晉書卷六十六 列傳第三十六 陶侃
出自と若年期
- 陶侃、字は士行、本は鄱陽の人。呉が平定された後、廬江の尋陽に移住。父の陶丹は呉の揚武将軍。陶侃は幼くして父を失い貧しく、県吏となった。
- 鄱陽の孝廉范逵が陶侃を訪ねた際、母の湛氏が自らの髪を切って酒肴に換えてもてなし、従者にまで満足させた。范逵が去る際、陶侃は百余里も見送り、仕官への望みを打ち明けた。范逵は廬江太守張夔に陶侃を推薦し、督郵・楽陽令を経て主簿に昇進、能吏として知られた。州の従事が郡を検察しようとした際、陶侃は毅然と対応しこれを退けた。張夔の妻が病んだ際、真冬にもかかわらず自ら数百里を医者を迎えに行き、その義に人々は感服した。長沙太守万嗣は陶侃を見て「必ず大名を成す」と称え、子を結ばせた。
洛陽での出仕
- 張夔に孝廉として推挙され洛陽に赴くが、張華には当初冷遇された。度重なる訪問で神色を乱さぬ様子に張華は感心し、郎中に任じた。伏波将軍孫秀が滅国の後裔で門地が低く人が仕えたがらぬため、寒門の陶侃を舎人として招いた。豫章国郎中令の楊晫は陶侃を高く評価し、中書郎顧栄に紹介、顧栄も陶侃を評価した。吏部郎温雅の非難に対し楊晫は「非凡の器」と擁護した。尚書楽広の紹介で武岡令となったが、太守呂岳との不仲で辞職、郡の小中正となった。
荊州仕官・南蛮長史
- 劉弘が荊州刺史となった際、南蛮長史に招かれ、襄陽で張昌討伐に功を挙げた。劉弘は「かつて羊祜の参軍だった自分の後を継ぐ者」と評した。後に軍功で東郷侯(食邑千戸)に封じられた。
陳敏の乱・讒言・華軼との訣別
- 陳敏の乱で江夏太守・鷹揚将軍となる。陳敏の弟陳恢の武昌侵攻を撃退。隨郡内史扈瑰が陶侃と陳敏の同郷の縁を疑って劉弘に讒言したが、劉弘は疑わなかった。陶侃は子の陶洪・兄の子の陶臻を人質に出し自ら潔白を証した。軍船を戦艦に転用する等して陳恢を撃破、戦利品は全て将兵に分与し私しなかった。母の喪に服した際、弔問の二客が去った後双鶴と化して飛び去ったという逸話が伝わる。
- 服喪後、東海王越の軍事に参じ、江州刺史華軼の推薦で揚武将軍として夏口に駐屯、兄子の陶臻も参軍となった。華軼と元帝の不和を見た陶臻が帰り危機を告げると、陶侃は怒って陶臻を華軼に送り返したが、陶臻は元帝の下へ帰服し重用され、これにより陶侃は華軼と絶交した。
龍驤将軍・杜弢討伐
- 龍驤将軍・武昌太守に転じ、飢饉に乗じた山賊を計略で捕らえ、西陽王司馬羕の従者を成敗して沿岸を粛清した。流民を招き資財を投じて救済し、夷市を設けて利益を得た。杜弢討伐では周訪・趙誘を率い、賊を各所で撃破した。荊州刺史周顗が賊に良民を奪われた際も部将朱伺の救援で撃退。
- 王敦への戦功報告により陶侃は使持節・寧遠将軍・南蛮校尉・荊州刺史となり西陽・江夏・武昌を領有、沌口に鎮した。王貢らの反乱では一時敗れて免官されたが、王敦の上表で白衣のまま職務を続けた。
湘州進軍・王敦との軋轢
- 陶侃は周訪らと湘へ進軍し杜弢を大破した。佐吏が王敦に功績を訴え、官が復された。王貢率いる賊軍を撃破し、杜弢が張奕を疑い殺害するなど賊中は乱れ、投降者が増えた。王貢に降伏を説き、髪を切って信とし降伏させた。長沙を陥落させ毛宝・高宝・梁堪を捕らえた。
- 王敦は陶侃の功を深く忌み、江陵から敦の下に赴いた際に留め置き、広州刺史・平越中郎将に左遷し王廙を荊州に置いた。陶侃の将兵・部下は留任を求めたが敦は許さず、部下の鄭攀らは西へ杜曾を迎えて王廙に対抗しようとした。王敦は陶侃を疑い一時殺意を見せたが、周訪との縁を案じた諮議参軍梅陶・長史陳頒の諫言で思い留まり、盛大な宴で見送った。豫章で周訪に涙して感謝の意を述べ、始興へ向かった。
広州刺史時代
- 広州人が刺史郭訥に背き王機を刺史に迎え、王機は交州刺史の座を求めた。臨賀に拠った杜弘が王機に降伏を願い出て広州奪取を勧め、杜弘・温邵・交州秀才劉沈が共謀して反乱を起こした。陶侃は周囲の忠告を退けて直ちに広州へ向かい、杜弘の偽りの降伏を見破って備え、これを撃破、劉沈を小桂で捕らえた。部将許高を送って王機を斬らせ、首を都に送った。将らが温邵への追撃を求めると、陶侃は書一通で足りると笑い、温邵は恐れて逃げたが始興で捕らえられた。功により柴桑侯(食邑四千戸)に封じられた。
- 広州在職中、事変えなくとも朝運百甓・暮運百甓を自らに課し、「中原に力を尽くすため、安逸に慣れて事に堪えなくなることを恐れる」と語った。
交州・荊州都督への昇進
- 太興初、平南将軍に進み、交州軍事を都督。王敦の乱に際し詔により本官のまま江州刺史を領し、後に湘州刺史に転じた。王敦は志を得た後、陶侃の本職を復させ散騎常侍を加えた。交州刺史王諒が梁碩に陥落させられると、将の高宝を送って平定させ、陶侃は交州刺史を領した。前後の功を録され、次子の陶夏は都亭侯に封じられ、征南大将軍・開府儀同三司に進んだ。王敦平定後、都督荊・雍・益・梁州諸軍事・護南蛮校尉・征西大将軍・荊州刺史に遷り、楚郢の人々は喜び合った。
人となり
- 聡敏で吏事に勤め、恭しく礼にかない、人と交わることを好んだ。終日きちんと座して外事に多忙でも漏れがなく、遠近の書状に自ら手ずから答え、その筆致は流れるようであった。門を閉ざして客を拒むことはなかった。
- 「大禹は聖者でも寸陰を惜しんだ、まして凡人は分陰を惜しむべきだ、荒淫に遊び生きて益なく死んで名を残さぬは自ら棄てるに等しい」と常に語った。参佐が酒や賭博で職務を怠ると、酒器・博具を長江に投じさせ吏や将には鞭打ちを科し、老荘の浮華を先王の言でないとして退けた。
- 贈答品には出所を厳しく確認し、労働による正当な物には喜んで報い、不正な物には厳しく叱責して返させた。未熟な稲を戯れに取った者を「田も耕さぬのに稲を害するとは」と怒って鞭打つなど、農耕を勧奨した。造船で出た木屑・竹頭を全て蓄えさせておき、雪解けのぬかるみに木屑を敷き、後に桓温の蜀討伐の際に竹頭を釘に使うなど、綿密な統率を見せた。
蘇峻の乱で盟主に推される
- 蘇峻が反乱を起こし京都が陥落すると、子の陶瞻が賊に殺害された。平南将軍温嶠が共に朝廷に赴くよう求めたが、明帝の顧命に列せられなかったことを恨みに思っていた陶侃は当初「自分は境界外の将、越権はできない」と断った。温嶠が重ねて書を送って激励し、妻の龔氏も出兵を勧めたため、遂に戎服のまま出陣し、瞻の喪にも臨まなかった。
- 咸和年間、温嶠・庾亮らと石頭に会し、部将李根の建議で白石塁を築き、長史殷羨の献策で大業塁を囮に石頭を急襲し蘇峻軍を大業から誘い出した。督護李陽の部将彭世が陣中で蘇峻を斬り、賊は大潰した。弟の蘇逸も残兵を集めたが石頭で斬られた。
王導・庾亮との逸話
- 庾亮は蘇峻の禍が自らの責任と恐れ、温嶠の勧めで陶侃に謝罪に赴いたが、陶侃は「庾元規がこの陶士行に拝礼するとは」と止めた。王導が石頭城で古い節(旌節)を取り戻そうとした際、陶侃は「蘇武の節もこれほどではあるまい」と笑い、王導は恥じた。
- 侍中・太尉・羽葆鼓吹を加えられ、長沙郡公(食邑三千戸)に改封、絹八千匹を賜り、交・広・寧七州軍事の都督を加えられた。江陵が偏遠であるため巴陵に鎮を移した。諮議参軍張誕を派遣し五渓の夷を降した。
郭黙討伐
- 後将軍郭黙が詔を偽って平南将軍劉胤を殺害し江州を領したと聞くと、陶侃は「必ず詐りだ」と見抜き、宋夏・陳修に湓口を守らせ大軍を続けた。郭黙が妓婢・絹を送り詔書を示して弁明しようとしたが、陶侃は「劉胤が誅されるべき理由はない、郭黙は虓勇で暴掠を働く」として討伐を続行、王導への書状でも郭黙を強く非難した。郭黙の部下が父子五人と将張醜を捕らえて降伏させ、陶侃は郭黙らを斬った。
- 郭黙は中原で石勒らと戦った経験があり、賊は郭黙の武勇を恐れていたが、陶侃の討伐で郭黙が瞬く間に捕らえられたことで、賊は陶侃をいっそう畏れた。蘇峻の将馮鉄が陶侃の子を殺し石勒の下へ逃げると、陶侃は石勒に事情を告げ、石勒はこれを召して殺した。詔により江州都督・刺史を加えられ、左右長史・司馬・従事中郎四人・掾属十二人を増置された。巴陵から武昌へ鎮を移した。旧知の子孫を挙げて登用し、恩義に一つ一つ報いた。
大将軍・遜位の上表
- 子の陶斌と桓宣に樊城を西伐させ石勒の将郭敬を退け、兄子の陶臻・竟陵太守李陽らと新野を破り襄陽を平定した。大将軍を拝し剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の礼遇を得たが固辞した。咸和七年(332年)六月、病篤くなり、位を遜る上表を行った。上表では自らの生涯を振り返り、幼くして孤寒であったこと、齢八十近くに至って恨みはないが皇帝がまだ若く賊が滅んでいないことへの憂いを述べ、父母の墓が尋陽にあるため改葬の準備を進めていること、司徒王導・司空郗鑒・平西将軍庾亮を頼るべき人物として挙げ、後事を右司馬王愆期に委ねる旨を記した。
卒去
- 車で津まで出て船に乗ろうとしたが、翌日樊渓で薨去、時に七十六歳。成帝は詔を下し、荊江雍梁交広益寧八州の軍事を都督した功績を称え、大司馬を追贈し諡を桓とした。遺言により国の南二十里に葬られ、旧吏らは石を刻んで武昌の西に碑と画像を建てた。
人物評
- 陶侃は軍にあること四十一年、雄毅で決断力に富んだ。南陵から白帝までの数千里、道に落し物を拾う者がいなかった。蘇峻の役で庾亮が軽率に進んで敗れた際、司馬殷融と将軍王章の対応の変化を挙げ「昔は殷融が君子、王章が小人だったが、今は逆だ」と評した。
- 性は緻密で問いを好み、趙広漢(前漢の能吏)に似ていた。都尉夏施が官の柳を盗んで自邸に植えたのを見抜いて咎めた逸話がある。武昌には人材が多く、殷浩・庾翼らも佐吏であった。酒には定量を守り、少年時代に酒の失敗をして母に戒められたためと語った。
- 邾城への出兵に反対し「江北の邾城は外に夷を接し、利で晋人を誘えば禍の元になる」と説いたが、後に庾亮が守らせて大敗した。晩年は足ることを知り朝権を求めず、死の一年前には長沙へ帰ろうとし、軍資・器仗・牛馬・船を全て記録し倉庫を封印して王愆期に引き継いだ。府門を出る際「老いぼれが安逸に浸ってきたのも、みな諸君のおかげだ」と語った。
- 尚書梅陶は「陶公の機神明鑒は魏武(曹操)に似、忠順勤労は孔明(諸葛亮)に似る」と評し、謝安も「陶公は法を用いても常に法の外の心を得ていた」と称えた。一方で媵妾数十人、家僮千余人を抱え、財宝は天府に匹敵したという。
- 若い頃雷沢で漁をして得た梭が龍と化して去った、天門を昇る夢で左翼を折られた、廁で赤衣の人物から「後に公となり八州都督に至る」と告げられた、相師の予言など逸話が伝わる。八州都督となり強兵を握った際、内心窺う志を抱いたが、折翼の夢を思い出しては自ら抑えたという。
子 洪等
- 陶侃には十七人の子があったが、洪・瞻・夏・琦・旗・斌・稱・範・岱のみが旧史に見え、他は伝わらない。
- 洪は丞相掾に任じられたが早世した。
- 瞻、字は道真。才器があり、広陵相、廬江・建昌二郡太守、散騎常侍・都亭侯を歴任。蘇峻に殺害され大鴻臚を追贈、諡は湣悼世子。陶夏が世子となった。陶侃の喪を長沙へ送る際、陶夏・陶斌・陶稱がそれぞれ数千の兵を擁して争ったが、後に和解。陶斌が先に長沙に入って財物を奪ったため、陶夏は到着後に陶斌を殺した。庾亮は上疏し陶斌の罪を認めつつも骨肉の刑罰は放黜にとどめるべきと述べた。上疏が都に届く前に陶夏は病死。詔で瞻の子の陶弘が陶侃の爵を継ぎ、光禄勲に至った。子の陶綽之が継ぎ、その子陶延壽が継いだが、宋の受禅で呉昌侯に降格・食邑五百戸となった。
- 琦は司空掾。
- 旗は散騎常侍・郴県開国伯を歴任。咸和末に散騎侍郎。性格は凶暴だった。子の定が継ぎ、以後襲之、謙之と継いだが、宋の受禅で国は除かれた。
- 斌は尚書郎。
- 稱は東中郎将・南平太守・南蛮校尉・仮節。性は虓勇で兄弟と不仲だった。咸康五年、庾亮により監江夏隨義陽三郡軍事・南中郎将・江夏相とされたが、庾亮に前後の罪を責められ処刑された。庾亮の上疏によれば、稱は父の喪に服さず酒に耽り、五郡を擅に統べ、劉弘の曾孫劉安らを迫害し自死・獄死させ、将の郭開を縛って晒し者にするなど暴虐を極め、諸将を脅して不穏な動きを見せたため、庾亮が専断で処刑したという。
- 範は最も知名で、太元初、光禄勲となった。
- 岱は散騎侍郎。
- 陶臻、字は彦遐。勇略智謀があり、当陽亭侯に叙された。咸和中、南郡太守・領南蛮校尉・仮節となり官にて卒し、平南将軍を追贈、諡は粛。
- 陶臻の弟の陶輿は果敢で戦に長け、功により武威将軍まで昇った。もと中州の人の賊将張奕が捕らえられた際、諸将は妻子だけ残し丁壮を殺すよう求めたが、陶輿は「戦経験のある兵は赦して用いるべき」と進言、陶侃はこれを容れ張奕を陶輿に配した。杜弢戦で桔槔(投石機)に船を破壊され軍が動揺した際、陶輿は軽舟で上流に出て撃破し、賊が輜重を焼こうとした際にも撃破するなど、戦うたびに勝利し、賊は「陶武威を避けよ」と恐れた。後に杜弢との戦いで重傷を負い戦死、陶侃は「わが家の宝を喪った」と慟哭し、三軍も涙した。詔により長沙太守を追贈された。
史論
- 史臣曰く、古の明王は国を建てるにあたり天下を九州に分け、賢臣に補佐させ四嶽に諮った。人を得れば『詩経』甘棠のように慕われ、人を得なければ怨嗟を招く。西晋末の乱世で符節を分かち授けられた者の多くが天綱を乱す中、劉弘(和季)は郷里の情を以て盧綰の契りに準え、方牧の地にあって呉起の風を振るった。幽州から荊州にかけて豺狼を掃い、賢を挙げて善を登用し、吏民は力を尽くし華夷は命に従い、一州は騒乱の中で清らかに治まった。それでもなお「善政」とのみ称されるに留まるのは何と少ないことか。「貞固もて事を幹(な)すに足る」(易経)とはまさに劉弘のことである。
- 陶侃(士行)は名門の出ではなく風俗も中原と異なる地の出身ながら、抜きん出て活躍し外方の宰相の地位に至り、上流を統べた。恩沢を辺境に施せば城は静まり、位を退いて主君を助ければ王室は再び安んじた。庾元規(庾亮)は姻戚の高貴さをもってその前に拝礼し、王茂弘(王導)は宰輔の身をもってその言葉に服した。上流を統べたのは道理にかなうことであった。しかし乱世に富が天府にも及ぶ中、内心に窺う志を抱きつつも折翼の夢を思い自省したのは、孔子の「人は完全であることを求めない」という言葉の証左であろう。
贊に曰く、和季(劉弘)は恩を承け、南方に旗を建てた。威は荊塞を鎮め、化は江澳に広まった。天朝に力を尽くし、忠粛を忘れなかった。長沙(陶侃)は王事に勤め、戎場に旗を掲げた。三事の重責を担い、功は一匡に現れた。頼みとするその重さは、舟航にも等しかった。