晉書卷六十六 列傳第三十六 劉弘

出自と若年期

  • 劉弘、字は和季、沛国相県の人。祖父の劉馥は魏の揚州刺史、父の劉靖は鎮北将軍。
  • 幹略と政事の才を備え、若くして洛陽に住み、武帝と同じ永安里に住み、同年でもあり、共に机を並べて学んだ。
  • 旧恩により太子門大夫として仕官し、率更令、太宰長史と累進。張華に重んじられ、寧朔将軍・仮節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉となり、威と恵を兼ね備え、盗賊が跡を絶ち、幽・朔の地で称えられた。勲徳により宣城公に封じられた。

荊州刺史として張昌の乱を平定

  • 太安年間、張昌が反乱を起こすと、使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転じ、前将軍趙驤らを率いて張昌を討ち、方城から宛・新野まで進軍先を平定した。
  • 新野王司馬歆が敗死すると、劉弘が代わって鎮南将軍・都督荊州諸軍事となった。南蛮長史の陶侃を大都護、参軍の蒯恆を義軍督護、牙門将の皮初を都戦帥として襄陽に進出させた。張昌が宛を包囲して趙驤軍を破ると、劉弘はいったん梁へ退いたが、陶侃・皮初らが度々張昌軍を撃破し、前後で数万級を斬った。劉弘が着任すると張昌は恐れて逃走し、その衆はことごとく降伏、荊州の地は平定された。
  • 退却時、范陽王司馬虓の遣わした長水校尉張奕が荊州刺史の交代を拒み、兵を構えて対抗した。劉弘は軍を送って張奕を討ち斬った上表し、専断で討伐したことを謝罪したが、恵帝は詔で劉弘の功を賞し咎めなかった。
  • その後、下雋山に逃げ込んだ張昌も討たれ斬られ、その衆は全て降伏した。

荊州の人事と施政

  • 荊州の守宰に欠員が多く、劉弘は自ら人材を選び補充することを願い出て許された。功績と徳を評価して各人を登用し、征士の伍朝を零陵太守に、南蛮長史陶侃・参軍蒯恆・牙門皮初らの功に応じ、皮初を襄陽太守、陶侃を府行司馬、蒯恆を山都令に推挙する上表を行った。ただし朝廷は襄陽が名郡であることから皮初の代わりに前東平太守夏侯陟(劉弘の娘婿)を襄陽太守とし、他は認めた。
  • 劉弘は縁故人事との批判を避けるため「姻親は互いに監督しあえない」という旧制を上表し、皮初の功には別途酬いるよう求め、詔で許された。
  • 農桑を奨励し、刑を寛にし賦を省き、豊作が続いて百姓に慕われた。夜回りの老兵が寒さに苦しむのを見て責任者を罰し衣を与えた。峴山・方山の禁漁の旧制を「名山大沢は民と利を共にすべき」として撤廃、酒の品質差別も禁じた。
  • 益州刺史羅尚が李特に敗れ食糧を乞うと、周囲の反対を押し切り零陵の米三万斛を送り、羅尚はこれにより自立を保てた。
  • 荊州に流入した十余万戸の流民に田畑・種・食糧を与え、賢才を登用した。総章の太楽の伶人が乱を避けて荊州に来た際、劉弘荊州王として音楽を興すことを求められたが、劉景升(劉表)が礼を欠いて楽を作った故事を引き、天子が蒙塵している間は自分も音楽を聴くべきでないとして辞退し、朝廷が戻り次第送り返させた。
  • 張昌平定の功で次子への県侯封を求められたが固辞し許された。侍中・鎮南大将軍・開府儀同三司に進んだ。

河間王顒・張方・王敦との関係

  • 恵帝が長安に出た際、河間王司馬顒が天子を擁して劉弘に劉喬の後詰めを命じたが、劉弘は張方の残虐さから司馬顒の失敗を見抜き、東海王司馬越の指揮下に入る使者を送った。
  • 前広漢太守辛冉が縦横策を説くと激怒して斬った。河間王顒の使いで順陽太守となった張光を巡り、南陽太守衛展が「彭城王に不利な発言があった張光を斬るべき」と勧めたが、劉弘は「宰輔の得失は張光の罪ではない、他者を陥れて自らを安んじるのは君子のすることではない」と拒み、衛展に深く恨まれた。

陳敏の乱への備えと晩年

  • 陳敏が揚州で反乱を起こし西進しようとすると、南蛮の任を解いて前北軍中候蔣超に授け、江夏太守陶侃・武陵太守苗光を統べて夏口に駐屯させた。治中何松に建平・宜都・襄陽三郡の兵を率いさせ巴東に駐屯、羅尚の後詰めとした。南平太守応詹を寧遠将軍に加え三郡の水軍を督させ蔣超に続かせた。
  • 陶侃は陳敏と同郷・同年で挙げられた仲であり讒言する者もいたが、劉弘は疑わず陶侃を前鋒督護に任じた。陶侃が子と兄の子を人質に出そうとすると、劉弘は「賢叔が出征するのに、祖母が高齢のあなたは帰ってよい」と断った。永興三年(306年)、詔により車騎将軍に進号した。
  • 劉弘は常に手書きで各地の守相に丁寧に指示を送り、人々は「劉公の一紙を得るのは十部の従事に勝る」と称えた。東海王越が天子を迎えるにあたり参軍劉盤を督護として遣わした後、老病により州と校尉の職を解こうとしていた矢先、上表する前に襄陽で卒去した。士女は嘆き悲しみ、親を喪ったかのようであった。

子・璠の後継

  • かつて成都王司馬穎が南へ逃れて本国に戻ろうとした際、劉弘はこれを拒んだ。劉弘の死後、司馬郭勱が司馬穎を主として推そうとしたが、劉弘の子の劉璠は父の遺志を継ぎ、喪服のまま府兵を率いて郭勱を討ち、濁水で斬って襄沔の地を平定した。東海王越は劉弘・劉喬が自分に背くのではと疑っていたが、劉璠の忠義を見て称賛し、劉弘に新城郡公・諡元を贈った。
  • 高密王司馬略が後任となったが盗賊を禁じきれず、詔で劉璠を順陽内史に起用すると、江漢の民心は帰服した。司馬略の死後、山簡が代わったが、劉璠が民心を得ていることを恐れて上表し、劉璠は越騎校尉に召還された。劉璠は逼迫を恐れ軽装で洛陽へ赴き、後に家族を迎えた。移住民の侯脱・路難らが都まで護送して別れを告げた。以後南方は乱れ、父老は劉弘を偲んで『詩経』甘棠の召伯を偲ぶ歌にも劣らぬ思いを寄せた。