晉書卷五十 列傳第二十 曹志

出自と経歴

  • 曹志、字は允恭、譙国譙の人、魏の陳思王曹植の庶子。若くして学を好み才行で称えられ、平明で度量が大きく騎射にも優れた。植は「これぞ家を保つべき主だ」として嗣子に立てた。のち済北王に改封された。武帝が撫軍将軍であった頃、陳留王(魏の元帝)を鄴に迎えた際、志は夜に謁見し、帝と暮れから朝まで語り合いその器量に感服した。帝が禅譲を受けると、志は鄄城県公に降格された。詔により「魏の諸王公は徳を養い才を蔵しながら長く用いられずにいる。前済北王曹志は清純な徳行と高い才、清潔な行いを持ち、古を好み博識で魏の宗室の英才である、これを嘉して樂平太守とする」とされた。志は郡にあって上書し、儒学を尊び道を重んじるべきとして博士のために吏卒を置くことを求めた。章武・趙郡太守に遷った。郡職を歴任しながらも政務に熱心でなく、昼は狩猟に興じ夜は『詩経』『書経』を誦し、声色を自ら楽しみとしたため、当時の人々もその器量を見極めかねた。

帝との問答と齊王攸出藩への諫言

  • 咸寧の初め、詔により「鄄城公曹志は篤実で質朴、学識に通じており儒林にあるべきだ、散騎常侍・国子博士とせよ」とされた。帝がかつて『六代論』を読み「これは卿の先王(曹植)の作か」と問うと、志は「先王には自筆の目録があり、確かめて参ります」と答え、戻って「目録にはこの文はありません」と奏上した。帝が「では誰の作か」と問うと、志は「私の聞くところでは族父の曹冏の作です。先王の文名が高いため後世に伝えたく、仮託したものでしょう」と答え、帝は「昔からそうした例は多い」と述べ、公卿に「父子(曹植・曹志)の証言があれば十分だ、今後は疑う必要はない」と語った。
  • のち祭酒に遷った。齊王司馬攸が自国に赴くこととなり、太常に文物の礼を崇めることが議されることとなった。当時博士秦秀らは齊王が朝政を内で助けるべきで藩国に出すべきでないと主張した。志もまた自らの父(曹植)が魏で志を得られなかったことを常々恨みに思い、悲しんで「これほどの才、これほどの近親でありながら、根本を輔けさせず遠く海隅に出すとは、晉朝の隆盛も危ういのではないか」と歎じ、上奏した。
  • 要旨:大司馬齊王が東方の藩国に出て備物・盡礼が二伯(周公・召公)に等しいとされているが、陛下が聖君であり周・召に等しい賢臣を得て内に魯・衛の親族、外に齊・晉の輔弼を持てば万世の基となる。古の王室輔弼は、同姓なら周公、異姓なら太公がいずれも都に留まり五世を経て初めて葬られたのが本来の形であり、後世の五覇(桓公・文公ら)が変則的に権を振るい九錫の礼まで至ったのは正道ではなかったと説く。今の晉は創業の初めであり、幹(同姓の親族)が強くなければ枝葉は茂らないとし、天下は一姓の独占物ではなく、民心を結ぶには磐石の固めが必要で、利益を独占しようとした秦・魏は身を滅ぼし、利益を分かち合った周・漢は親疎の別なく用いられたと歴史を引き、志は儒官の身として礼に外れたことは言えないとし、博士らの議に賛同する旨で結ぶ。
  • 議を上奏する前、志は従弟の高邑公曹嘉に会った。嘉は「兄上の議は激烈です、後世必ず晉史に書かれましょう、今すぐ咎めを受けるやもしれません」と語った。帝は議を見て激怒し「曹志ですら私の心を理解しないとは、まして天下の者たちはなおさらだ」と述べ、議者が問いに答えず異論を唱えたとして太常鄭默を策免(罷免)した。有司は志らを罪に問うよう奏したが、詔は志のみ官を免じて公の身分のまま帰宅させ、他の者は廷尉に付した。

晩年

  • まもなく志は再び散騎常侍となった。母の喪に服す際、礼を過ぎるほど哀毀したため篤い病を得て喜怒の情が乱れるようになった。咸寧9年(太康元年)に卒去。太常は悪諡を奏したが、崔褒は「魏顆が乱心の父の遺言に従わなかったのは病による乱心だったからだ。曹志にその病を理由に悪諡を贈るのは、その病を乱とみなすことになりはしないか」と歎じ、これにより諡は「定」と定められた。