晉書卷六十二 列傳第三十二 劉琨
劉琨(字は越石、?–318年)。中山靖王劉勝の後裔。文才で知られ「二十四友」の一人に数えられた後、八王の乱を経て并州刺史となり、匈奴劉氏の攻勢下で晋陽を再建し北方の防衛にあたった。段匹磾のもとで最期は讒言により縊死させられたが、死後に忠節が認められ名誉回復した。
年表(9件)
- 永嘉元年并州刺史・振威将軍・匈奴中郎将となり赴任、荒廃した并州の窮状を上表する
- 永嘉年間荒廃した晋陽に入り再建、劉元海の陣営を離間して投降させ蒲子への遷居に追い込む
- 永嘉年間寵臣徐潤の讒言により令狐盛を誅殺、その子の内応で劉聡の子劉粲に晋陽を急襲され父母を殺害される
- 愍帝即位大将軍・都督并州諸軍事・散騎常侍・仮節を拝命
- 建興三年司空・都督并冀幽三州諸軍事を拝命(辞退)、猗盧の遺衆を得て勢力回復するも石勒に大敗
- のち幽州刺史・鮮卑の段匹磾のもとに身を寄せ義兄弟の契りを結ぶ
- 建武元年段匹磾と石勒討伐を約すが従弟末波の裏切りで頓挫、元帝より侍中・太尉を授かる
- 建武元年ののち段匹磾に疑われ抑留された末、詔を偽られ縊死させられる。四十八歳
- のち旧部下盧諶・崔悅らの上表と温嶠の重ねての上疏により冤罪が認められ、侍中・太尉を追贈、諡は湣
出自と若年期
- 劉琨、字は越石、中山郡魏昌県の人、漢の中山靖王劉勝の後裔。祖父劉邁は相国参軍・散騎常侍、父劉蕃は光禄大夫。
- 二十六歳で司隷従事。石崇の金谷の別荘での詩会に参加し文才を認められた。秘書監賈謐の周辺に集った文人二十四人(石崇・欧陽建・陸機・陸雲ら、劉琨兄弟を含む)は「二十四友」と呼ばれた。太尉高密王泰の掾から著作郎・太学博士・尚書郎を歴任。
八王の乱の渦中で
- 趙王倫の記室督・従事中郎となる。倫の子荂は劉琨の姉婿であり、劉琨父子兄弟は倫に重用された。倫の簒奪後、荂が皇太子となり劉琨はその詹事に。三王討伐の際は成都王穎との黄橋の戦いに大敗し河橋を焼いて自守。
- 斉王冏輔政下では特赦され、兄劉輿は中書郎、劉琨は尚書左丞・司徒左長史。冏の敗死後は范陽王虓の司馬となる。
并州刺史としての苦闘
- 恵帝の長安出奔に伴い父劉蕃は淮北護軍・豫州刺史に。劉喬が范陽王虓を許昌で攻めた際、劉琨は虓を助けるが敗れ、共に河北へ逃げ、父母は劉喬に捕らえられる。劉琨は冀州刺史温羨を説いて虓に位を譲らせ、幽州の王浚から突騎八百を得て東平王懋を廩丘で破り、石超を斬り呂朗を降し、父母を取り戻す。大駕を長安に迎えた功で広武侯(食邑二千戸)。
- 永嘉元年、并州刺史・振威将軍・匈奴中郎将。赴任の上表では、道中の艱難、并州の荒廃(十人中八九が流亡)、白骨が野に満ちる惨状を訴え、穀・絹・綿各五百万を求め、朝廷はこれを許した。
晋陽の再建と劉元海への対応
- 東嬴公騰が并州を去った後、住民は二万戸を切るまで荒廃し、府舎は焼け屍が満ちていた。劉琨は千余人を集めて晋陽に入り、荒地を切り開き死者を葬り、府朝・市獄を建てて統治を再建。劉元海(劉淵)の陣営を離間して一万余落を投降させ、元海を恐れさせ蒲子への遷居に追い込んだ。
- 人材が多く帰服したが、統率力に難があり、常に奢侈と声色を好み、いったん自制してもすぐ元に戻る性癖があった。
令狐盛殺害と晋陽陥落
- 寵臣徐潤の専横を諫めた奮威護軍令狐盛を、徐潤の讒言により誅殺。母は「己に勝る者を除くことばかり考えては身を滅ぼす」と諫めたが従わなかった。令狐盛の子泥は劉聡(劉元海の子)に走り内情を伝え、劉聡は泥を郷導として侵攻。
- 上党太守が降り雁門烏丸も反乱、劉琨自ら討伐に出た隙に劉聡の子劉粲と令狐泥が晋陽を急襲、太原太守高喬も降伏、劉琨の父母は共に殺害された。劉琨は猗盧(拓跋猗盧)と合力して劉粲を大破するも、以後の追撃は成功せず、猗盧は戦力不足を理由に軍を引いた。劉琨は復讐を誓いつつ、陽邑城に移り離散した民を招集した。
大将軍拝命と上疏
- 愍帝即位に伴い大将軍・都督并州諸軍事・散騎常侍・仮節を拝命。謝表では、晋文公の郤縠、高祖の韓信の故事を引きつつ自らの器量不足を述べ、曹沫・馮異のように敗北からの巻き返しを期す決意を述べた。
- 麹允が劉曜を破り趙冉を斬った際にも上表し、鮮卑猗盧との共同作戦の頓挫、大司馬・博陵公王浚が石勒に捕らわれたこと、石勒との対峙の苦境を報告しつつ、劉聡・石勒を滅ぼす決意を表明した。
再起と挫折
- 建興三年、司空・都督并冀幽三州諸軍事を拝命(司空は辞退)。猗盧父子が相争い病死すると、子の劉遵が猗盧の遺衆三万・馬牛羊十万を率いて帰順し、劉琨は勢力を回復。しかし石勒の楽平攻撃に際し、箕澹の慎重論(新参の兵をすぐ用いず、まず内治を固めるべき)を退けて出兵し、石勒の伏兵に大敗、一軍が全滅した。
- 旱魃も重なり自立不能となり、幽州刺史・鮮卑の段匹磾のもとに身を寄せ、婚姻を結んで義兄弟の契りを結んだ。
段匹磾との盟約と最期
- 西都(長安)陥落後、元帝が江左で即位すると、劉琨は長史温嶠に勧進の使者を送らせ、河朔の征鎮夷夏百八十人連名の上表を主導した(詳細は「元帝紀」)。
- 建武元年、段匹磾と石勒討伐を約すが、匹磾の従弟末波が石勒の賄賂を受けて出兵せず頓挫。元帝は劉琨を侍中・太尉に転じ名刀を贈った。
- 匹磾が兄の喪に赴いた隙、子の劉群を送った際に末波の襲撃に遭い劉群が捕らえられる。末波は劉群を厚遇し、匹磾を裏切らせようと書簡を送るが匹磾の哨戒に露見。匹磾は劉琨を疑わなかったが、弟の段叔軍が「劉琨を担がれれば我が一族は滅ぶ」と進言し、匹磾は劉琨を抑留した。
- 劉琨の庶長子劉遵は誅殺を恐れ長史楊橋・治中如綏と籠城したが、匹磾の攻撃で降伏し楊橋・如綏は斬られた。劉琨は自らの死を悟りながらも動じず、別駕盧諶に五言詩を贈り、太公望・鄧禹・重耳・小白などの故事を引いて心情を託した。
- 段匹磾の部下・辟閭嵩らが匹磾襲撃を謀るが密告により誅殺される。王敦が匹磾に劉琨殺害を密使したことを知り、劉琨は「処仲(王敦)の使者が来て告げないのは、私を殺す気だ」と悟った。段匹磾は詔を偽って劉琨を縊死させた。時に四十八歳、子姪四人も共に殺害された。朝廷は段匹磾の兵力を頼みとし、この時は哀悼を公にしなかった。
死後の名誉回復
- 建興三年(原文のまま)、劉琨の旧部下盧諶・崔悅らが上表して冤罪を訴え、劉琨の忠節(石超・呂朗の降伏、晋陽再建、猗盧との協力、匹磾への疑心なき態度など)を詳述し、匹磾の専横と虚偽の詔を批判した。太子中庶子温嶠も重ねて上疏し、帝はついに「忠亮開済、乃ち誠は王家にあり」と詔し、侍中・太尉を追贈、諡は湣とされた。
- 劉琨は志気があり縦横の才を持つが誇張癖もあった。范陽の祖逖と親交を結び、「枕を戈にして朝を待ち、逆虜を討つ志を抱く、常に祖生に先んじられることを恐れる」と書き送った故事が伝わる(「枕戈待旦」「先鞭」の由来)。晋陽で胡騎に幾重にも囲まれた際、月夜に楼上で嘯き胡笳を吹いて敵の望郷の情を誘い、囲みを解かせた逸話も有名。
劉琨の子・劉群
- 劉群、字は公度。父に従い晋陽で乱を経験し、しばしば偏軍を率いて出征。清慎で人望があった。劉琨が匹磾に殺害された後、盧諶らに奉じられ末波のもとに身を寄せる。温嶠の上表により咸康二年、成帝は劉群らの招致を詔したが、末波兄弟がその才を惜しみ、道の険しさを口実に送らなかった。
- 石季龍が遼西を滅ぼした際、劉群・盧諶・崔悅も共に胡中に没し、季龍はいずれも厚遇、劉群は中書令となった。冉閔の敗北後に劉群は殺害された。当時、石勒・石季龍のもとで登用され大官に至った晋人は、裴憲・石璞・鄭系・荀綽・傅暢と劉群・崔悅・盧諶ら十数人のみであった。
劉琨の兄・劉輿
- 劉輿、字は慶孫。才幹に優れ、劉琨と共に尚書郭奕の甥で、「洛中奕奕、慶孫・越石」と称された。孫秀を侮っていたため趙王倫執政期に免官されるが、妹が倫の世子荂の妃だった縁で復官。斉王冏輔政下で中書侍郎、東海王越・范陽王虓の挙兵時に潁川太守。
- 河間王顒が劉喬に許昌の虓討伐を命じた矯詔には劉輿兄弟への懸賞(斬った者に三千戸侯・絹五千匹)が含まれた。虓の敗北後は共に河北へ逃れ、虓の鄴鎮守下で征虜将軍・魏郡太守。
- 虓の死後、東海王越に警戒されたが、天下の兵簿・倉庫・器械の情勢を暗誦し的確な献策で信任を得て左長史に。越府では「潘滔大才、劉輿長才、裴邈清才」と称された。繆播・王延らの誅殺は劉輿の謀略とされる。王延の愛妾荊氏を娶ろうとして王俊と争い、王俊が免官される一幕もあった。劉琨を并州に送り出したのも劉輿の進言による。洛陽陥落前、疽を病み四十七歳で没し、驃騎将軍を追贈、定襄侯・諡は貞。子は劉演。
劉輿の子・劉演
- 劉演、字は始仁。太尉掾から尚書郎、父の喪に服した後に爵を継ぎ、東海王越の主簿、太子中庶子、陽平太守を歴任。洛陽から劉琨のもとに走り、輔国将軍・魏郡太守。劉琨の石勒討伐に従い勇士千人を率いて北中郎将・兗州刺史として廩丘を守り、王桑を斬り趙固を敗走させ七千の兵を得た。石勒の攻撃を退け、元帝から都督・後将軍・仮節を授かる。のち石季龍に包囲され、邵続・段鴦に救援を求め鴦の騎兵に救われるが、厭次に屯した後殺害された。
- 弟の劉胤は劉琨のもとへ向かう途中、烏桓の賊と戦い戦死。劉胤の弟劉挹は東海王越の掾として劉琨と共に殺害された。劉挹の弟の劉啓・劉述は劉琨の子劉群と共に末波のもとにあり、のち石季龍のもとに入った。劉啓は石季龍の尚書僕射となった後帰国し、穆帝の下で前将軍・給事中、永和九年の殷浩の北伐で姚襄に敗れて戦死。劉述は季龍の侍中を務め、劉啓と共に帰国し驍騎将軍となった。