晉書卷六十八 列傳第三十八 紀瞻

出自と若年期

  • 紀瞻、字は思遠、丹陽秣陵の人。祖父の紀亮は呉尚書令、父の紀陟は光禄大夫。若くして方直で知られた。呉平定後、暦陽郡に移住。孝廉に挙げられたが応じなかった。

秀才策問への応答

  • 秀才に挙げられ、尚書郎陸機の策問に対し、夏・殷・周の政道の変遷を論じ、当代は文を去り朴に帰るべきと答えた。明堂・清廟・辟雍・太学が名を異にして実は一体であるとする蔡邕の説を支持し、賢才登用の重要性を説き、族誅の刑罰は廃すべきと論じ、陰陽の理から温泉に寒火のない理由を説明し、政は時に応じて興るものであり聖人の道に降殺はないと結んだ(全問答の詳細は本文参照)。

陳敏討伐と元帝への進言

  • 永康初、州の寒素に挙げられ大司馬東閣祭酒、鄢陵公国相、松滋侯相を歴任。太安中、棄官して帰郷、顧栄らと陳敏を討った(顧栄伝参照)。
  • 洛陽に召され尚書郎となり、顧栄と赴く途中『易』の太極について論争した。顧栄は老子の説に依り太極を混沌未分の状態とする説を唱えたが、紀瞻は伏犠・文王・仲尼の三聖の一致を根拠に、太極は「理の極み」を指すとする王氏(王弼)の説を支持し、顧栄も説を退けた。徐州刺史裴盾が東海王越の書を得て軍礼で発遣しようとした際、紀瞻・顧栄・陸玩らは船車を捨て昼夜三百里を進んで揚州に帰還した。

元帝のもとで

  • 元帝の安東将軍時代、軍諮祭酒・鎮東長史となり親しく遇された。周馥・華軼討伐の功で都郷侯に封じられた。石勒の侵攻に対し揚威将軍・都督京口以南至蕪湖諸軍事として防いだ。会稽内史時代、詐りの符で県令を収監しようとした使者の不正を見破った。陳敏討伐の功で臨湘県侯に封じられた。
  • 長安陥落後、王導と共に元帝に即位を勧め、宗廟の荒廃と天命の帰趨を説いて即位を強く迫った(「揖讓して火を救うようなもの」等の弁)。元帝が動じない中、殿中将軍韓績が御座を撤去しようとすると、紀瞻は「帝座は天の星宿に応ず、動かす者は斬る」と一喝し、元帝も態度を改めた。
  • 即位後、侍中・尚書として匡諫を行った。久しく病に伏し、辞職を願う長文の上疏(本文参照)を奉り免官を許された。

郗鑒の推挙

  • 郗鑒が鄒山で孤立し石勒らに苦しめられているのを見て、その将相の才を惜しみ征用を求める上疏を行った。

明帝との親交

  • 明帝が「社稷の臣は十人に満たぬがどうか」と問い、紀瞻を指折り数えたが紀瞻は謙譲した。文武を兼ね忠亮雅正と称えられ、領軍将軍に転じ、病がちでも六軍から敬われた。辞職を願うも許されず、王敦の乱に際しては「病でも臥して護軍の任にあれば益がある」と留用され、賜った布千匹を将士に分与した。乱平定後も辞職を願ったが許されず、驃騎将軍に任じられ、府を自邸とした。まもなく卒去、時に七十二歳。開府儀同三司を追贈、諡は穆。王含討伐の功で華容子に追封、次子を亭侯に封じた。

人となり

  • 静かで交遊少なく読書を好み、自ら書写することもあった。詩賦箋表数十篇を著し、音楽にも通じた。烏衣巷に邸を構え、園池・竹木を楽しんだ。閔鴻・薛兼・褚沈・宣遼・武嘏ら旧知が臨終に後事を託し、紀瞻はその家族を実の骨肉のように世話した。陸機兄弟とも親しく、陸機の死後もその家族を助け、娘の嫁入りにも実の親のように資財を送った。長子紀景は早世、その子紀友が廷尉に至った。景の弟紀鑒は太子庶子・大将軍従事中郎で紀瞻より先に卒した。