晉書卷六十五 列傳第三十五 王導

王導(字は茂弘、266–339年)。東晋の建国を輔けた宰相。元帝の江南経営を助けて江南の人心を掌握し、王敦・蘇峻の二度の乱を通じて忠節を貫き、元帝・明帝・成帝の三代に仕えて「仲父」と称された。

年表(11件)
  • 元帝の即位前安東司馬として招かれ、呉の名望家を招致して江南の人心を掌握する
  • 永嘉末丹陽太守として鼓蓋加増を辞退し倹約を範として示す
  • 元帝即位式御床を共にするよう命じられるが「太陽が万物と同じ高さになれば」と固辞する
  • 王敦の乱一族二十余人を率いて連日待罪し、帝の信任を得る。乱後も王敦の圧力に屈せず正論を通す
  • 明帝即位後遺詔で輔政を受け司徒に転じる。王敦再挙兵の際は敦の死を偽装して人心を奮起させる
  • 敦平定後始興郡公に封ぜられ太保となるが厚遇の多くを固辞する
  • 明帝崩御時庾亮らと共に遺詔を受け成帝を輔佐する
  • 蘇峻の乱庾亮の蘇峻召致に反対したが聞かれず、乱後は石頭に強制連行されるも蘇峻に危害を加えられず、路永らを説いて義軍脱出を図る
  • 乱平定後遷都論を退け建康にとどまることを主張、財政難には絹布を流行させて資金を得る
  • のち太傅・丞相を歴任し、伊尹・周公に等しいと称えられる
  • 咸康五年六十四歳で薨去。帝は朝堂で三日間哀悼し、「文献」の諡を賜る

王導――出自と元帝との出会い

  • 王導、字は茂弘、光禄大夫王覧の孫、父は鎮軍司馬王裁。少年の頃から見識に優れ、十四歳の時、陳留の高士張公に「この子の容貌志気は将相の器量」と評され、従兄の王敦にもそう語られた。祖父の爵位丘子を継ぎ、司空劉寔に東閣祭酒として招かれ、秘書郎・太子舎人・尚書郎(いずれも赴任せず)を経て東海王越軍事に参じた。
  • 元帝が琅邪王だった頃から親交を結び、天下の乱れを見て心を寄せ興復の志を抱いた。帝も器量を重んじ友のように親しんだ。帝が下邳に出鎮した際、安東司馬に招かれ機密の謀議に与った。建康に移鎮した当初、呉人は帝に従わず一月余り訪れる者もなく王導はこれを憂えた。

王導――江南の人心掌握

  • 王敦の来朝時、王導は「琅邪王は仁徳があるが名望はまだ軽い、兄の威風で助けてほしい」と説き、上巳の禊の日、帝が威儀を整え騎馬で敦・導ら名士を従える様を呉の名望家紀瞻・顧栄が見て畏服し道端に拝跪した。王導はさらに「賓客を礼遇し風俗を尋ねるのが古の王者の道、まして喪乱の世に人材を得ることが急務」と説き、顧栄・賀循を自ら訪ねさせて招き、以後呉会の人心は帝に靡いた。
  • 洛京陥落後、中州から避難した士女は十のうち六七に及び、王導は帝に賢人君子を用いて図事するよう勧めた。荊揚が安定し戸口も豊かな中、清静を旨とした政治を行い、帝から「卿は吾が蕭何」と称されるほど信頼された。王導は「魏晋以来、公卿世族が奢侈を競い政教が乱れたことが今日の禍の因、大王は命世の勲を立て天下を糾合すべき、顧栄・賀循・紀瞻・周玘ら南土の秀才を礼遇すれば天下は安んずる」と応じ、帝はこれに従った。

王導――丹陽太守としての倹約令

  • 永嘉末、丹陽太守・輔国将軍。上表して「魏武帝も荀彧も封は亭侯止まり、曹沖への追贈も別部司馬止まりだった、それに比べ今、太守就任だけで鼓蓋(儀仗)が濫用され、それを得られぬ者が恥辱と感じるほど官爵の秩序が乱れている」と述べ、自ら鼓蓋加増を辞退して範を示した。帝はこれを称え「導の徳と勲を表彰すべきだが、その謙虚な志を尊重する」と応じた。寧遠将軍、のち振威将軍。愍帝即位で吏部郎に召されるが拝命せず。

王導――江南政権の確立

  • 晋国建国後、丞相軍諮祭酒。桓彝が渡江直後、朝廷の微弱さを憂えていたが、王導と語らって「管仲に会ったようだ、もう憂いはない」と評した。渡江の名士が新亭で宴を開いた際、周顗が「山河は変わらぬのに眺めは異なる」と嘆き皆涙したが、王導だけは色を正し「共に王室のため力を尽くし神州を回復すべき、なぜ楚囚のように泣き合うのか」と叱咤し、人々は涙を収めた。
  • 右将軍・揚州刺史・監江南諸軍事、驃騎将軍、散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・録尚書事・仮節を歴任(刺史は元のまま)。王敦が六州を統べたことから中外都督は固辞。のち事件に連座して仮節を解かれた。

王導――学校興隆の上疏

  • 軍事が絶えず学校が荒廃していた時期、王導は上疏し、風化の根本は人倫を正すことにあり、庠序(学校)を設けて五教を明らかにすれば徳礼が通じ父子兄弟夫婦長幼の序が定まり君臣の義も固まると説いた。『易』の「家を正して天下定まる」を引き、聖王が子弟を幼くして教育した例、『周礼』の賢能推挙の制度に触れ、学問を尽くさせることが忠仁の教化の基本であるとした。
  • さらに「頃り皇綱が失われ二紀(二十四年)ほど頌声を聞かない、『礼記』にも三年礼を行わねば礼は壊れるとある、まして今の久しさでは」と述べ、殿下(元帝)の命世の資質でこそ礼楽征伐を整え学業を興し、戎虜を平らげ天下を靡かせることができると訴えた。帝はこれを納れた。

王導――皇帝即位への輔佐と誠実さ

  • 元帝の即位式で御床に共に座るよう命じられたが、王導は「太陽が万物と同じ高さになれば、蒼生は何によって照らされましょう」と固辞した。驃騎大将軍・儀同三司に進み、華軼討伐の功で武岡侯、侍中・司空・仮節・録尚書・領中書監に進む。太山太守徐龕の反乱に際し推薦した羊鑒が敗れると、王導は自ら責任を認め貶黜を願い出るが帝は許さなかった。賀循に代わり太子太傅を領し、史官設置にも着手(典籍が整備された)。愍懐太子(原文のまま、実際は孝懐太子)の訃報の際、三朝の哀を主張し帝に受け入れられた。劉隗が用いられると王導は次第に疎まれるが動じず、識者はその処し方を称えた。

王導――王敦の乱と忠節

  • 王敦の反乱時、劉隗は王氏皆殺しを進言し人々は緊張したが、王導は一族二十余人を率いて連日待罪した。帝は導の忠節を信じ朝服を還し引見、王導は「逆臣賊子はいつの世にもいるが、まさか我が一族から出ようとは」と稽首して謝した。帝は跣で走り寄り「茂弘、百里の命を今まさに卿に託そうというのに何を言うか」と応じたという。帝は「導は大義滅親、安東時代の節を以て遇せよ」と詔した。
  • 王敦が勝利すると導は守尚書令となる。西都陥落後、群臣が元帝を推戴した際、王氏の勢力を背景に別の擁立を図ろうとした王敦を、帝の賢明さを恐れる王敦に対し導が固く争って阻止した経緯がある。乱後、王敦は「私の言に従わなかったら一族滅亡だったぞ」と言うが、導はなお正論を通し、王敦もこれを覆せなかった。

王導――制度整備と明帝の輔政

  • 漢魏以来、諡は爵位に基づいて与えられ、爵のない者には諡を贈らない慣例があったが、王導は「武官は爵があれば必ず諡があるのに、卿校常伯(文官)は爵がなければ諡もないのは制度の本意に反する」と上疏し、以後、無爵の公卿にも諡を与える制度が定着した。
  • 元帝が琅邪王裒を寵愛し廃嫡(明帝の廃太子)を考えた際、王導は「長子を立てるべきで、しかも太子(明帝)は賢明、改める必要はない」と諫め続け、太子位は動かなかった。明帝即位後は遺詔で輔政を受け、揚州を解いて司徒に転じ、陳羣の魏における故事に倣った。王敦が再び挙兵した際、敦が病臥していたのに乗じ王導は敦の死を偽装し発哀、人心を奮起させた。帝の敦討伐に際し節を仮せられ都督諸軍・領揚州刺史。敦平定後、始興郡公(食邑三千戸)、絹九千匹を賜り太保、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を許されるがいずれも固辞。

王導――成帝輔政と蘇峻の乱

  • 明帝崩御に際し庾亮らと共に遺詔を受け成帝を輔佐。羽葆鼓吹・班剣二十人を加えられる。石勒の阜陵侵攻時、大司馬・仮黄鉞として出討したが賊はすぐ退き大司馬は解かれた。
  • 庾亮が蘇峻討伐を諮った際、王導は「峻は猜疑心が強く必ず詔に従わない、山藪に隠れる悪をむしろ包容すべき」と諫めたが聞かれず、庾亮は蘇峻を召し出し、結果、乱が起き六軍は敗れた。王導は宮中で帝に付き従う。蘇峻は王導の徳望を憚り危害を加えなかったが、乗輿を石頭へ移すよう強要し、導が争っても阻めなかった。路永・匡術・賈寧らが蘇峻に王導殺害と大臣皆殺しを進言するが、蘇峻は導を敬してこれを退けたため、路永らは蘇峻から離反。王導は参軍袁耽を使い路永らを説き、帝を義軍へ脱出させようとしたが蘇峻の警戒が厳しく果たせず、王導自身は二子と共に路永に従い白石へ逃れた。

王導――遷都論争と施政

  • 賊平定後、宗廟宮室は灰燼に帰し、温嶠は豫章への遷都、呉の豪族は会稽への遷都を主張したが、王導は「建康は古の金陵、帝都の地であり孫権・劉備も王者の宅と称した、古の帝王は都の豊倹で遷都を決めない、衛の文公の質素な冠の故事のように、麻を績まねば楽土も空しくなる。北の敵が隙を窺う中、遷都で弱みを見せれば蛮越に逃げ込むも同然、鎮静を保つべき」と説き、遷都論は退けられた。
  • 財政面でも工夫を凝らし、国庫窮乏の際、売れ残った練(絹布)を朝廷の賢者と共に単衣に仕立てて着用し流行させ、価格を高騰させて売却し財政を助けた。
  • 成帝が幼い頃、拝礼を受けるたびに恐縮し、成帝の手詔には「惶恐言」、中書の詔には「敬問」と記す慣例が定着した。以後、元正の朝賀でも帝は導のために起立するのを常とした。旱魃の際に引責辞任を申し出るが、帝は「公の徳と勲は四海に及び三世を輔けた、国典の存続はまさに仲山甫(周の賢臣)の補佐によるもの」と慰留し、導も従った。

王導――晩年と死

  • 質素で欲が薄く、家に蓄えた穀もなく重ね着もしなかった。帝はこれを知り布一万匹を贈って生活を助けた。羸弱の病で朝会に堪えなくなると帝自ら邸を訪れ酒宴を催し、輿車で宮殿に入ることも許されるなど厚く敬われた。
  • 石季龍の掠奪軍が歴陽に迫ると自ら出討を願い、大司馬・仮黄鉞・中外諸軍事を加えられたが賊はすぐ退いた。中外大都督、太傅、さらに丞相(漢制に倣い司徒官を廃してこれに併合)を拝命。冊文では「文武の徳を兼ね、四海を治め八政を斉える功は伊尹・周公に等しい」と称えられた。
  • 妻曹氏の没後、金章紫綬を追贈された逸話に付随し、曹氏の嫉妬深さと、王導が愛妾を別館に匿った顛末、司徒蔡謨に「九錫を賜るそうだ、短い轅の牛車と長柄の麈尾だけだが」と揶揄され激怒した逸話が伝わる。
  • 望重の庾亮が地方に出鎮した際、南蛮校尉陶称が「亮が内乱を企てている」と讒言、王導への警戒を勧める者もいたが、王導は「私と元規(庾亮)は苦楽を共にする仲、もし本当に来るなら私はただ角巾を被って引退するまで」と答え、庾亮にも「帝の元舅としてよく仕えよ」と書き送り讒言を鎮めた。しかし庾亮が実権を握るのを見て「元規の塵が人を汚す」と扇で塵を払う仕草をした逸話も伝わる。
  • 漢魏以来、群臣は山陵に拝礼しない慣例だったが、王導は元帝への恩義から常に拝礼を望み、これが百官拝陵の制の始まりとなった。
  • 咸康五年、六十四歳で薨去。帝は朝堂で三日間哀悼し、大鴻臚が喪儀を監護、賻賵の礼は霍光・司馬孚(安平献王)の故事に倣った。葬儀には九旒の轀輬車・黄屋左纛・前後の羽葆鼓吹・武賁班剣百人が与えられ、中興の名臣中並ぶ者なしとされた。冊文で「文献」の諡を賜り太牢の祭祀を受けた。

王導の弟・穎・敞、六子の概略

  • 弟の王穎・王敞は共に名を知られたが早逝、時人は穎を温嶠(太真)に、敞を鄧攸(伯道)になぞらえた。王導の六子は悦・恬・洽・協・邵(劭)・薈。

王導の子・王悅

  • 王悅、字は長豫、若くして高名、親への孝養で王導に愛された。囲碁で争って王導が「血縁があるのにこう争うのか」と笑った逸話、倹約を旨とし腐った果物を捨てさせつつ「大郎(悦)に知られるな」と言った逸話が伝わる。東宮侍講から呉王友・中書侍郎を経て、王導より先に没し貞世子と諡された。
  • 王導が「人が百万銭で悦を買う」夢を見て祈祷させていたところ、地中から実際に銭百万が出土し不吉として密封したという。悦の病篤い時、王導は食を断って憂えた。蔣侯(蔣子文の神)と名乗る甲冑の人物が現れ「あなたの子は助からぬが、あなたのために口添えに来た」と告げ食事を求めて数升を平らげ、去り際に「中書(悦)の病は救えぬ」と言って消え、悦もまもなく没したという逸話が伝わる。悦は常に慎密を旨とし、王導の出退勤を見送り、母曹氏のために身の回りの世話をした。悦の死後、王導は悦がいつも見送った場所で泣きながら台門まで歩いたといい、母は悦の作った箱を封じたまま二度と開かなかった。
  • 悦は無子のため弟恬の子琨を嗣とし丹陽尹を襲爵、没して太常を追贈。子の嘏が嗣ぎ鄱陽公主を娶り中領軍・尚書を歴任。没して子の恢が嗣ぎ、義熙末に遊撃将軍となった。

王導の子・王恬

  • 王恬、字は敬豫。武を好み公門の評判は芳しくなかった。王導は悦を見ると喜んだが恬を見ると不機嫌になったという。州の別駕に召されるが赴任せず、丘子の爵を襲う。傲慢で礼法に拘らず、謝万が訪ねた際、厚遇を期待させておきながら髪を洗い散らしたまま胡床で日向ぼっこをし賓主の礼を欠いた逸話が伝わる。晩年は士人を好み技芸に通じ、囲碁の名手として中興第一と称された。中書郎、帝が中書令にと望むが王導が固辞し取りやめとなる。後将軍・魏郡太守、給事中、石頭に鎮兵。王導の死で一時官を退くが後将軍に復して再び石頭を鎮め、呉国・会稽内史、散騎常侍を経て没す、中軍将軍・諡憲を追贈。

王導の子・王洽

  • 王洽、字は敬和、王導の子の中で最も名高く、荀羨と並び称された。散騎・中書郎・中軍長史・司徒左長史・建武将軍・呉郡内史を歴任。領軍に召され中書令を加えられるが固辞し十度上表。穆帝は「かつて中書郎であった頃から親しんできた、令とするのは才の必要と共に親しく語り合いたいためだ」と催促するが、なお強く辞退し受けなかった。昇平二年、三十六歳で官にて没す。二子は珣・瑉。

王洽の子・王珣

  • 王珣、字は元琳。陳郡の謝玄と共に桓温の掾として重用され、「謝掾は四十で旌節を執り、王掾は黒頭(若くして)三公になるだろう」と評された。主簿に転じ桓温の軍中機務を一手に担い、数万の兵士の顔まで覚えたという。袁真討伐で東亭侯、大司馬参軍・琅邪王友・中軍長史・給事黄門侍郎を歴任。
  • 珣兄弟は共に謝氏の婿だったが不和で離縁し、太傅謝安との縁も切れたため両家は仇敵となった。謝安の意向で豫章太守に出されるが赴任せず、散騎常侍も拝命せず、秘書監に転任。謝安没後、侍中に転じ孝武帝の信任を得る。輔国将軍・呉国内史を経て尚書右僕射・領吏部、左僕射・征虜将軍・太子詹事を兼ねる。
  • 帝が文事を好み、珣は殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢らと共に側近として重んじられた。王国宝が会稽王道子に媚びて珣らと不和になると、帝は崩御後の禍を恐れ恭・恢を方伯に出し珣を尚書右僕射(端右)に留めた。「大筆(椽ほどの筆)を授かる夢」を見た珣は「大きな文章を書くことになる」と語り、まもなく帝が崩御し哀冊・諡議はすべて珣が起草した。
  • 隆安初、王国宝が旧臣を退け珣を尚書令に。王恭が山陵に赴き国宝殺害を図った際、珣は「国宝の罪はまだ明らかでない、先に事を起こせば朝野の望みを失う、強兵を擁して都で兵を発すれば逆賊と見なされよう、罪が天下に明らかになってから討てば良い」と止めた。恭は従うが「近ごろの君は胡広(漢の事なかれ主義の高官)のようだ」と皮肉り、珣は「王陵は廷争し陳平は慎黙した、事の帰結だけを見よ」と応じたという。恭の再挙兵時、王国宝は珣を殺そうとするが辛くも免れた(国宝伝に詳しい)。二年目の恭挙兵では節を仮せられ衛将軍・都督琅邪水陸軍事に進み、事の平定後は節を返上し散騎常侍を加えられた。
  • 四年目、病により解職。一年余り後、五十二歳で没す。車騎将軍・開府を追贈、諡は献穆。桓玄は道子への書簡で珣の人物・才能を惜しみ、桓玄の輔政後には司徒を追贈された。
  • 珣は謝安と不和のまま、東で安の訃報を聞くと京師に出て族弟王献之を訪ね「謝公を哭したい」と述べ、直ちに慟哭したという(珣の小字は法護)。珣の五子は弘・虞・柳・孺・曇首、いずれも宋代に高名を得た。

王珣の弟・王瑉

  • 王瑉、字は季琰。才芸に優れ行書を能くし、珣を凌ぐ評判があった。「法護(珣)も悪くないが、僧弥(瑉)には敵わない」と評された。外国の沙門提婆が『毘曇経』を講じた際、瑉は幼くして講義半ばで理解したと称し、別室で自ら講じたため法綱に「大義は正しいがまだ精緻さに欠ける」と評された。州主簿・秀才には応ぜず、著作・散騎郎・国子博士・黄門侍郎・侍中を歴任、王献之の後任として長兼中書令となる。二人は「大令(献之)」「小令(瑉)」と並び称された。太元十三年、三十八歳で没し太常を追贈。二子は朗・練、義熙中に共に侍中を歴任。

王導の子・王協とその嗣・王謐

  • 王協、字は敬祖、元帝の撫軍参軍、武岡侯を襲爵、早世し無子。弟劭の子謐を嗣とした。
  • 王謐、字は稚遠。若くして名声があり、譙国の桓胤・太原の王綏と並び称された。秘書郎から父の爵を継ぎ秘書丞、中軍長史・黄門郎・侍中を歴任。桓玄の挙兵時、詔命を伝える使者となり玄に深く敬われた。建威将軍・呉国内史、赴任前に玄が中書令・領軍将軍・吏部尚書に任じ、中書監・散騎常侍・領司徒に進む。玄の簒奪に際し太保を兼ね璽冊を奉じた。玄の即位後は武昌県開国公、班剣二十人。
  • 劉裕がまだ布衣だった頃、王謐だけがその器量を高く評価し「卿は必ず一代の英雄となろう」と語った逸話が伝わる。劉裕が桓玄を破ると、謐は侍中を加えられ揚州刺史・録尚書事となる。桓氏に厚遇された負い目から不安を抱き、劉毅に璽綬の在処を問われて動揺した。従弟の王諶が謐を呉に誘い挙兵を勧めたが、謐は恐れて出奔。劉裕は大将軍武陵王遵に上申し追跡させ、謐は連れ戻され従前通り任用され班剣二十人を加えられた。義熙三年、四十八歳で没し侍中・司徒を追贈、諡は文恭。三子は瓘・球・琇、宋代に皆高官に至った。

王導の子・王劭

  • 王劭、字は敬倫、東陽太守・吏部郎・司徒左長史・丹陽尹を歴任。容儀に優れ品格があり、桓温にも重んじられた。吏部尚書・尚書僕射・領中領軍を経て建威将軍・呉国内史。没して車騎将軍を追贈、諡は簡。三子は穆・默・恢。穆は臨海太守、默は呉国内史(加二千石)、恢は右衛将軍。穆の三子は簡・智・超、默の二子は鑒・恵、いずれも義熙中に顕職を歴任した。

王導の子・王薈とその子・王廞

  • 王薈、字は敬文。恬淡で栄利を競わず、清官を歴任し吏部郎・侍中・建威将軍・呉国内史。飢饉の年に私米で粥を作り飢民を救い多くの命を救った。中領軍への召還を辞退、尚書・領中護軍、征虜将軍・呉国内史を歴任。桓沖の推挙で江州刺史を求められるが固辞。浙江東五郡の督・左将軍・会稽内史、鎮軍将軍・散騎常侍に進み、任地で没して衛将軍を追贈された。
  • 子の王廞は太子中庶子・司徒左長史を経て、母の喪で呉に居た際、王恭の挙兵に呼応し建武将軍・呉国内史として起兵、異己を誅殺し虞嘯父らを呉興・義興に派遣して兵を募り万を数える軽俠の徒が集まった。しかし挙兵から十日足らずで王国宝が処刑され恭が兵を収めたため、廞は職を失う。怒った廞は恭討伐に転じるが劉牢之に曲阿で撃破され行方不明となった。長子泰は恭に殺され、次子華は父の生死不明を憂え喪に服したが、従兄王謐から死を知らされ喪を発し出仕した。
  • かつて王導が渡江の際、郭璞に占わせたところ「吉、無不利。淮水絶ゆれば王氏滅ぶ」との卦が出て、後の子孫の繁栄はまさにこの言葉通りであったという。

史臣曰

  • 史臣曰く、龍が天に昇るには雲雨の勢いを頼み、帝王が興隆するには股肱の力を要する。軒轅(黄帝)は聖人でも師臣を得て図を授かり、殷湯も哲后でありながら伊尹の輔佐で業を成した。晋の建国は陵墓の寡(司馬懿の陰謀)に発し徳が伴わず、九州の心は服さず四夷はその弊に乗じた。中原の崩壊後、江左に晋室が再興したが、思晋の士(漢の光武帝を思う士のような存在)はおらず、輔佐は困難を極めた。
  • 王導(茂弘)は皇族の藩屏として交誼を結び、才智と江湖の勢いを恃み、克復の功を建て翼賛の道を成した。王敦の内乱、蘇峻の乱に際し、宰相として揺るがぬ心で忠謀を運らし、賊を平らげた。誠は日を貫き、主君を全うさせ、貞志は霜を凌ぎ、国は綴旒(危うい状態)となっても滅びなかった。乱世にあって学校を興し章程を立てた見識は宏遠であった。蕭何・曹参が漢を輔けたのに比べれば功は半ばに及ばぬが、管仲・諸葛亮が小国・新邦を輔けたのと同列に論じるべきであろう。三世(元帝・明帝・成帝)に仕えて終始一心、「仲父」と称されたのもむべなるかな。恬・珣は徳を継ぎ、謐はその名を辱めた。「深山大沢に竜蛇あり」とはまさにこのことである。