晉書卷五十一 列傳第二十一 王接
出自と生い立ち
- 王接、字は祖遊、河東猗氏の人。前漢の京兆尹王尊の十世孫である。父王蔚は儒学・史学を修め、魏の中領軍曹羲が『至公論』を著すとこれを善しとし、自ら『至機論』を著した。その辞義は美しいと評され、官は夏陽侯相に至った。接は幼くして父を失い、哀毀(悲しみで身をやつす礼)を過度に尽くし、郷里の人々は「王氏に子あり」と歎じた。渤海の劉原が河東太守となり、奇才を好み人材登用に努めた。同郡の馮収(経学を修め七十余歳で郎となった人物)は接を劉原に推薦し、駿馬や名月の珠に例えてその才を称え、「接は十三で孤となり喪に礼を尽くし、学は一目で理解し義は類推して広がる、まさに玉鉉の妙味、経世の徽猷である」と述べた。原は礼を尽くして招いたが接は受けず、面会して「肥遁(隠逸)の高きを慕うのか」と問われると、接は「私は薄幸で若くして孤児となり兄弟もなく、母は老いて重病である、それゆえ仕官する気になれない」と答えた。
母の喪と学問
- 母が没すると柴毀骨立(痩せ衰える)するほど喪に服し、墓のそばで数年を過ごし、多くの書物を読んで異説を数多く見出した。性格は簡率で世俗の作法に迎合せず、郷里の大族の多くから疎まれたが、裴頠だけはその才を高く評価した。平陽太守柳澹、散騎侍郎裴遐、尚書僕射鄧攸と親交を結んだ。後に郡主簿となり太守温羨を迎えると、羨に評価され功曹史に転じた。州の部平陽従事に辟召され、泰山の羊亮(当時の平陽太守)が司隷校尉王堪に推薦し、都官従事に転出した。
秀才への挙用と乱世観
- 永寧初め、秀才に挙げられた。友人の滎陽の潘滔が「摯虞・卞玄仁がいずれも君は鼎の味(政道)を調えるべき人物だと言っている、秀才の試験に応じずともよいのでは」と書を送ったところ、接は「今、世の道は乱れ崩壊しようとしており、識見ある士が口を閉ざせば禍敗はさらに深まる、これに応じて所見を極言し、人々に覚悟を促したいのだ」と返答した。この年、三王(斉王冏・成都王穎・河間王顒)が義兵を挙げ恵帝が復位したため、国に大きな慶事があったとして秀孝の試験は一切行われず、接はこれを残念に思った。中郎に任じられ、征虜将軍司馬に補された。
蕩陰の役での議論
- 蕩陰の戦いで侍中嵆紹が乱兵に殺害された際、接は「人の軍を謀る者は軍が敗れれば死をもって従い、人の国を謀る者は国が危うければ身を捧げる、これが古の道である。蕩陰の役では百官が逃げ散る中、嵆紹だけが職を守り非道な死に遭った、まさに忠臣と呼ぶべきであり痛惜すべきことだ。今、山東(東方)で大挙する動きがあるからには、高節を明らかにし天下に号令すべきである。『春秋』の三累褒賞の義に倣い紹に致命の賞を加えれば、遠近の人心は靡き従い、粛然としない者はないだろう」と議論し、朝廷はこれに従った。
河間王顒との軋轢と死
- 河間王司馬顒が長安への遷都を図り関東と対立した際、接が成都王(司馬穎)側の人物であることを理由に用いにくいとされ、臨汾公の相国に転出させられた。東海王司馬越が諸侯を率いて司馬顒を討った際、尚書令王堪の統べる行台が接を尚書殿中郎に補すよう上奏したが、赴任前に三十九歳で死去した。
学問――『公羊伝』注釈と汲塚書研究
- 接は博学だが特に『礼』『左伝』に精通した。常に『左氏伝』は辞義豊かで独立した一家の書であり経に付随して発せられたものではないと論じ、『公羊伝』は経に付随して伝が立てられ、経が書かない事は伝も妄りに起こさない、文において簡にして経の解釈においては長ずるとした。任城の何休の訓釈は詳細だが、周を黜け魯を王とする説は大筋で道理に合わず、『公羊』に通じることを志しながらしばしば『公羊』の疾病(弱点)になっていると批判し、接は改めて『公羊春秋』に注し多くの新説を立てた。当時、秘書丞衛恆が汲塚竹書を校訂していたが未完のまま難に遭って没し、佐著作郎の束晳がこれを引き継いで完成させたものの、異説の証明が多く含まれていた。東莱太守で陳留の王庭堅がこれに異論を唱え、それにも根拠があったため、晳はさらに反論を試みたが、その頃には庭堅は既に亡くなっていた。散騎侍郎潘滔が接に「君の才学と議論の力なら二人の紛糾を解決できるだろう、試みに論じてみよ」と求め、接は両者の得失を詳細に論じた。摯虞・謝衡はいずれも博物多聞であったが、接の論を妥当と認めた。接はまた『列女後伝』七十二人を撰し、議論・詩賦・碑頌・駁難など十余万言を著したが、喪乱の中で全て失われた。
子・愆期
- 長子の愆期は江南に流寓し、父の遺志を継いで改めて『公羊伝』に注し、『列女後伝』も編集したという。
史論
- 史臣曰く。皇甫謐は清らかに身を持し閑居して病を養い、著述に心を留め学問を好み、軒冕(栄達)を栄誉とは思わず貧賤を恥じとせず、確固として動じなかった、まことに晋の高士と言うべき人物である。『篤終』を著して薄葬・倹約を明らかにしたことは、季孫氏の奢侈を戒める一方で楊王孫の極端な露屍も採らず、存亡の理に達していたと言える。摯虞・束晳らはいずれも書物に広く通じ旧典に詳しく、奏議には見るべきものがあり文辞も雅やかで、博聞の士と称するにふさわしい。ある者は秘閣に仕えて言事の書を編み、ある者は宗伯(秩宗)として郊祀の禮を定めた。虞は道理を貫くがゆえに困窮し、晳は年齢・地位に恵まれなかった、天の報いのなんと不公平なことか。王接は才能秀出し名声を得たが夭折し、その驥足(優れた能力)を伸ばせなかったのは惜しむべきことである。
賛にいわく。士安(皇甫謐)は隠逸を好み、蓬蓽(粗末な家)に心を寄せた。文雅に意を寄せ、栄達を忘れた。その遺言(薄葬の教え)は称えるに値するが、養生の術には背いた。摯虞は博聞であり、広微(束晳)は抜群であった。礼度を整え、遺文を編集した。魏の書(汲塚竹書)を秩序立て、漢の典籍を分類した。祖遊(王接)は後に世に出たが、同じく清らかな誉れを広めた。