晉書卷四十九 列傳第十九 羊曼

羊曼

  • 羊曼、字は祖延、太傅羊祜の兄の孫。父の羊暨は陽平太守。曼は若くして知られ、本州の招聘も太傅の招聘もいずれも辞退した。乱を避けて江を渡り、元帝は鎮東参軍とし丞相主簿に転じて機密を委ねた。黄門侍郎・尚書吏部郎・晋陵太守を歴任、公事により免ぜられた。曼は放縦な生き方で酒を好んだ。温嶠・庾亮・阮放・桓彝と志を同じくして親しみ、みな中興の名士とされた。当時州里では陳留の阮放を「宏伯」、高平の郗鑒を「方伯」、泰山の胡毋輔之を「達伯」、済陰の卞壺を「裁伯」、陳留の蔡謨を「朗伯」、阮孚を「誕伯」、高平の劉綏を「委伯」、曼を「濌伯」と呼び、合わせて8人を「兗州八伯」と称した。古の「八俊」になぞらえたものである。
  • 王敦が朝廷と離反した際、士人を拘束したが、曼は右長史とされた。曼は敦の不臣を見抜き、終日酒に耽り言葉を控えるのみであった。敦は曼の士望を重んじ厚く礼遇し実務を委ねなかったため、その禍から免れた。敦の敗死後、阮孚に代わって丹陽尹となった。当時江を渡ったばかりの士人が任官する際は互いに供応を飾ったが、曼が丹陽尹を拝命した折には、早く来た客ほど良い馳走を得られ日が暮れるにつれ料理が尽きて質が落ちるという有様で、客の身分の貴賎は問わなかった。同時期に羊固が臨海太守を拝命した際は終日豪華な饗応が続き遅く来た客にも十分な馳走が出たが、世評は羊固の豊かさより曼の率直さを評価した。
  • 蘇峻の乱に際し前将軍を加えられ、文武を率いて雲龍門を守った。官軍が振るわず、ある人が曼に峻を避けるよう勧めたが、曼は「朝廷が破れたのに、私だけどこに生き延びる場所を求めよというのか」と言い、軍を動かさぬまま峻に殺害された、時に55歳。峻の乱平定後、太常を追贈された。子の羊賁が跡を嗣ぎ、若くして知られ明帝の娘南郡悼公主を娶り秘書郎に任じられたが早世した。弟は聃。

羊聃――羊曼の弟

  • 聃、字は彭祖。若くして学問を修めず、世評はその凡庸さを賤しんだ。先に兗州で八伯の称があったが、その後さらに四伯が加わり、大鴻臚の陳留江泉は大食漢として「谷伯」、豫章太守史疇は肥満ぶりから「笨伯」、散騎郎高平の張嶷は狡猾さから「猾伯」、聃は乱暴さから「瑣伯」と称され、古の四凶になぞらえられた。
  • 聃は初め元帝の丞相府に招かれ、廬陵太守に累進した。剛情で粗暴、国戚の身分を頼みに放縦を極め、些細な恨みで刑殺を加えた。郡人の簡良らを賊とみなし200余人を殺害し嬰児にまで及び、髡鎖(髪を剃り鎖に繋ぐ刑)に処した者も100余人に及んだ。庾亮が聃を捕らえ都に送った。有司は聃の罪を死刑相当と奏したが、景献皇后(羊皇后)が聃の祖姑にあたることから八議(皇族・功臣等への減刑規定)に該当するとの意見があった。成帝は「これは古今に例のない罪であり、八議など論外だ。ただ市朝で処刑するには忍びないので、獄中で命を賜る(自裁させる)に留める」と詔した。聃の兄の子羊賁が公主を娶っていたことから、賁は婚姻の解消を願い出たが、詔は「罪は他人に及ばないのが古今の掟である、聃が極刑となっても賁に何の関わりもない、離婚は特に許さない」とした。琅邪太妃山氏は聃の甥にあたり、宮中に入って命乞いをした。王導もまた「聃の罪は許し難く重罰が相当だが、山太妃が心労で病を得ている、陛下の広大な恩をもって生命の宥しを賜るべきだ」と啓上した。ここに詔が下り「太妃にとって聃はただ一人の舅(母の兄弟)であり、その言葉は悲痛のあまり血を吐くほどであった、朕はかつて父母を失った折に太妃の慈しみを実の母のごとく受けた、もし太妃がこの痛みに堪えられず心身を損なえば朕にも顔向けできない。今、聃の命を赦し、太妃の思いに応えることとする」とし、聃は除名処分となった。まもなく病を得て、常に簡良らの祟りを見ると訴え、10日ほどで死去した。