家系と初期の経歴
- 劉喬、字は仲彦、南陽の人。先祖は漢の宗室で安眾侯に封ぜられ三代続いた。祖父劉廙は魏の侍中、父劉阜は陳留相。秘書郎から王戎の参軍として呉討伐に従軍、滎陽令・太子洗馬を歴任。楊駿誅殺の功で関中侯、賈謐誅殺にも与して安衆男に封ぜられ、散騎常侍に進む。
斉王冏輔政期の直言
- 斉王冏が嵇紹を厚遇するのを見て、劉喬は「裴・張の誅殺の際に恐れて財物を差し出した嵇紹に、なぜ特別な礼を尽くすのか」と諫め、冏はこれをやめた。嵇紹との応酬でも意味深長なやり取りを残す。御史中丞となり、冏の腹心董艾の罪を二十日で六度弾劾するが、董艾の讒言で免官、屯騎校尉に。張昌の乱では豫州刺史として劉弘と共に討伐、左将軍に進む。
范陽王虓との抗争
- 恵帝の長安出奔後、劉喬は諸州郡とともに義兵を挙げ大駕を迎えようとしたが、東海王越が范陽王虓を豫州刺史に任じたことに反発し、詔を受けずとして兵を発して抗した。潁川太守劉輿の罪状を上表し、河間王顒はこれを受けて劉弘・劉准・彭城王釋らに命じ虓を許昌で攻めさせた。劉輿の弟劉琨が救援に向かうが間に合わず虓は敗れる。劉喬は劉琨の父劉蕃を捕らえ檻車に載せて考城に拠り抗戦したが敗れる。
- 劉弘・劉准らの援軍を得て平氏に屯し、劉弘は劉喬・東海王越の双方に和解を勧める書簡・上表を送るが容れられず。東海王越自ら大軍を率いて進撃、劉喬は子の劉祐を蕭県に派して防がせるが、劉琨の別働隊に敗れて潰走。劉喬は五百騎で平氏に奔る。
- 帝の洛陽帰還後、大赦により東海王越は劉喬を太傅軍諮祭酒に、のち都督豫州諸軍事・鎮東将軍・豫州刺史に復した。官にて没す、享年六十三。愍帝末、司空を追贈された。子の劉挺は潁川太守、その子が劉耽。
劉喬の孫・劉耽――桓玄政権下での栄達
- 劉耽、字は敬道。若くして品行に優れ、『詩』『礼』三史に通じた。度支尚書・散騎常侍を歴任し、職務は公平廉慎で評判が高かった。桓玄はその娘婿であり、桓玄輔政下で尚書令・侍中に任じられたが固辞し、特進・金紫光禄大夫に改められた。まもなく没し、左光禄大夫・開府を追贈された。子は劉柳。
劉耽の子・劉柳
- 劉柳、字は叔恵、名声があった。若くして清官を歴任、尚書左右僕射を務める。右丞傅迪は博読だが理解が浅く、劉柳は『老子』のみを読むと軽んじられたが、劉柳は「多く読んでも理解できねば書物の入れ物に過ぎない」と反論し、世人はこれを評価した。徐・兗・江三州刺史を経て没し、右光禄大夫・開府儀同三司を追贈。劉喬の弟劉乂は始安太守、その子劉成は丹陽尹。
史論
- 史臣曰く、周浚は人物鑑識に優れ、周馥は識見精密、華軼は礼経を重んじ、劉喬は志操実直で、みな内外の官を歴任し功績を挙げた。しかし周馥は遷都を献策して東海王越に逆らい、華軼は朝廷への忠誠から琅邪王(元帝)に罪を得て、いずれも汚名を着せられ誅戮された、哀しいことである。もし伊川で従属せず、淮水沿いに拠点を築き荊楚の資と呉越の兵、淮海の穀を頼れば、天命を祈らずとも国難を緩和できたはずである。『詩』に「良臣を用いなければ、我らに背かれる」というのはこのことである。苟晞は微賤の身から上将に昇ったが、功績が立たぬうちに貪暴の兆しが現れ、石勒の手で殺された、まさに「人を殺すこと多ければ、いずれ自らに及ぶ」の通りである。