・荊州刺史となった。帝の側近は皆振の腹心となったが、帝は「昔早くに私を用いなかったからこの敗北を招いた、もし私がいれば先鋒として天下を平定できたものを、今独りでこのようなことをして何を得ようというのか」と嘆いたと伝わる。振はこれを機に酒色に耽り暴虐無道の限りを尽くした。

桓振――敗死

  • 振は江津に陣を構えた。南陽太守魯宗之が襄陽から振の将温楷を柞溪で撃破し紀南に進駐した。振は楷の敗報を聞くと将の馮該に営を守らせ、自ら軍を率いて宗之と大戦、振は三軍に冠たる勇武で誰も敵わず、宗之は大敗した。振は追撃の途中、単騎で道を行く宗之に遭遇したが気づかず所在を尋ねると、宗之は「もう先に逃げた」と偽って答え難を逃れた。まもなく劉毅らが馮該を破って江陵を平定すると、振は敗報を聞いて衆が潰走した。後に該の子の馮宏とともに溳城から出て再び江陵を襲撃、荊州刺史司馬休之は襄陽に逃れ、振は自ら荊州刺史を称した。建威将軍劉懐肅が寧遠将軍索邈とともに沙橋で振と戦い、振の兵は少なかったが左右皆力戦し、振は毎回目を怒らせて奮撃し誰も対抗できなかった。振は酔った上に流れ矢に当たり、広武将軍唐興に陣中で斬られた。

桓石秀――風雅な人柄

  • 桓石秀は幼くして令名があり、風韻秀逸で経書に広く通じ特に『老子』『荘子』を好んだ。常に一室に籠もり応接を簡素にし、時人は庾純に比した。簡文帝に重んじられた。桓豁が荊州にあった頃、鷹揚将軍・竟陵太守に招いたが好みに合わなかった。まもなく叔父の桓沖に代わり寧遠将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽太守として尋陽に居した。放縦な性格で常に漁猟に興じ栄爵を意に介さなかった。騎射に優れ命中率も高かった。桓沖に従って九井山で狩猟した際、大勢の見物人の中で石秀は目もくれず嘯詠するのみであった。謝安が世事について尋ねても黙して答えず、安は不思議に思った。後日、安が謝嗣(従弟)に問わせると石秀は「世事はこの方(謝安)の熟知するところ、私が何を言おうか」と答えた。在職5年で疾により去職。43歳で家にて卒去、朝野は惜しんだ。後将軍を追贈され、後に太常に改贈。子の桓稚玉が嗣いだ。桓玄の簒奪の際、桓石秀一門の令名によって稚玉は臨沅王に封ぜられた。

桓石民――荊州刺史としての功績

  • 桓石民は弱冠にして名を知られ、衛将軍謝安に参軍として招かれた。叔父の桓沖の上表により荊江豫三州十郡軍事の督・振武将軍・領襄城太守として夏口を守り、石虔と共に苻堅の荊州刺史梁成らを竟陵で攻めた。翌年には隨郡太守夏侯澄之と共に堅の将慕容垂・姜成らを漳口で破った。譙国内史・梁郡太守も兼ねた。桓沖の薨去後、詔により監荊州軍事・西中郎将・荊州刺史となった。桓氏は代々荊土を治めており、石民も才望を兼ね備えていたため人々の信望を集めた。
  • かねて桓沖が竟陵太守趙統に襄陽討伐を命じていたが、石民もこれに兵を派して助けた。まもなく苻堅が淮肥で敗れると、石民は南陽太守高茂を遣わし山陵を守衛させた。堅は敗れつつも慕容垂らはなお盛んであったため、石民は将軍晏謙を弘農討伐に遣わし、堅の東中郎将慕容夔を降した。湖・陝二戍を初めて設置した。関中から鹵獲した楽人を得て太楽に充てた。苻堅の子丕が河北で僭号し洛陽を襲おうとした際、石民は将軍馮該に討たせ隈で丕を斬り、左僕射王孚・吏部尚書苟操らも共に首を京都に送った。丁零の翟遼が山陵に迫った際は河南太守馮遵を遣わし討たせた。乞活の黄淮が并州刺史を自称し遼と共に長社を攻めた際は南平太守郭銓・松滋太守王遐之に淮を討たせ斬り、遼は河北へ逃れた。以上の功により左将軍に進んだ。卒去、子はなかった。

桓石生・桓石綏・桓石康

  • 桓石生は隆安中に司徒左長史から侍中に遷り、驃騎・太傅長史を歴任した。会稽の世子司馬元顕が桓玄を討とうとした際、石生は書を馳せて玄に報せ、玄は深く感謝した。玄が権勢を握ると前将軍・江州刺史とされたが、まもなく官にて卒去した。
  • 桓石綏は元顕の時代に司徒左長史となった。桓玄が権を握ると黄門郎・左衛将軍を拝したが、玄が敗れると江西の塗中に逃れ衆を集めて暦陽を攻め、後に梁州刺史傅歆之に殺された。
  • 桓石康は特に桓玄に寵愛され、玄が荊州にあった頃振威将軍に任じられ、後に荊州刺史に累遷した。庾仄討伐の功により武陵王に封ぜられた事跡は「玄伝」に詳しい。

桓秘――生涯

  • 桓秘は字を穆子といい、若くして才気があったが世俗に馴染まなかった。初め秘書郎を拝したが兄の桓温に抑えられ用いられなかった。後に輔国将軍・宣城内史となった。梁州刺史司馬勲が蜀に叛入した際、桓秘は本官のまま梁益二州征討軍事の監督・仮節となり、勲平定後に郡に還った。後に散騎常侍となり中領軍に転じた。孝武帝即位直後、妖賊盧竦が宮中に入った際、桓秘は左衛将軍殷康とともに撃退し、桓温が入朝してひそかに竦の一件を調査し尚書陸始らを捕らえ罪に問われる者が多く出た。桓秘も免官され、宛陵に居して常に憤懣の色を見せた。桓温が病篤くなると、桓秘は温の子熙・済らと桓沖の廃立を謀ったが、沖はこれを察知し入京しなかった。まもなく桓温が没する直前、力士を遣わして熙・済を先に拘束し、その後に喪に臨んだ。桓秘はこうして廃棄され墓所に隠棲し田園に志を放ち山水に遊んだ。後に散騎常侍に起用されたが三度上表して辞退した。詔で「秘は先朝の恩遇を受けたためこれに召したが、しきりに辞退の表を上げ、隠棲の志と病を訴えている、その意に順じるのがよい」とされた。桓秘は普段から桓沖を軽んじ、沖が貴盛となると常侍の位を卑しいとして朝命に応じず、謝安への書簡や詩十首を送り、その文には多く簡文帝の寵遇への言及があった。桓沖より先に卒去した。長子の桓蔚は散騎常侍・遊撃将軍に至った。桓玄の簒奪の際、醴陵王に封ぜられた。

桓沖――若年期と桓温の質子

  • 桓沖は字を幼子といい、桓温の弟の中で最も見識があり武幹に優れ、桓温に重んじられた。弱冠で太宰・武陵王司馬晞に招かれたが応ぜず、鷹揚将軍・鎮蛮護軍・西陽太守に除せられた。桓温の征伐に従い功を立て、荊州之南陽襄陽新野義陽順陽雍州之京兆揚州之義成七郡軍事の督・寧朔将軍・義成新野二郡太守となり襄陽に鎮した。桓温の姚襄討伐にも従い、周成を虜にした功で征虜将軍に進み豊城公に封ぜられた。まもなく振威将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽譙二郡太守に遷った。姚襄討伐で捕らえた張駿・楊凝らは尋陽に移されたが、桓沖が江陵にありまだ赴任していない間に、張駿が徒党五百人で江州督護趙毗を殺し武昌の府庫を掠奪して妻子を連れ北へ逃げようとした事件が起き、桓沖は将を遣わし討ち捕らえて急ぎ任地に戻った。
  • かつて父桓彝の死後、桓沖兄弟は幼く家が貧しく、母が病んだ際に薬にする羊を得る術がなかったため、桓温は桓沖を質に出した。羊の主人は裕福で質を望まず、桓沖を幸いにも「買徳郎」として養った――買徳郎は桓沖の幼名である。桓沖が江州刺史となった際、羊の主人が堂の傍らで狩猟を見物していたのを見つけ「私が買徳です」と名乗り出て厚く報いた。まもなく監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎将・仮節に進み、州郡はそのままであった。

桓沖――桓温薨去後の輔政

  • 江州で13年を過ごすうちに桓温が薨去した。孝武帝は桓沖を中軍将軍・都督揚江豫三州軍事・揚豫二州刺史・仮節に任じた。桓温の葬礼に際し銭布漆蝋などの物が下賜されたが大殮には及ばなかったため、桓沖は上疏して温が常に清倹を旨としていたこと、私財で凶事を賄うに十分であることを述べ官庫からの支給返上を求めたが、詔は許さず、桓沖はなお固辞して受けなかった。かつて桓温が権勢を握っていた頃は死罪の判決も自ら決していたが、桓沖が事を執るに及び、生殺の重さを慎重に扱うべきとして死罪はすべて上申の上で裁可を待つ制度に改めた。桓沖は温に代わって任に就いても忠を尽くし王室に仕えた。時望を排除して権を専らにするよう勧める者もあったが桓沖は従わなかった。

桓沖――謝安への譲位と鎮所の変遷

  • 謝安が時望により輔政すると、桓沖は圧迫を感じ、寧康3年(375年)に自ら揚州を解いて外任を求めた。桓氏の党与はこれを非策として諫めたが、桓沖は超然としてこれを聞き入れず、恨む様子もなく忠言・嘉謀に尽力し続けた。都督徐兗豫青揚五州之六郡軍事・車騎将軍・徐州刺史に改められ、北中郎府を中軍に併せ京口に鎮し仮節を帯びた。桓沖と謝安はともに侍中を加えられ甲杖五十人を伴い入殿を許された。丹陽尹王蘊が皇后の父として謝安に近しかったため、安は蘊を方伯に出そうとし、再び桓沖の徐州を解いて車騎将軍として豫江二州之六郡軍事の督とし、京口から姑孰に移鎮させた。

桓沖――苻堅への対応と江州経略

  • 苻堅が涼州を侵すと、桓沖は宣城内史朱序・豫州刺史桓伊を寿陽へ、淮南太守劉波を淮泗へ派遣し虚を突いて涼州を救おうとし、上表して氐族の凶暴さと自国の脆弱な防備を指摘し、南郡へ進撃して征西将軍桓豁と協力する意向を述べた。詔答では敵の凶暴を認めつつ将軍の深謀を称え、群臣とも協議した上で征西と協力した施策を求めた。まもなく張天錫が陥落し兵は解かれた。まもなく桓豁が卒すると、桓沖は都督江荊梁益寧交広七州揚州之義成雍州之京兆司州之河東軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史・持節に遷り、子の桓嗣を江州刺史とした。桓沖の赴任に際し帝は西堂で餞し銭五十万を賜り、酒三百四十石・牛五十頭を文武百官に犒賜した。謝安は溧洲まで送った。

桓沖――上明への移鎮と対苻堅戦

  • 桓沖は江陵に至ると苻堅の勢力の強さを見て江南に拠点を移そうとし、上疏して荊州鎮所の変遷の経緯と、江北を軽んじ江南を重んじるべき戦略、上明の地の利を説き、上明への移鎮を実行した。冠軍将軍劉波に江陵を、諮議参軍楊亮に江夏を守らせた。詔により荊州の水旱飢饉と移鎮の負担を考慮し、豊作になるまで年に米三十万斛を運んで軍資を補うこととした。
  • 堅の将苻融が樊・鄧を、石越が魯陽を、姚萇が南郷を、韋鐘が魏興を侵し、いずれも陥落した。桓沖は江夏相劉奭・南中郎将朱序を遣わして防がせたが、劉奭は臆して進まず、朱序は捕らえられた。桓沖は自らを責め上疏して章節を返上し辞職を願ったが許されなかった。左衛将軍張玄之を軍事の相談に遣わした。桓沖は前将軍劉波・甥の振威将軍桓石民・冠軍将軍桓石虔らを率いて苻堅を討ち、築陽を陥落させ、武当を攻め堅の兗州刺史張崇を追った。堅は慕容垂・毛当を鄧城へ、苻熙・石越を新野へ侵攻させたが、桓沖は堅の兵の多さと疫病を憚り上明へ還った。夏口が沔漢の要衝であり甥の桓石民が適任として督荊江十郡軍事・振武将軍・襄城太守に版任し、尋陽の要地には王薈を江州刺史とすることを求めた。詔はこれに従った。しかし王薈は兄王劭の喪に服していたため辞退し、謝安は中領軍謝輶を代わりに任じたが、桓沖はこれに怒り輶の文武の不足を理由に自ら江州を領することを求め、帝はこれを許した。
  • 桓沖は石虔に堅の襄陽太守閻震を討たせ捕らえ、大小の将帥二十九人を京都に送った。詔によりこの功績は桓沖府に帰され、閻震討伐の功で次子の桓謙は宜陽侯に封ぜられた。堅の将郝貴が襄陽を守ると、桓沖は揚威将軍朱綽に討たせ沔北の田を焼き六百余戸を得て還った。上庸太守郭寶を遣わし堅の魏興太守褚垣・上庸太守段方を討ち降した。新城太守麹常は逃走し三郡が平定された。詔で銭百万・袍表千端が賜られた。

桓沖――淝水の戦いと病没

  • 桓沖の西方への移鎮は賊の強大さを慮ってのことで、江東の勢力が弱いと見て封疆を保つに専念する構えであり、将相の適材適所を重んじ自らの徳望が謝安に及ばないとして内政を安に委ね、四方の鎮撫を己の任とした。朱序との連携も密であったが、序が賊に捕らえられると桓沖は深く悔恨した。苻堅が全国を挙げて南下する構えを見せると、桓沖は根本の防衛を憂え精鋭三千を京都に送った。謝安はこの兵の効果を軽んじ、余裕を示すため軍を近づけながらも受け入れず「朝廷の処分は既に定まっている、西藩は防備に専念すべきだ」と返した。安は既に甥の謝玄・桓伊らの諸軍を派遣していたが、桓沖はこれで興廃を左右できるとは思わず、佐吏を集めて「謝安には廟堂の器量はあるが軍略には通じていない、大敵が迫るのに悠々と談論に興じ、経験の浅い若者ばかりを派遣して兵も寡弱だ、天下の帰趨は知れたもの、我らは左衽(異民族の支配)に服することになろう」と嘆いた。まもなく堅が破れたと聞き、大勲が成就し朱序も帰還できたと知ったが、桓沖はもともと病を患っており羞恥も重なって病が悪化し卒去した、享年57。太尉を追贈され本官はそのまま、諡は宣穆。銭五十万・布五百匹が賻された。

桓沖――人柄と七子

  • 桓沖は倹素な性格で謙虚に士を愛した。入浴後に妻が新しい衣を送ると激怒して持ち帰らせたが、妻が再び送り「衣は新しさを経なければ、どうして古くなろうか」と言うと桓沖は笑ってこれを着た。処士の南陽劉鄰之を長史に招く際、鄰之が応じないと自ら出向いて迎え、厚く礼遇した。処士長沙の鄧粲を別駕に招く際も礼を尽くし、粲はその厚意に感じて出仕した。かつて郗鑒・庾亮・庾翼は臨終にみな親戚を要職に就けるよう上表したが、桓沖ひとり謝安への書簡で「妙霊・霊宝(子供たちの幼名)はまだ幼く、亡兄の遺志を全うできなかったことが心残りだ」とだけ述べ、私事には触れず、論者はこれをいっそう称えた。柩が江陵に下ると士女老幼が江に臨んで見送り号泣した。後に桓玄が簒位すると太傅・宣城王を追贈された。七子は嗣・謙・修・崇・弘・羨・怡。

桓嗣――簡素な人柄

  • 桓嗣は字を恭祖といい、若くして清らかな誉れがあり、桓豁の子桓石秀と共に桓氏一族の中でも名高かった。桓沖が桓豁に代わり西方に鎮すると、詔により嗣は荊州之三郡豫州之四郡軍事の督・建威将軍・江州刺史とされた。政務は簡素を旨とし、住居の修繕で本来板の垂木にすべきところを茅葺きに代えさせ、板は船官に返した。西陽・襄城二郡太守に転じ夏口に鎮した。後に江夏相を兼ね官にて卒去。南中郎将を追贈され諡は靖。子の桓胤が嗣いだ。

桓胤――桓玄との関わりとその後

  • 桓胤は字を茂遠といい、若くして清らかな節操があり、代々の栄華の中でも恬退で知られた。初め秘書丞を拝し、累遷して中書郎・秘書監となった。桓玄に深く愛され中書令に遷った。玄の簒位に際し吏部尚書となり、玄の西奔に随行した。玄の死後、帰順した。詔で「善行は遠く伝わり子孫に及ぶ、宣孟の忠により後の晋国を得、子文の徳により子孫が存続を得た故事がある。太尉桓沖はかつて西方の藩を守り王室に忠誠を尽くした。その子らは凶事に染まり自ら罪に伏したが、沖の遺勲を思うと心が痛む。その孫の胤は特に宥すべきである、善を勧めるためにも。特に生命を全うさせ新安に徙すがよい」とされた。しかし東陽太守殷仲文・永嘉太守駱球らが謀反し密かに胤を玄の後継に立てようとした事件が発覚し、誅殺された。

桓謙――桓振の乱前後

  • 桓謙は字を敬祖といい、詳正で器量があった。初め父の功により宜陽県開国侯に封ぜられ、累遷して輔国将軍・呉国内史となった。孫恩の乱の際、謙は無錫に逃れた。尚書に召され、驃騎大将軍司馬元顕に諮議参軍として招かれ司馬に転じた。元興初年、朝廷が桓玄討伐を計画した際、桓氏が代々陝西(荊州)を治め父桓沖が荊楚に遺恵を残していたことから人心の動向を懸念し、桓謙を持節・都督荊益寧梁四州諸軍事・西中郎将・荊州刺史・仮節に任じ荊楚を安んじさせた。
  • 桓玄が政権を握ると、桓謙は尚書左僕射・領吏部・加中軍将軍とされた。桓謙兄弟は顕位に列し玄に重用されたが、内心では善からず思われていた。甯都侯に改封され尚書令・散騎常侍を拝し、侍中・衛将軍・開府・録尚書事に遷った。玄の簒位後は再び揚州刺史を領し新安王に封ぜられた。
  • 桓振の乱に際し桓謙は帝の輿を保護しやや功があったが、暗愚で決断に欠け大事を担うには不適格であった。当初、振が軍を率いて出撃し自らは江陵を守ることを勧めたが、振は謙が実権を握ることを軽んじ従わなかった。振が敗れると謙は姚興のもとへ逃れた。譙縦がかねて姚興に籓称し盧循と通じていたことから、姚興に謙とともに東下するよう請う表を上げた。姚興が謙に意見を求めると、謙は「私の一門は荊楚に恩を施しており、従弟の玄は簒位したとはいえ皆迫られてのこと、人神の知るところだ。今縦と共に東下すれば百姓は動揺するだろう」と答えた。興は「小さな水に大船は浮かばない、縦の才力が事を成すに足るなら君の助けは要らない、自ら幸いを求めるがよい」と述べ、謙を送り出した。謙は蜀に至り虚心に人材を集めようとしたが縦に疑われ龍格に留め置かれ監視された。謙は弟たちに「姚主の言は神のようだった」と泣いて語った。後に縦とともに譙道福を率いて東下し、謙は道中で募兵し百姓が桓沖の遺恵を感じて投じる者二万人に及んだが、劉道規に破られ斬られた。

桓修――王恭討伐と桓玄への進言

  • 桓修は字を承祖といい、簡文帝の娘武昌公主を娶り吏部郎を経て左衛将軍に遷った。王恭が譙王司馬尚之を討とうとし、先に何澹之・孫無終を句容へ遣わした際、修は左衛のまま振武将軍を兼ね輔国将軍陶無忌とともに防いだ。修が句容に進駐するとまもなく王恭が敗れ、無終は降伏を申し出た。修が軍を還すと楊佺期が既に石頭に至っており、朝廷は無防備で内外が動揺した。修は「殷仲堪・桓玄はもっぱら王恭を頼みとしていたが、恭が滅んだ今、彼らは色を失っているはず。詔で玄を優遇して用いれば玄は必ず喜び、仲堪・佺期を制して皆従わせられるだろう」と進言し、朝廷はこれを容れた。修は龍驤将軍・荊州刺史・仮節として権に左衛の文武の鎮を領し、劉牢之が千人を率いて送った。仲堪を広州に転じることとしたが、修が発つ前に玄らが尋陽で盟を結び牢之の誅殺を求めた。尚之は仲堪の無罪を訴えたが仲堪独りが降黜され、詔で仲堪の荊州を回復させることとなった。御史中丞江績は修が佺期の言を受けて信を通じ宣伝を尽くさなかったとして廷尉に付すよう奏したが、特別に免官の詔となった。まもなく王凝之に代わり中護軍となった。まもなく玄が仲堪・佺期を破ると、修は征虜将軍・江州刺史となり、まもなく再び中護軍となった。玄の執政下では都督六州・右将軍・徐兗二州刺史・仮節に任じられ、まもなく撫軍将軍・散騎常侍を加えられた。玄の簒位後は撫軍大将軍・安成王とされたが、劉裕の義旗が挙がると斬られた。

徐寧――付伝

  • 徐寧は東海郯の人。若くして名を知られ輿県令となった。廷尉桓彝が人物鑑識に優れていると称された頃、桓彝が去職して広陵に旧知を訪ねた帰路、風のため浦に停泊し数日憂鬱に過ごした際、岸に上がって役所らしき建物を見つけ、訪ねると輿県であった。桓彝が訪ねると、徐寧は清らかで博学であり、意気投合して数夜滞在した。桓彝は大いにこれを評価し交わりを結んで別れ、都に戻ると庾亮に「良き吏部郎候補を得た」と告げた(詳細は桓彝伝にある)。徐寧は吏部郎・左将軍・江州刺史に至り官にて卒去した。

史論

史臣曰く、澆薄な風潮が密かに広がり醇朴な源が枯渇すると、道徳が情性から失われ忠信が名教として表面化する。伯夷・叔斉が首陽山で高節を貫いたのは仁を求めて仁を得たものであり、孔子門下の泗上の教えは「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」であった。晋の原軫が冑を脱いで戦死したのは往時の史書にも凛然として記され、子路が纓を結び直して死んだのも前代の志として遠く伝わる。まして霜雪の交わる歳末や風雨の晦い明け方には、多くの鳥の声さえその音色を変え、貞節の木もその本性を全うすることは稀である。桓茂倫(桓彝)は中和の気を抱き撓まぬ節を持ち、周顗・庾亮の清らかな流れを継ぎ、許劭・郭泰の遺した軌範に従った。危難に臨んで免れる道を恐れず、死をむしろたやすいこととした。その名声は千載の後まで芳しく漂うが、その骨は九泉の下に朽ちた。仁者の勇とはまさにこのことであろう。時代が興隆と衰退を繰り返す中、龍蛇のごとく山沢に隠れる者もいれば、桓沖のように内輔として慎重に振る舞い、桓豁のように上流で武威を振るい、桓秘のように北門の威を張り、桓石秀のように西陽の職務を全うする者もいた。外には城を守る用をなし、内には権勢を極めすぎる嫌いもなかった。名臣を求めるならば、まさにこれらの人々を数えるべきであろう。しかし桓温は権勢の極みに至り、桓玄はついに簒奪の業を成した。斉の敬仲(田氏)の美徳も檀台の乱を止められず、衛の甯兪の忠義も弈棋のような禍を救えなかったのと同じく、子文(楚の令尹)の子孫が血食を絶たれたのも悲しいことである。

贊に曰く、矯矯たる宣城(桓彝)は、貞心を侵されなかった。身は露のように夭折したが、名は雲のごとく興った。桓豁・桓秘は世を重ね、桓沖・桓石秀は双美を成した。国は忠臣に頼り、家は才子を推した。桓振・桓謙は文をもって群を成したが、簒奪と乱に帰したことは、何をか言わんや。