皇太弟から非業の最期まで
- 成都王司馬穎、字は章度、武帝の第16子。太康末年に封を受け食邑10万戸。後に越騎校尉を拝し散騎常侍・車騎將軍を加えられた。賈謐がかつて皇太子と博(賭け事)をして道を争った際、その場にいた穎は「皇太子は国の儲君である、賈謐は何と無礼なことをするのか」と声を厲まして叱った。謐は恐れ、これにより穎は平北將軍として鄴に出鎮させられた。後に鎮北大將軍に転じた。
- 趙王倫の簒奪の際、征北大將軍に進み開府儀同三司を加えられた。齊王冏が義兵を挙げると穎も兵を発してこれに応じ、鄴令盧志を左長史、頓丘太守鄭琰を右長史、黄門郎程牧を左司馬、陽平太守和演を右司馬とした。兗州刺史王彥、冀州刺史李毅、督護趙驤・石超らを前鋒とし、檄が及ぶ先々で呼応が起こった。朝歌に至った時には20余万に膨れ上がった。趙驤は黃橋で倫の将士猗・許超に敗れ8千余人が死に軍は震撼した。穎は朝歌に退いて守ろうとしたが盧志・王彥の策を用い、趙驤に8万を率いさせ王彥とともに進ませた。倫は再び孫会・劉琨らに3万を率いさせ士猗・許超と合流して驤らに対抗させ、精鋭の甲兵は日に輝き鉄騎が前駆した。士猗は勝ちに乗じ驤を軽んじたが、温に至る10余里手前で再び大戦となり士猗らは潰走した。穎はついに河を渡り勝ちに乗じて進んだ。左將軍王輿が孫秀を殺し趙王倫を幽閉し天子を復位させると、穎は京都に入り倫を誅した。趙驤・石超らに齊王冏と共に張泓を陽翟で攻めさせると泓らは降った。冏は初めて大軍を率いて洛陽に入り、自らが謀略の首唱者であるとして威権を専らにした。穎は太学に陣を張り、入朝すると天子自ら労いを述べたが、穎は「これは大司馬冏の勲功であり、臣には関わりありません」と拝謝した。天子に見えた後は帰らず太廟に参詣して東陽城門から出て鄴へ帰った。冏に別れを告げる使者を送ると冏は大いに驚き馳せ出て見送り七里澗で追いついた。穎は車を止めて別れの涙を流し、時事には触れず太妃の病苦のみを顔色に表したため、これを見た百姓はみな心を動かされた。
- 鄴に至ると詔で兼太尉王粹を遣わし九錫の殊礼を加え、大將軍・都督中外諸軍事・仮節・黄鉞を加え録尚書事に進み入朝の際に小走りせず剣を帯び履のまま殿に上がることを許した。穎は徽号を拝受したが九錫の殊礼は辞退し、義兵の功臣盧志・和演・董洪・王彥・趙驤ら5人を開国公侯に封じるよう上表した。さらに「大司馬(冏)は先に陽翟にあって強賊と長く対峙し百姓は傷つき飢餓に苦しんでいる、急ぎ救済すべきだ、郡県の車を発して河北の邸閣の米15万斛を陽翟の飢民に運ばせたい」と上表した。盧志は穎に「黃橋の戦死者は8千余人おり、夏の暑さを経て骨は野に晒され痛ましい限りです。昔、周王は枯骨を葬りました、『詩経』にも『道に死人あれば、これを埋葬せよ』とあります、まして王事に殉じた者ならなおさらです」と進言した。穎は棺8千余を作らせ成都国の予算で衣服を整え、これを収めて祭り黃橋の北に葬り枳の垣で塋域を作った。都祭堂を建て石に刻んで碑を立てその義に赴いた功を記し、遺族には四時の祭祀の場を設けさせ、門閭を表彰し常の戦死者の2倍の恩賞を加えた。さらに河内温県に趙倫の戦死兵1万4千余人を埋葬させた。穎は容貌が美しいが才知に暗く文字も知らなかったが、性質は敦厚で事を盧志に委ねたためその美名を成すことができた。
- 齊王冏が驕奢無礼になると、人望は穎に集まった。詔で侍中馮蓀・中書令卞粹を遣わし穎に入朝して輔政するよう諭し九錫を受けさせようとしたが、穎はなお辞して拝さなかった。まもなく太子太保を加えられた。穎の寵臣孟玖は洛陽に戻りたがらず、また程太妃も鄴都を離れがたく思ったため、この議は長く決着しなかった。招集した将士が長く留められたことを怨み望郷の念を抱き勝手に去る者も出たため、鄴城門に「大事は解散し蚕が急いでいる、しばらく帰って時務に赴け、昔は義のために来た、今は義のために去る、もし再び急ぎがあれば互いに知らせよう」と掲げた。穎は留めておけないと悟りこれを許すと、百姓はようやく安んじた。冏が敗れると穎は朝政を遥かに操り、事の大小を問わずすべて鄴で相談を受けた。後に張昌が荊土を乱すと穎は上表して南征を許可させ、行く先々で呼応が起こった。功に驕り奢侈になり、あらゆる法度が緩んだ様は冏の時よりも甚だしかった。
- 穎はまさに欲を恣にする一方、長沙王乂が内にいることを憚り、河間王顒とともに上表して皇后の父羊玄之・左將軍皇甫商らの誅殺を求め、乂に邸へ帰るよう檄した。そして顒の将張方とともに京都を伐ち、平原内史陸機を前鋒都督・前將軍・仮節とした。穎が朝歌に駐屯した際、夜ごとに矛戟が炎のような光を放ち、営の井戸にはみな龍の姿が現れた。軍を進めて河南に屯し清水を頼りに塁を築き、浮橋を架けて河北と通じさせ大木の函に石を詰めて橋を沈め固定し「石鱉」と名づけた。陸機の軍は敗れ死者が多く出た。機はさらに孟玖に讒言され、穎は機を捕らえて斬り三族を滅ぼした(詳細は「陸機伝」に記す)。穎はそのまま京城を攻めた。当時、常山人の王輿が1万余の衆を集め穎を襲おうとしたが、乂が捕らえられると王輿の党は輿を斬って降った。穎は京師に入った後、鄴の鎮へ戻り20郡を加増され丞相を拝した。河間王顒は穎を儲君(皇太子)とすべきと上表し、太子司馬覃を廃して穎を皇太弟に立て丞相はそのままとされ、制度はすべて魏武帝の故事に倣い乗輿服御はみな鄴へ遷された。宿衛兵を相府に属させ、代わりに王の官吏を宿衛に用いるよう表した。僭上と奢侈は日に日に増し君を無視する心が生じ、孟玖らに政を委ねたため大いに人望を失った。
- 永興初年、左衛將軍陳眕、殿中中郎褾苞・成輔、長沙の旧将上官巳らが天子を奉じて穎を討ち、四方に檄を飛ばすと呼応する者が雲のごとく集まった。軍が安陽に至った際には10余万に達し鄴中は震え恐れた。穎は逃げようとしたが、掾の歩熊は道術を能くし「動くな、南軍は必ず敗れる」と言った。穎が衆を集めて計を問うと、東安王司馬繇は「天子自ら親征されている、甲を脱ぎ縞素(喪服)で出迎え罪を請うべきだ」と言った。司馬王混・参軍崔曠は穎に抗戦を勧め、穎はこれに従い奮武將軍石超に5万を率いさせ蕩陰に駐屯させた。陳眕の弟の匡・規が鄴から王師(朝廷軍)に馳せ参じ「鄴中はすでに離散している」と言ったため、王師は防備を怠った。石超の軍が突然到着すると王師は敗れ、矢は天子の乗輿にまで及び、侍中嵇紹が帝の側で死んだ。左右はみな逃げ散り、天子は槁中(藁の中)に取り残された。石超は帝を奉じて鄴へ行幸させた。穎は建武と改元し、東安王繇を殺し百官を任じ生殺を専断し、鄴の南に郊祀の場を設けた。
- 安北將軍王浚、甯北將軍東嬴公司馬騰が穎の任じた幽州刺史和演を殺すと、穎は浚を征討したが浚は冀州に留まり進まず、騰及び烏丸・羯朱とともに穎を襲った。斥候の騎兵が鄴に至ると穎は幽州刺史王斌及び石超・李毅らに浚を防がせたが羯朱らに敗れた。鄴中は大いに震え百官は逃げ士卒は分散した。穎は恐れ帳下の数十騎を率いて天子を擁し、中書監盧志と単車で逃れ5日で洛陽に至った。羯朱は朝歌まで追ったが及ばず戻った。河間王顒は張方に甲卒2万を率いさせ穎を救援させ、洛陽で方は帝を挟持し穎・豫章王及び高光・盧志らとともに長安へ帰った。顒は穎を廃して封国へ帰らせ豫章王を皇太弟とした。
- 穎が廃されると河北の人々は穎を慕った。鄴の旧将公師藩・汲桑らが穎を迎えようと挙兵し人心は一つにまとまった。顒は再び穎を鎮軍大將軍・都督河北諸軍事に拝し兵千人を給し鄴に鎮させた。穎が洛陽に至った際、東海王越が大軍を率いて天子を迎えると各地で挙兵が相次いだ。穎は北方の勢力が盛んで進めないと恐れ、洛陽から関中へ逃れた。帝が洛陽に戻る中、穎は華陰から武関へ趣き新野に出た。帝は鎮南將軍劉弘・南中郎將劉陶に穎を捕らえさせようとしたため、穎は母と妻を棄て単車で二子の廬江王普・中都王廓とともに河を渡り朝歌へ赴き、旧将士数百人をまとめて公師藩を頼ろうとした。頓丘太守馮嵩が穎・普・廓を捕らえ鄴へ送り、范陽王司馬虓が幽閉したが他意はなかった。虓が急死すると、虓の長史劉輿は穎が鄴都で人望があることを憂い、後患を恐れて喪を秘し台使(朝廷の使者)を偽って詔と称し夜に穎に死を賜った。穎は看守の田徽に「范陽王は死んだのか」と尋ねたが徽は「知りません」と答えた。穎は「卿は何歳か」と問い徽は「50です」と答えた。穎は「天命を知っているか」と問い徽は「知りません」と答えた。穎は「私が死んだ後、天下は安んじるだろうか、そうでないだろうか。私は自ら放逐されて3年、この身を洗うことすらできなかった、数斗の湯を持ってこい」と言った。二子は号泣したが、穎は人を遣わして退けさせた。髪を東に向けて解き横たわり、徽に絞め殺すよう命じた。享年28。二子も殺された。鄴中の人々はこれを哀しんだ。
- 穎の敗死に際し官属はみな逃げ散ったが、盧志だけは怠らず従い、識者はこれを称えた。後に汲桑は東嬴公司馬騰を殺し穎の仇を討ったと称し、穎の棺を掘り出して軍中に持ち歩き事あるごとに祈って軍令の拠り所とした。桑が敗れると棺は古井戸に沈められた。穎の旧臣がこれを収め洛陽に改葬し、懐帝は縣王の礼を加えた。
- 穎の死後数年、開封の間で穎の子(10余歳)が民間を流浪していると噂され、東海王越は人を遣わして殺させた。永嘉年間、東萊王蕤の子の遵を穎の嗣とし華容縣王に封じたが、後に賊の手に落ち国は除かれた。