晉書卷五十四 列傳第二十四 陸機

出自と『辨亡論』

  • 陸機、字は士衡、呉郡の人。祖父陸遜は呉の丞相、父陸抗は呉の大司馬。身長七尺、声は鐘のように響き、若くして異才があり文章は当代随一、儒学を奉じ礼に外れる行いをしなかった。父の死後、その兵を領して牙門将となった。二十歳で呉が滅ぶと旧里に退いて門を閉ざし十年学問に励んだ。孫氏が呉にあり祖父・父が代々将相として江表に大勲を立てながら、孫皓がこれを失ったことを深く嘆き、孫権が国を得た理由と孫皓が国を失った理由を論じ、あわせて祖父・父の功業を述べる『辨亡論』二篇を著した。

上篇の要旨。漢末の乱世に武烈皇帝孫堅が挙兵して宗廟を清め、長沙桓王孫策がその業を継いで江東を平定、賓客を礼して張紘・周瑜ら多士を得たが中道で没した。大皇帝孫権が篤敬と節倹をもって政を行い、張昭・周瑜・陸公(陸遜、機の祖父)・魯粛・呂蒙ら腹心股肱、甘寧・淩統・程普・賀斉・朱桓・朱然ら武将、韓当・潘璋・黄蓋・蒋欽・周泰ら、諸葛瑾・張承・歩隲ら文臣、顧雍・潘濬・呂範・呂岱ら政事の臣、虞翻・陸績・張惇、趙咨・沈珩、呉範・趙達ら、董襲・陳武、駱統・劉基ら多士が集い、山川を割拠して荊・呉に跨り天下と覇を争った。魏の大軍を周瑜が赤壁で破り、蜀漢の軍を陸公(陸抗、機の父)が西陵で破るなど魏・蜀いずれとも渡り合い、ついに帝号に昇り鼎立した。大皇帝没後、幼主の代に奸臣が跋扈したが景帝が旧法を守り大過なく治めた。帰命侯(孫皓)の初めにはなお大司馬陸公(陸抗)、左丞相陸凱、施績・范慎、丁奉・鍾離斐、孟宗・丁固、楼玄・賀邵ら賢臣がいたが、末年には彼らも失われ、黔首は瓦解し皇家は土崩の兆しに至り、旬日を経ずして社稷は滅んだ。曹操・劉備の頃と将帥の質に差があったわけではなく、化(統治のあり方)と人材登用の巧拙が異なったためだと結んだ。

下篇の要旨。魏・蜀・呉三国の建国の経緯と得失を論じ、呉は桓王(孫策)が武で基を開き太祖(孫権)が徳で成し、求賢に努め士を厚遇したこと(呂蒙・潘濬の登用、魯粛・士燮の帰服等)、建鄴に都した当初は倹約であったが中葉以降制度も整い、地は幾万里、甲を帯びる者ほぼ百万、沃野・精兵・利器・豊財を有し、長江・峻山に拠る地の利があったことを述べる。呉蜀は唇歯の関係にあったが蜀の滅亡が直ちに呉の滅亡を意味したわけではなく、地形の険しさゆえに大軍でも進撃は限られるとし、蜀滅亡時に大司馬陸公(陸抗)が河川を堰き止める議論を退け守りを固めた判断、歩闡の乱の際に陸抗が寡兵で反乱と晋の援軍を同時に破った功績を称える。陸抗の死後、密かな謀が兆し呉の隙が深まって六師が動揺し、太康の役・広州の乱を経て国は覆り宗廟は廃墟となったと嘆く。『易』や荀子の言を引き、国の興亡は天の時・地の利・人の和が揃うかどうかによるとし、呉の興隆はこの三者が揃ったためで、滅亡は険阻のみを恃み人和を失ったためであるとした。

洛陽への出仕

  • 太康末、弟の陸雲と共に洛陽に入り太常張華を訪ねた。張華はかねてその名を重んじ旧知のように迎え「呉討伐の役で得た二俊(陸機・陸雲)」と評した。侍中王済を訪ねた際、済が羊酪を指して「呉にはこれに匹敵するものがあるか」と問うと、機は「千里の蓴羹(すずな汁)には、まだ塩豉を加えておりません」と答え、当時の名対と称された。張華は諸公に機を推薦した。太傅楊駿に祭酒として辟召され、楊駿誅殺後、太子洗馬・著作郎に累進した。范陽の盧志が衆人の中で機に「陸遜・陸抗は君にとってどれほど近い間柄か」(祖父・父の諱を敢えて問う無礼な問い)と尋ねると、機は「あなたにとっての盧毓・盧珽のようなものだ」(同じく志の祖父・父の名を敢えて挙げ返す)と答え、志は黙った。陸雲が「異郷の人ゆえ知らなかったのだろう、なぜそこまで言うのか」と問うと、機は「我が父祖の名は四海に知られている、知らぬはずがない」と答えた。この件で世人は二陸の優劣を論じたという。

官歴と『豪士賦』

  • 呉王司馬晏が淮南に鎮出すると郎中令となり、尚書中兵郎、殿中郎を歴任。趙王司馬倫が輔政すると相国参軍に引かれ、賈謐誅殺に功があったとして関中侯を賜った。倫が帝位簒奪を図ると中書郎に任じられた。倫の誅殺後、機が中書の職にあったことから九錫の文・禅譲の詔に関与した疑いをかけられ、斉王司馬冏により機ら九人が廷尉に付されたが、成都王司馬穎・呉王司馬晏の助けで死一等を減じられ辺境へ流罪となり、まもなく赦免された。

機はもとより駿犬「黄耳」を愛していたが、京師に寓居し長く家からの便りがなかった際、犬に「お前は書を運んで消息を持ち帰れるか」と戯れに言うと犬は尾を振って応え、竹筒に書を入れ首に結んで放つと犬は南へ道を辿って郷里に至り返書を持ち帰った、以後これを常とした逸話が伝わる。当時中原は多難であり、顧栄・戴若思らは機に呉へ帰るよう勧めたが、機は自らの才望を恃み世の難を匡そうと志し従わなかった。

斉王冏が功を誇り驕り高ぶり、爵位を受けても謙譲しないのを機は憎み、これを風刺する『豪士賦』を著した。序文の要旨は、立徳の道は常だが建功の道は一様ではなく、天の時に恵まれれば凡夫でも聖賢の功を成せる一方、功名を保つには驕らず退くべきこと、周公旦・霍光の故事(成王・宣帝が功臣に猜疑を抱いた例)を引き、権勢が過ぎれば身が危うくなること、寵禄が過ぎれば禍が積もることを説き、伊尹・文子の悲劇にも触れつつ、賢者は功名を保ったまま謙退すべきだと戒める内容であった。斉王冏はこれを悟らず、ついに敗れた。

『五等論』

  • 機はまた聖王の経国には封建(諸侯を封じる制)が本義であるとし、その大意を採って『五等論』を著した。五等(公侯伯子男の封建制)は黄帝・唐堯に始まり、郡県の制は秦・漢に始まるとし、それぞれの得失を論じた。封建は諸侯が国を分かち合い天下の安危を共にするため統治が安定しやすいが、周の衰退のように末には強い諸侯を抑えられなくなる弊もあり、郡県は君主が権力を集中できるが秦のように孤立して速やかに滅びる弊もある。漢は封建を復活させたが呉楚七国の乱等の混乱を招き結局は郡県に戻った経緯、光武帝の中興後もこの弊を繰り返したことなどを詳しく論じ、両者の得失は時代の情勢によって現れると結論した。

成都王穎への出仕と敗死

  • 成都王司馬穎が功を誇らず謙って士を遇したため、機はその救済の恩に感じ、また朝廷にたびたび変事が起こるのを見て穎こそ晋室を再興できると考え身を委ねた。穎は機を大将軍軍事に参じさせ、平原内史に上表した。太安初め、穎が河間王顒と共に長沙王司馬乂討伐の兵を挙げると、機を後将軍・河北大都督とし、北中郎将王粋・冠軍牽秀ら二十余万の軍を督させた。機は自らが三世にわたり将であることは道家の忌むところであり、また他郷から仕官し諸将の上に立つことに王粋・牽秀らが不満を抱いているとして都督の辞退を願ったが穎は許さなかった。同郷の孫恵も都督を王粋に譲るよう勧めたが、機は「今譲れば賊を恐れて日和見していると見なされ、かえって禍を招く」として出陣した。穎は「事が成れば郡公に封じ台司の位に就ける」と激励したが、機は「昔、斉桓公は管仲を用いて九合の功を建てたが、燕の恵王は楽毅を疑って垂成の業を失った、今日の成否は公次第であり私次第ではない」と答えた。穎の左長史盧志は機の寵を妬み、「陸機は自らを管仲・楽毅になぞらえているが、古来臣が君を凌いで事を成した例はない」と讒言し、穎は黙り込んだ。機が出陣する際、牙旗(軍旗)が折れる不吉な兆しがあった。軍は朝歌から河橋まで連なり、鼓の音は数百里に及び、漢魏以来の大軍であったが、長沙王司馬乂が天子を奉じて鹿苑で機の軍と戦い、機の軍は大敗し七里澗に落ちて溺死する者が積み重なり川の流れを塞ぐほどであった。将軍賈棱も戦死した。

宦官孟玖の弟孟超は穎に寵愛され小都督として万人を率いていたが、戦う前に兵を放って略奪を働いたため機がその責任者を処罰した。超は騎兵百余を率いて機の陣に乗り込み処罰者を奪い返し「貉奴(機を侮蔑する呼び方)に都督が務まるものか」と罵った。機の司馬孫拯は超を殺すよう勧めたが機は用いなかった。超は「陸機は謀反しようとしている」と言いふらし、孟玖にも「機は日和見して決戦を渋っている」と書き送った。開戦後、超は機の指揮に従わず単独で進んで戦死した。孟玖はこれを機のせいだとし穎に讒言し、機に異心があると訴えた。将軍王闡・郝昌・公師藩ら孟玖の腹心と牽秀らが共にこれを証言した。穎は激怒し牽秀に密かに機を捕らえさせた。その夜、機は黒い帳が車を巡り手で払っても開かない夢を見、翌朝牽秀の兵が到着した。機は戎服を脱ぎ白帢を着けて牽秀と会い、平静に「呉朝滅亡の後、我が兄弟一族は国の重恩を受け、宮中に侍り符節を分かたれてきた。成都王が重任を我に命じ辞退できなかった。今日の誅を受けるのも天命であろう」と語り、穎への書簡は哀切であった。そして「華亭の鶴の声を、再び聞けるだろうか」と歎じ、軍中で殺害された。享年四十三。二子の蔚・夏も共に殺された。機の死は無実の罪によるものであり、士卒はみな涙を流して悼んだ。この日、昼から霧が立ち込め、大風が木をへし折り、平地に一尺の雪が積もったといい、世人はこれを陸氏の冤罪の徴(不吉な天変)と評した。

人柄と評価

  • 機は天賦の才が秀逸で辞藻は宏麗、張華は「人の文章は才の乏しさを恨むものだが、君は才が多すぎることを患うべきだ」と評した。弟の雲は「君苗(機を指す)の兄の文を見ると筆硯を焼き捨てたくなる」と手紙に書いたという。後に葛洪は著書で「機の文は玄圃(崑崙山の名園)に積まれた玉のようで、どれも夜光の珠であり、五河の流れのように源泉が一つに通じている、その豊麗さと鋭さは一代随一だろう」と称えた。機はこのように人々に推服されたが、権門に出入りすることを好み賈謐と親しくしたため、出世を求めすぎるとの譏りも受けた。著した文章はおよそ三百余篇、いずれも世に行われた。

附伝・孫拯

  • 孫拯、字は顕世、呉都富春の人。文を能くし、呉に仕えて黄門郎となった。孫皓の代、多くの侍臣が罪を得たが、拯だけは顧栄と共に智によって身を全うした。呉平定後、涿令となり治績を挙げた。機が孟玖らに誣告され捕らえられると拯も拷問を受け両踝の骨が見えるほどであったが、最後まで供述を変えなかった。門生の費慈・宰意の二人が獄に赴き拯の無実を訴えようとすると、拯は「私の義として旧知を誣告することはできない、お前たちはなぜそこまでするのか」と諭して帰そうとしたが、二人は「私たちもまた貴方に背けません」と答えた。拯は獄中で死に、慈・意も共に死んだ。