晉書卷六十二 列傳第三十二 祖逖

出自と若年期

  • 祖逖、字は士稚、范陽郡遒県の人。代々二千石を出す家柄。父の祖武は上谷太守。兄弟六人あり、兄の祖該・祖納は才幹に優れた。祖逖自身は十四五歳まで学問を修めず兄たちを心配させたが、財を軽んじ義を好み、田舎の民に穀帛を分け与えて郷党の信望を得た。のち博覧強記となり、司州主簿として劉琨と親交を結び、共に寝食を共にした。
  • 夜半に鶏の声を聞いて劉琨を蹴り起こし「これは悪い声ではない」と共に舞った故事(「聞鶏起舞」)が伝わる。二人はしばしば「天下大乱の折には中原で互いに功を競おう」と語り合った。

北伐の決意と長江渡渉

  • 恵帝の北伐(成都王討伐)に従い蕩陰で敗れて洛陽に退く。洛陽大乱の後、親族数百家を率いて淮泗へ避難し、みずから徒歩で老人・病人を車に乗せ、物資を共有して行主に推された。元帝の下で軍諮祭酒、丹徒の京口に居す。
  • 揚土の飢饉で困窮した義徒が盗みを働いても取りなす人情家であった。元帝が江南の平定を優先し北伐に消極的なのを見て、「晋室の乱は籓王の権力争いによるもので、民には奮起の志がある、統率者を得れば国恥を雪げる」と進言。元帝は奮威将軍・豫州刺史に任じ、千人分の食糧と布三千匹を与えたが武具は与えず、自弁の招募とした。祖逖は流民の部曲百余家を率いて渡江し、中流で「祖逖、中原を清められねば二度と渡らじ」と誓った(「中流撃楫」の故事)。江陰に屯し武器を鋳造して二千余人を得てから進軍した。

河南平定

  • 譙にあった塢主張平・樊雅らを、部下謝浮を使って内部から切り崩し帰順させる。糧道が続かず軍中飢餓に陥りながらも太丘に進出。樊雅の夜襲を受けるが撃退し、蓬陂の陳川からの援軍を得て譙城を攻略。石季龍の来襲は桓宣の援軍で退けられ、以後桓宣は祖逖のもとに留まり諸塢の平定を助けた。
  • 陳川配下の李頭が樊雅討伐で功を立てるが、駿馬を巡る嫉妬から陳川に殺され、李頭の部下が祖逖に帰順、陳川は怒って石勒に降った。祖逖は陳川討伐に赴き、援軍の石季龍を撃破。以後、東台・西台での対陣(囊に土を詰めて米に見せかけ敵の焦りを誘う計略など)や汴水での輜重奇襲を経て、石勒の勢力は次第に追い詰められた。趙固・上官已・李矩・郭默ら諸勢力の内紛も仲裁し、黄河以南は晋の版図に復した。
  • 河上の塢主で人質を胡中に置く者にも両属を認め、偽装の略奪で帰順を隠すなど柔軟な統治を行い、微功にも即日恩賞を与え、質素倹約に努め、枯骨を葬って祭った。百姓が「父母を得たようだ」と涙して歌った逸話(「幸哉遺黎」の歌)が伝わり、劉琨も親友への書簡で祖逖の威徳を称賛した。鎮西将軍に進む。

晩年と死

  • 石勒は祖逖の母の墓を修繕させ和議を求めるが、祖逖は返書せず互市のみ許し、利益十倍を得て軍備を充実させた。まさに河北平定を進めようという時、朝廷が戴若思を都督に任じようとし、祖逖は不満を抱く。加えて王敦と劉隗の対立による内乱の懸念から大功が挫かれることを憂い、発病して妻子を汝南の山中に移した。人々は武牢に拠るべきと諫めたが従わず、武牢城の修築を続けた。
  • 病篤い中、術者の予言(「祖豫州、九月に死すべし」)や妖星の出現を自ら見て「私を殺すのか、これは国を助けぬということだ」と嘆き、雍丘で没した、享年五十六。豫州の士女は父母を喪ったかのように悲しみ、譙・梁の百姓は祠を立てた。車騎将軍を追贈。王敦は生前祖逖を恐れて謀反を控えていたが、死後ついに専横を極めた。弟の祖約が跡を継いだ(別伝)。

祖逖の兄・祖納

  • 祖納、字は士言。最も品行に優れ清談を能くした。至孝の性格で、若く孤貧の中みずから炊事して母を養った。平北将軍王敦がこれを聞き婢二人を贈り従事中郎に招いた。「奴の価は婢の倍」とからかわれると、「百里奚も羊皮五枚で買われたが賢者だった」と応じた逸話が伝わる。尚書三公郎から太子中庶子を歴任し、多くの是正を成し遂げた。
  • 斉王冏の挙兵時、越王倫(原文のまま)に連座しかけた北海王実・董艾の弟らを上疏して救った。中護軍・太子詹事、晋昌公に封ぜられる。洛陽の乱を避け東南へ移り、元帝の下で軍諮祭酒。
  • 囲碁を好み、王隠に「禹は寸陰を惜しんだが囲碁の話は聞かない」と評されると「私は憂いを忘れるためだ」と応じた。王隠との問答では、修史の意義(応劭『風俗通』、崔寔『政論』、蔡邕『勧学篇』などの例)を説かれ、祖納は帝に史官設置を進言、王隠を推薦した。帝は記室参軍鍾雅に諮ったが「王隠に史才はあるが今はまだ任に堪えない」とされ沙汰止みとなった。しかし晋の史官設置は祖納の献策に始まる。
  • 弟の祖約は祖逖と同母で親しかったが、祖納とは異母で不和があった。祖納は「祖約は驕慢で乱を招く恐れがある」と密かに帝に上奏したが、祖約に漏れて恨まれ、朝廷にも疎まれた。後に祖約が反乱を起こすと、人々は祖納の先見の明を評価した。温嶠は同郷の縁で祖納を敬い、光禄大夫に推挙した。
  • 梅陶との「月旦評」を巡る問答、王隠を交えた議論、汝潁の士(利き者)と幽冀の士(鈍き者)の比喩問答など、清談家としての逸話が多く伝わる。自宅で没した。

史論

  • 史臣曰く、劉琨は若い頃、賈謐の館に出入りし趙王倫の幕に身を投じるなど、佻巧の徒であったと言わざるを得ない。祖逖も貧者に穀を分け鶏鳴に舞い立った初心は、中原回復を志しながらも乱世に乗じた面があったろう。しかし西晋崩壊後、三帝が流亡し戎狄が跳梁する中、二人は各々奇才を発揮し、危難に立ち向かい節義を全うして、共に高位に上り一時の名を成した。「世乱れて忠良を識る」とはまさにこのことである。天が晋を祚けず、劉琨は独り異民族の中で強敵に当たり、ついに幽閉の身で誅殺された、痛ましいことである。祖逖は中興の緒に連なり中原の半ばを回復したが、妖星が凶を告げ、志半ばで倒れた、惜しむべきことである。