晉書卷六十一 列傳第三十一 苟晞

勇将としての台頭

  • 苟晞、字は道将、河内郡山陽の人。若くして司隷部従事となり、校尉石鑒に重用される。東海王越の侍中府で通事令史、陽平太守を歴任。斉王冏輔政下では尚書右丞・左丞として権勢家董艾を弾劾し恐れられたが、冏誅殺により免官。
  • 長沙王乂の下で従事中郎、恵帝の成都王穎親征では北軍中候。恵帝の洛陽帰還後、范陽王虓を頼り、兗州刺史代行を承制で得る。

汲桑討伐と諸戦役

  • 汲桑が鄴を破った際、東海王越の先鋒として汲桑を撃破し鄴を平定。呂朗らも討滅。のち高密王泰が青州の劉根を討つのに従い、公師藩・石勒を破り、「韓信・白起に比肩」と称賛され、撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事・東平郡侯(食邑一万戸)に進む。
  • 事務処理に優れ果断だったが、法をもって従母(叔母)の子を将軍にせよとの願いを拒み、その子が犯法すると躊躇なく斬った逸話が伝わる。多く珍物を都の権貴に贈って処世した。

東海王越との対立

  • 東海王越に厚遇されたが、司馬潘滔の進言により青州へ配置転換され征東大将軍・開府儀同三司・都督青州諸軍事・郡公に進む。以降、参佐を多数置き、酷烈な統治で「屠伯」と呼ばれるほど処刑を重ねた。弟苟純を青州に配し、「小苟酷于大苟」と評されるほど過酷であった。
  • 潘滔らに誣告され怒り、越に潘滔らの処罰を求めるが容れられず、公然と東海王越を批判し、諸州に檄を飛ばして越の罪状を訴えた。

懐帝の詔と権力闘争

  • 懐帝は東海王越の専権を憂え苟晞に討伐を促す詔を下し、苟晞も応じて越討伐の上表を重ねた。しかし王彌配下の曹嶷の攻勢で青州は乱れ、苟晞は敗れて高平に逃れる。
  • 懐帝は再び密詔で越討伐を促し、苟晞は上表して応じたが、洛陽陥落後、豫章王端を奉じて皇太子とし行台を設置。東海王越の死後、大将軍大都督・督六州諸軍事に任じられ黄鉞を加えられた。

驕奢と滅亡

  • 富貴を極め奴婢千人、侍妾数十を抱え、刑政は苛虐を極めた。諫言した遼西の閻亨を殺害し、病中の従事中郎明預の諫めにも激怒したが、明預の道理に一時恥じ入った。しかし人心はすでに離反し始めていた。
  • 疫病・飢饉が重なり将領も離反、石勒配下の石季龍が陽夏を攻め王贊を滅ぼし蒙城を急襲、苟晞は捕らわれ司馬として使役された後、一月余りで殺害された。子はなく、弟苟純も殺された。