晉書卷六十 列傳第三十 張輔

地方官としての公正と最期

  • 張輔、字は世偉、南陽西鄂の人、漢の河間相張衡の後裔。若くして才幹があり従母の兄劉喬と並び称された。初め藍田令に任じられ豪強に屈しなかった。当時、強弩將軍龐宗は西州の大族で、護軍趙浚はその婦の一族であったため僮僕が放縦を極め百姓の患いとなっていたが、輔はこれを取り締まり2人の奴を殺し、宗の田200余頃を奪って貧民に与え、県中がこれを称えた。山陽令に転じると、太尉陳準の家僮もまた横暴であったため輔はこれも撃ち殺した。尚書郎に累遷し宜昌亭侯に封じられた。
  • 御史中丞に転じた。当時、積弩將軍孟観と明威將軍郝彥が不和であり、観は軍事にかこつけて彥を殺害し、また賈謐・潘岳・石崇らが互いに引き立て合い、義陽王威にも詐りの事があったため、輔はこれをすべて弾劾した。梁州刺史楊欣は姉の喪に服して10日も経たぬうちに、車騎長史韓預が強引にその娘を娶ろうとした。輔は中正としてこれを咎め預を貶めて風俗を清め、識者はこれを称えた。孫秀が権を執るようになると義陽王威は輔を秀に讒言し、秀はこれを信じて輔を法に照らして罰しようとした。輔は秀に書を送り「私はただ古人を慕い、官にあっては道を行うのみで自らの身の保全は顧みません。今、義陽王は寛大でこれを気にかけていないようですが、私の母は76歳で常に私を案じています、私が怨恨によって罪を得るのではと恐れています。どうか明公が私のこれまでの行いを詳しく検分してくださるよう願います、私はただ国の愚臣に過ぎません」と述べた。秀は凶悪狡猾だが輔の正しさを知っており、義陽王の誣告と分かってやめた。
  • 後に馮翊太守に遷った。当時、長沙王乂は河間王顒が関中を専制し不臣の兆しがあるとして惠帝に告げ、密詔で雍州刺史劉沈・秦州刺史皇甫重に顒討伐を命じさせた。沈らは顒と長安で戦い、輔は兵を率いて顒を救援したため沈らは敗れた。顒はこれを徳とし、輔を重に代えて秦州刺史とした。顒の危難に赴いた際、金城太守游楷もまた功があり梁州刺史に転じたが赴任しなかった。楷は輔の帰任を聞いても迎えず密かに図ろうとした。さらに天水太守封尚を殺し西方に威を示そうとし、隴西太守韓稚を召して協議したが決着しなかった。稚の子の韓朴は武勇に優れ異論者を斬り、ただちに兵を集めて輔を討った。輔は稚と遮多穀口で戦い、輔軍は敗れ天水の元帳下督富整に殺された。
  • かつて輔は論を著して「管仲は鮑叔に及ばない、鮑叔は仕えるべき相手を知り身を投じるべき相手を知っていた。管仲は主に仕えながら事を成せず、逃れた先も事を成せる国ではなかった、三帰・反坫(豪奢の象徴)のようなことは鮑叔ならしなかった」と述べた。また班固・司馬遷を論じて「遷の著述は言葉が簡約で事が挙がる、3千年の事を50万言で叙している。班固は2百年の事を80万言で叙しており、繁簡が異なる、遷に及ばない一点である。良史は事を述べ、善は勧奨するに足り悪は戒めるに足る、これは人の道の常である。取るに足らない些事も班固はすべて書いている、遷に及ばない二点である。晁錯を貶めたのは忠臣の道を傷つけるもので、遷に及ばない三点である。遷は創始者であり固はこれに因ったに過ぎず、難易もさらに異なる。また遷は蘇秦・張儀・范睢・蔡沢の伝を作り、辞を尽くし流麗であり、その大才を明らかにするに足る。ゆえに弁士を述べれば辞藻は華麗、実録を叙せば核心を隠し名実を検める、これが遷が良史と称される所以である」と論じた。また魏武帝は劉備に及ばず楽毅は諸葛亮に劣ると論じたが、その言葉の多くは伝わっていない。