晉書卷四十九 列傳第十九 嵇康

出自と人物

  • 嵇康、字は叔夜、譙国銍の人。その先祖は姓を奚といい会稽上虞の人であったが、怨みを避けて移住した。銍に嵇山があり、その傍らに家を構えたため嵇と改姓した。兄の嵇喜は当世の才があり、太僕・宗正を歴任。康は早くに父を失ったが奇才があり抜群であった。身長7尺8寸、優れた言葉遣いと風采を持ちながら飾り気なく、人はこれを龍章鳳姿(龍や鳳凰のような生まれつきの気品)と評した。恬淡寡欲で、人の欠点を許容し寛大な度量を持っていた。師につかず学び、博く通じ、特に『老子』『荘子』を好んだ。魏の宗室と婚姻し中散大夫を拝命した。常に養生・服食(不老長生の術)に励み、琴を弾き詩を詠んでは心を満たした。神仙は自然に授かるもので学問によっては至れないが、養生を正しく行えば安期生・彭祖の域には及べるとし、『養生論』を著した。
  • また君子は私心を持たないと論じ、心が是非にこだわらず行いが道に外れなければ君子と呼ぶべきとし、名教(礼教)を超えて自然に任せることこそ物の情に通じる道だと説いた(趣旨のみ、原文は多く割愛)。
  • 康の胸中の思いは高潔で得難く、知音を常に求めていた。真に心を交わせたのは陳留の阮籍・河内の山濤のみで、その仲間に加わったのが河内の向秀・沛国の劉伶・籍の兄の子の阮咸・琅邪の王戎であり、これが「竹林の遊び」、いわゆる「竹林七賢」である。王戎は「康と山陽で20年暮らしたが、その喜怒の色を見たことがない」と語った。

嵇康と孫登・王烈

  • 康は薬草を求めて山沢に遊び、意にかなえば我を忘れて帰るのを忘れることがあった。樵夫らはこれを見て神人と噂した。汲郡の山中で孫登に出会い、康はこれに従って遊んだ。登は沈黙を守り何も語らなかったが、康が去るに際し「君は性格が激しく才も抜きんでている、それで果たして禍を免れられようか」と語った。康はまた王烈に会い、共に山に入った。烈は石髄(鍾乳石の滲出物)を得て自ら半分を服し残り半分を康に与えたが、いずれも凝って石になってしまった。また石室の中で一巻の書を見つけ康を呼びに戻ったが、再びその書は見当たらなかった。烈は「叔夜(康)の志趣は尋常でないのに巡り合わせが悪い、これも運命か」と歎いた。康の霊妙な巡り合わせはこのようなものであった。

嵇康、山濤との絶交

  • 山濤が選官の職を去る際、後任として康を推挙した。康は濤に絶交の書を送った。
  • 要旨:推挙を聞き驚いたが、貴殿がなお私を理解していないことを知った。老子・荘子や柳下恵・東方朔のように卑位に安んじた達人の例を引き、孔子の兼愛の心や子文の官職への執着のなさも引きつつ、隠棲するか出仕するかは各人の性に従うべきで優劣はないと説く。自らは幼くして父を失い母兄に甘やかされて経学を修めず、老荘に親しんでますます放縦になったこと、阮籍の寡黙な人徳には及ばないこと、礼法の士に憎まれても大将軍(司馬昭)の庇護あってこそ無事でいられること、性格が慢弛(だらしなく)で世事に疎く、慎み深さを欠き言うべきことを言い過ぎる欠点があり、官職に就けば必ず禍を招くであろうことを述べる。また道士の教えに従い術(オケラ)・黄精を服して長寿を願い、山水を楽しむ心があるため、出仕すればこれらを捨てねばならないと説く。
  • 人を知るには天性を理解しそれを活かすべきだとし、禹が伯成子高を強いなかった例、孔子が子夏に助けを借りなかった例、諸葛亮が徐庶を蜀入りさせなかった例、華歆が管寧に卿相を強いなかった例を引き、自らの道が尽きればそれまでのことで、貴殿が無理に自分を溝壑(死)へ追いやることのないよう求める。
  • 母と兄を相次いで失った悲しみ、幼い子(女13歳、男8歳)の行く末、貧しくとも故旧と語らい濁酒一杯・琴一曲で満足する暮らしを望むこと、無理に出仕を強いられれば必ず狂疾を発するであろうことを述べ、これをもって別れの言葉とすると結んだ。
  • この書が世に知られると、康を屈服させることは不可能だと誰もが知った。康は巧みな技を好み、特に鍛冶を好んだ。邸の柳の木の下に水を引き、夏になるとその下で鍛冶をした。東平の呂安は康の高潔な人柄を慕い、思い立てば千里の道も厭わず訪ねてきた。康は彼と親しく交わった。のち呂安は兄に誣告され獄に繋がれた際、供述の中で康の名を引いたため、康も収監された。

嵇康の死

  • 康は普段慎み深かったが、獄に繋がれると『幽憤詩』を作った。詩の内容は、幼くして父を失い母兄に育てられ師の教えを受けなかった来歴、老荘に心を寄せ質朴を守り自らの真を全うしようとした志、性急な性分ゆえに人を批判し怨みを招いたことへの反省、隠棲の楽しみと世事への未練のなさ、獄中で理不尽な尋問を受ける屈辱、順時に生きられなかった無念、名利を求めず慎み深くあれば禍を招かぬという古訓への思い、志を遂げられなかった悔恨、そして山野に隠れ長嘯して神気を養いたいという願いを詠んだものであった。
  • 康はかつて貧しく、向秀と共に大樹の下で鍛冶をして生計を立てていた。潁川の鍾会は貴公子で才弁に優れ、康を訪ねたが、康は礼を尽くさず鍛冶の手を休めなかった。長く待った末に会が去ろうとすると、康は「何を聞いて来て、何を見て去るのか」と問い、会は「聞いたことを聞いて来て、見たことを見て去る」と答えたが、これを恨みに思った。会はのちに文帝に「嵇康は臥龍(隠れた俊才)であり用いるべきでない、天下のことより康こそ憂うべきだ」と告げ、「康は毌丘倹の反乱を助けようとしたが山濤が聞き入れなかった。かつて斉が華士を殺し魯が少正卯を誅したのも、時と教えを害する者を聖賢が除いたゆえだ。康・呂安らの言論は放縦で聖典を誹謗しており、帝王として容認すべきでない、この機に除いて風俗を正すべきだ」と讒言した。文帝は会の言を信じ、康と呂安をともに殺害した。

嵇康の死――刑場にて

  • 康が東市で処刑される際、太学生3000人が康を師にと請願したが許されなかった。康は日影を見て琴を求めて弾き、「かつて袁孝尼が私に『広陵散』を学びたいと求めたが、私は惜しんで教えなかった。今や『広陵散』はこれで絶えてしまう」と語った、時に40歳。天下の士人でこれを痛惜しない者はなく、文帝もまもなく悟って悔いたという。かつて康が洛陽の西に遊び華陽亭に宿った夜、琴を弾いていると夜半に見知らぬ客が訪れ、古人と名乗って音律を語り合い、琴を求めて『広陵散』を弾き、その妙技に感じ入って康にこの曲を授け、他言せぬよう誓わせて名も告げず去ったという逸話がある。

著作、子紹

  • 康は道理を語ることに巧みで文章にも優れ、その高潔な情趣は自然と玄妙であった。上古以来の高士の伝を撰して千年を隔てた友を求めるかのようであった。また『太師箴』を作り帝王の道を明らかにし、『声無哀楽論』も条理を尽くして著した。子の紹には別に伝がある。