出自と初期の経歴
- 周浚は字を開林といい、汝南郡安成県の人。父の周裴は少府卿。
- 果断で烈しい性格で、人物鑑識に優れた。同郷の身分低い史曜を見出して友とし、妹を嫁がせた。史曜は後に世に名を成した。
- 州郡の招聘には応じず、のちに魏に仕えて尚書郎となり、御史中丞・折沖将軍・揚州刺史を歴任し、射陽侯に封じられた。
呉討伐の功
- 王渾に従って呉を討ち、江西の屯戍を破り、孫皓の中軍と横江で決戦して丞相張悌ら数千級を斬り、万を数える捕虜を得た。
- 別駕何惲は、王濬が武昌を破った勢いに乗じ建鄴へ急行すべきと進言。周浚は賛同し、王渾に伝えたが、王渾は「詔は江北で呉軍を牽制せよというもの。龍驤(王濬)が我が指揮下に入ってから共に渡るべき」と拒否。
- 何惲は「龍驤が万里の敵を破ったのに今更節度を受けるはずがない」と反論するが、王渾は聞き入れず。結局王濬が先に三山へ進み、孫皓は王濬に降伏した。王渾はこれを深く恨み、功を争おうとした。何惲は周浚に、謙譲を説く書簡を送り、周浚は王渾を諫めたが容れられず、互いに上表して争った。
呉平定後
- 呉城の接収に尽力し、成武侯に進封、食邑六千戸・絹六千匹を賜る。翌年秣陵に移鎮。呉の遺民の逃亡が相次いだがこれを討平し、故老を礼遇し人材を求め、呉人の心を得た。
- 呉未平定の時期、弋陽で呉と互市を行っており、呉将蔡珪の書簡(弟蔡敏への訓戒)を得て「君子である」と評価。渡江後に蔡珪を見出し、同郷(汝南)出身と知って戯れに語り合った。
- 侍中に転じ、武帝から一族の人材を問われ、叔父周恢・従弟周馥を推薦、いずれも登用された。少府に転じ将作大匠を兼ね、宗廟改営の功で邑五百戸を加増。王渾の後任として使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり、任地で没した。
- 三子は周顗・周嵩・周謨。周顗は爵を継ぎ、別に伝がある。
周浚の子・周嵩――上疏と直言
- 周嵩、字は仲智。狷介果敢で才気に任せて人を凌ぐ性格。元帝の丞相府で参軍となり、晋王即位後は奉朝請。
- 元帝が晋王から帝位に進もうとする議に対し、周嵩は「梓宮いまだ還らず、旧京いまだ清まらぬ今、周公の道を明らかにし国恥を雪ぐべき」と諫める上疏を行い、帝の意に逆らって新安太守に左遷された。
- 不満から侍中戴邈の前で朝臣を批判し戴邈を誹謗、密告され、帝に「驕慢で朝廷を軽んじる」と面責される。周嵩は「堯舜の代にも四凶がいた」と答え、帝は怒り廷尉に下す。廷尉華恆は大不敬として棄市を求めたが、兄周顗の権勢により減刑、免官にとどまる。のち廬陵太守(赴任せず)、御史中丞。
周嵩――王導擁護の上疏
- 元帝が王敦の勢力を警戒し王導らを疎んじ始めた際、周嵩は上疏し、傅説・申伯・管仲・介子推の故事や、田氏・王莽の簒奪の経緯、光武帝の功臣処遇などを引き、王導・王廙は佞臣ではなく忠臣であると弁じ、王業がいまだ成らぬ今、賢を疎んじ佞を近づければ大業を損なうと諫めた。上疏は帝を感悟させ、王導らは事なきを得た。
周嵩の死
- 王敦が周顗を殺害した後、使者を送って周嵩を弔問させたが、周嵩は「亡兄は天下の人であり天下の人に殺された、何を弔うことがあろう」と拒絶。王敦は恨みつつも人心を失うことを恐れ害さず、従事中郎に用いた。
- 周嵩は王応(王敦の養子)の嫂の父に当たり、兄周顗の非業の死を憤り「王応は兵を統べるべきでない」と公言。王敦は妖人李脱を使い、周嵩と周筵が密かに人事を図っていると誣告させ、ついに周嵩を殺害した。周嵩は仏事に精通し、刑場でもなお経を誦していたという。
周浚の子・周謨――兄周顗の名誉回復
- 周謨は兄周顗の縁で顕職を歴任。王敦の死後、戴若思・譙王承らへの贈官が行われたが周顗にはまだ及ばなかった。後軍将軍であった周謨は、亡兄の功績と忠節を述べ、贈官を求める上疏を二度行い、ついに周顗への追贈が実現した。
- 周謨は少府・丹陽尹・侍中・中護軍を歴任し、西平侯に封ぜられた。没後、金紫光禄大夫を追贈され、諡は貞。
周浚の従父弟・周馥――累進と壽春遷都策
- 周馥、字は祖宣、周浚の従父弟。父周蕤は安平太守。友人成公簡と並び称され、司徒府に仕えて左西属、司徒王渾の推薦で尚書郎、のち司徒左長史・吏部郎として選挙の公正さで名声を得た。御史中丞・侍中を経て徐州刺史・冠軍将軍・仮節、廷尉に召される。
- 恵帝の鄴出奔の際、河南尹を守る。清河王覃を太子に擁立しようとした陳眕・上官已らの動きに巻き込まれ、上官已の専横を国賊として除こうと謀るが露見し、司隸満奮は殺害され自身は辛くも逃れる。上官已が張方に敗れると河南尹に復帰。東海王越の大駕迎えに従い、中領軍・司隸校尉・散騎常侍・仮節を歴任、都督諸軍事として澠池に駐屯。帝の帰洛後、平東将軍・都督揚州諸軍事、鎮東将軍として周玘らと陳敏を討ち滅ぼし、永寧伯に封ぜられた。
周馥――遷都上表と敗死
- 東海王越の専横に憤り、洛陽の危機を見て天子を寿春へ遷すことを画策。永嘉四年、長史呉思・司馬殷識と連名で上表し、殷・周の遷都の故事を引きつつ、寿春の地理的優位を説き、精兵三万で天子を迎える計画、荊・湘・江・揚からの物資供出を提案した。
- 東海王越に事前に諮らず上表したため越は激怒。越と淮南太守裴碩の関係も絡み、裴碩は周馥に叛旗を翻し、周馥に敗れて東城に退き元帝に救援を求めた。元帝は甘卓・郭逸を派して周馥を攻めさせ、安豊太守孫惠も呼応し、周馥の旧部下謝摛に討伐檄文を書かせたが、謝摛は涙して草稿を破棄した。それでも周馥の軍は十日で潰走し、項に逃れたが新蔡王確に拘束され、憂憤のうちに病没した。
- 後日、元帝が旧知の華譚に「周祖宣はなぜ反乱に至ったのか」と問うと、華譚は「周馥は寇賊の蔓延と王威の衰えを憂え遷都を図ったのであり、時期を得ず京都を失陥したに過ぎない、彼の策に従っていれば晋の滅亡はもっと遅れたかもしれない」「反と呼ぶのは誣いである」と弁護し、元帝も納得した。
- 周馥には二子、周密(字泰玄、清士と称された尚書郎)と周矯(字正玄、才幹あり)がいた。