王尼
- 王尼、字は孝孫、城陽の人(あるいは河内の人ともいう)。もと兵家の子で洛陽に寓居し、卓抜として拘束されなかった。初め護軍府の軍士であったが、胡毋輔之は琅邪の王澄・北地の傅暢・中山の劉輿・潁川の荀邃・河東の裴遐とともに河南功曹の甄述と洛陽令の曹攄に王尼の解放を求めた。攄らは上命に関わるとして応じなかった。輔之らは羊肉と酒を携えて護軍の門に赴くと、護軍は「名士たちが羊肉と酒を持ってきたのは何か理由があるはずだ」と感嘆した。当時尼は府で馬の世話をしていたが、輔之らは馬房に座り込んで尼と羊肉を炙り酒を飲み、酔い飽きて去り、護軍とはついに面会しなかった。護軍はこれに驚き、尼に長期休暇を与え、そのまま兵役を免じた。東嬴公司馬騰が車騎府舎人に招いたが就かなかった。当時尚書の何綏が度を過ぎた奢侈を極めていたため、尼は「綏は乱世にありながらこれほど驕っている、遠からず死ぬだろう」と語った。人が「伯蔚(何綏)がこれを聞けば必ず危害を加えるでしょう」と言うと、尼は「伯蔚が私の言葉を聞く頃にはもう死んでいるだろう」と答え、まもなく綏は果たして東海王司馬越に殺された。尼が初めて洛陽に入った際、越を訪ねても拝礼しなかった。越が理由を問うと「公には宰相の才能がない、それゆえ拝礼しない」と述べ、厳しくその過失を数え上げた。さらに「公は私に借りがある」と言うと、越は「そんなことがあるのか」と驚いた。尼は「昔、楚人が布を失った際、令尹(宰相)が盗んだと言われた(誰が失っても国の損失は宰相の責任という寓話)。今、私の家財はすべて公の軍が奪い、私は飢え凍えている、これも公の負い目だ」と答え、越は大笑いして絹50匹を賜った。貴人たちはこれを聞いて競って尼に贈り物をした。洛陽陥落後、江夏に避難した。荊州刺史王澄はこれを厚遇した。尼は早くに妻を失い一子のみで、家もなく荷車と牛1頭だけを蓄え、外出のたびに子に牛を御させ夜は車上で共に寝た。常に「滄海横流(世が乱れる)の中、どこにも安住の地はない」と歎いた。まもなく王澄が卒し荊州が飢饉となると、尼は食に窮し牛を殺し車を壊して肉を煮て食べ、それも尽きると父子ともに餓死した。