晉書卷七十一 列傳第四十一 陳頵

若年期の逸話

  • 陳頵は字を延思といい、陳国苦県の人。若くして学を好み文義に通じた。父の陳訢が邸宅の門を建てた際、頵は「馬車が通れるようにすべきだ」と述べ、訢は笑ってこれに従った。郡督郵となり隠匿者三千人を摘発し一州随一の功績を挙げた。太守劉享が主簿に抜擢し、州は部従事に辟召した。馬車で帰郷すると宗党の誉れとなった。

解結との論議

  • 沛王司馬韜の獄事を弾劾中、解結が楊准に代わって刺史となり、韜は河間王司馬顒を通じて解結に働きかけた。解結が大会で主簿史鳳に「沛王は貴い藩国の主なのに、州はいかなる法によって拘束したのか」と問うと、その場にいた陳頵は甲午詔書を引いて刺史の権限の正当性を主張し、州の弾劾に誤りはないと答えた。解結は「衆人の言を鵜呑みにせず法に基づき徹底審理すべきだ」と述べた。
  • また解結が僚佐に「河北の肥沃な地なのになぜ人材が少なく、三品ばかりを中正としているのか」と問うと、陳頵は『詩経』の「維嶽神を降ろし、甫と申とを生む」を引き、英傑は山沢の地に多く出るもので、平坦な河北は林が育たないのと同じだと答えた。解結が「張彦真は汝潁の弁は巧みだが青徐の儒雅には及ばないと言っていた」と述べると、陳頵は反論し、張彦真と元礼(李膺)の不仲による過言だとした上で、老子・荘周・伏羲・傅説・師曠・大項が陳・梁の出身であり、漢魏二祖が沛・譙の出身であることを挙げ、他の州が及ばないと主張した。解結は感心し「豫州の人士は天下の半ばを占めるというが、この言は嘘ではない」と述べた。まもなく解結は尚書に転じ、陳頵の才を十分に用いられなかったことを恨んだ。
  • 元康年間、孝廉に挙げられたが州将に留任させられた。陳頵は同県の焦保を「寒素の出でありながら清廉な資質を備え、任用すれば必ず大猷を輔弼できる」と推薦し、州は保を辟召した。

王導への進言と譙郡太守への左遷

  • 斉王冏の挙兵に州が陳頵を将兵として派遣し、駙馬都尉を拝命した。乱を避けて江西に難を避け、歴陽内史朱彦に参軍として引き立てられた。鎮東従事中郎袁琇が元帝に推薦し鎮東行参軍事に遷り、法・兵の二曹を統轄した。
  • 王導への書簡で、中華が傾き四海が崩れたのは人材登用が名声偏重で実質を軽視したためだと論じ、老荘の風潮が朝廷を惑わし、名望を養う者が優雅とされ、実務に励む者が俗人とされる弊害を批判した。賞罰を明らかにし、卓茂や朱邑のような隠れた人材を登用すべきだと説いた。
  • 建興初年の制度で録事参軍に補任された。属官が病と称して職務を避ける風潮を、西晋以来の「養望」の弊が「優雅」とはき違えられたものだと批判し、故意に病と称して行かない者は免官すべきだと議した。
  • 趙王倫の篡位に対する三王挙兵の際に定められた「己亥格」(論功の格式)を常式とすべきでないと駁論した。趙王倫の悪逆に対する三王の義挙は非常時の権宜の措置であり、これによって濫りに侯や将軍位を授かった者が多く出て天下の秩序を乱していると批判し、以後の適用を停止するよう請うた。陳頵は身分低く度々上奏したため朝士に嫌われ、譙郡太守に出された。

晩年

  • 大興初年、病により召還され、白衣のまま尚書を兼ねた。時務を上疏し、貢挙の試験を漸く旧に復し隠逸を捜し挙げて経策を試すべきこと、馬隆・孟観のように貧賤出身でも武略で功績を挙げた者を、武略に長じた者として試験の上で登用すべきことを説いた。
  • 後に天門太守を拝し、殊俗の民を安んじた。荊州参軍に腹心の吏を選び、事あれば直ちに知らせるよう手配した。陶侃が召還される際、陳頵は先に巴陵に至って礼を尽くした。侃はこれを評価し梁州刺史に表薦した。荒廃した地を治め威恵があったが、梁州の大姓が陳頵の老齢・耳聾を口実に讒言し、陶侃は陳頵を召還し西陽太守蔣巽に代えた。享年69で没した。