出自と『荘子』注
- 向秀、字は子期、河内懐の人。清らかで悟りが早く見識が深く、若くして山濤に見出され、老荘の学を好んだ。荘周の書は内外数十篇あり、歴代の才士が読んでもその要旨を論じきれなかったが、秀はこれに注釈を施しその奇趣を明らかにし玄風を興し、読む者は超然と心に悟るものがあったという。恵帝の代に郭象がさらにこれを敷衍し、儒墨の説は軽んじられ道家の説が盛んになった。秀が注釈に取りかかろうとした際、嵇康は「この書に注釈など要らぬ、むしろ人の楽しみを妨げるだけだ」と言ったが、完成すると康に示し「まさかまだ勝るところがあるか」と尋ねた。また康と養生論を論じ言葉を交わしたのは、康の高い見識を引き出そうとしたものであった。
嵇康の死と思舊賦
- 康は鍛冶を善くし、秀はその助手をして楽しみを共にし傍らに人なきがごとくであった。また呂安と共に山陽で農園を営んだ。康が誅殺された後、秀は本郡の計吏に応じて洛陽に入った。文帝が「箕山の志(隠遁の志)があると聞いたが、なぜここにいるのか」と問うと、秀は「巣父・許由は狷介の士に過ぎず堯の心を理解していなかった、慕うに足りない」と答え、帝は大いに喜んだ。秀はこの出仕にあたり『思舊賦』を作った。
- 賦の序文には、康・呂安と親しく暮らし、康は遠く疎放、呂安は心が広く放縦であったこと、二人がともに罪に問われたこと、康が処刑に臨み日影を見て琴を弾いた最期、都へ向かう途中に山陽の旧居を訪れ、笛の音に亡き友を偲んで作ったことが記される。
- 賦の本文は、遠京への旅の途中山陽の旧居に立ち寄り、荒れ果てた野を眺めて『詩経』黍離・麦秀の亡国の悲しみになぞらえ、棟宇は残るのに人はいない無常を歎き、李斯が刑死に際し黄犬を懐かしんだ故事や、康が日影を見て琴を弾いた最期を悼み、笛の音に寄せて筆を執り心情を綴ったものである。
- のち散騎侍郎から黄門侍郎・散騎常侍に転じたが、朝廷で実権ある職には就かず名ばかりの立場に甘んじ、その職のまま卒去した。二子は純・悌。