出自と若年期
- 應詹、字は思遠、汝南南頓の人、魏の侍中應璩の孫。幼くして孤児となり祖母に養われ、十余歳で祖母も亡くし、喪に身をやつしながらも杖をついて起き上がり孝で知られた。家は富んでいたが幼くして族人と同居し財産を委ね、世に感心された。弱冠で名を知られ、質朴で寛雅な性格で、犯されても咎めず、学芸文章で称えられた。司徒何劭は「君子だ」と評した。
荊州での活躍
- 公府に召され太子舎人、趙王司馬倫の征東長史となるも倫の誅殺で連座免官。成都王司馬穎の掾に召された。驃騎従事中郎諸葛玫が長沙王司馬乂を裏切り鄴へ奔り悪評を広めた際、旧知であった應詹は「諸葛仁林(玫)はなぜ楽毅に背くようなことをするのか」と嘆き会おうとせず、玫は深く恥じた。
- 鎮南大将軍劉弘(應詹の祖母方の従弟)に長史として招かれ「後に荊南で私の後継となるだろう」と期待され、軍政を委ねられた。劉弘の南方での功績には應詹の力が大きかった。南平太守に遷った。
- 王澄が荊州刺史となった際、南平・天門・武陵三郡の軍事を監督。洛陽陥落の報に涙を流し王澄に救援を勧め、檄文を起草した(応じられなかった)。天門・武陵の谿蛮が反乱した際は討伐して降し、蛮の首長を集め銅券を割って盟約を結び民心を得た。天下大乱の中でも應詹の統治圏だけは無事で、百姓は「乱離の中でこの地だけが救われている」と歌った。鎮南将軍山簡にも五郡の軍事監督を託された。蜀の賊杜疇の侵攻を撃退、陶侃と共に杜弢を長沙で破った際は賊中の財宝に手をつけず図書のみを収めた。
- 元帝により建武将軍、王敦の上表で監巴東五郡軍事、潁陽郷侯に叙された。陳の王沖が荊州を占拠しつつも應詹の名声を慕い刺史に迎えようとしたが、應詹は王沖らを無頼として拒み南平に戻り、王沖も恨まなかった。益州刺史・領巴東監軍に遷る際、士庶は車を追って号泣した。
元帝への上疏
- 後軍将軍に拝され、封建の礼制回復と学校教育の振興を求める上疏を行った。旧秦の郡県制の弊害を指摘し功臣の封侯を重んじるべきこと、正始以来の玄虚の風潮を批判し辟雍を修めて教育を重んじるべきことを説き(本文参照)、元帝はこれを高く評価した。
王敦の乱での功
- 吳国内史に転じたが公事で免官。劉隗の軍司となり散騎常侍を加えられ光禄勲に至った。王敦の専権に対しては目立たぬよう振る舞ったが、王敦の反乱に際し明帝の下問に「陛下は威を奮い、臣らは前駆となるべき」と慷慨して答え、都督前鋒軍事・護軍将軍・仮節として朱雀橋南を都督した。竹格渡から進んだ賊を趙胤らと共に撃破し賊将杜発を斬り数千級を得た。乱平定後、観陽県侯(食邑一千六百戸)に封じられたが固辞する上疏を行った(許されず)。
江州刺史としての施政
- 使持節・都督江州諸軍事・平南将軍・江州刺史に遷り、赴任にあたり官吏登用制度の改革を求める長文の上疏を行った。人事推薦の責任を挙主にも問うこと、黄門・散騎らを地方に派遣し実情を視察させること、免官の制度を厳格にし出仕を軽んじさせないこと、屯田を広げ農桑を重んじることなどを説いた(本文参照)。王敦平定直後の不安定な情勢下、民心を撫で慰め百姓の信頼を得た。
陶侃への書簡と卒去
- 病篤くなり陶侃に書を送り、共に苦難を乗り越えた昔を偲び、時局への憂いと陶侃への期待を語った(本文参照)。咸和六年(331年)卒、時に五十三歳。鎮南大将軍・儀同三司を追贈、諡は烈。子の應玄が嗣ぎ散騎侍郎に至った。應玄の弟の應誕は才幹があり六郡太守・龍驤将軍を歴任、冀州刺史を追贈された。
- 京兆の韋泓は乱世に親族を喪い應詹の名声を慕って身を寄せ、應詹はこれを分け隔てなく遇し婚姻や住居を世話し、元帝に推薦して官に就けた(推薦文は本文参照)。韋泓は少府卿にまで至り、應詹の死後は程嬰・杵臼の故事に倣い終生喪に服し祭祀を続けた。