出自と経歴
- 閻纘、字は続伯、巴西安漢の人。祖父の閻圃は張魯の功曹として魯に魏への降伏を勧め平楽郷侯に封じられた。父の閻璞は爵を嗣ぎ、呉に仕えて牂柯太守に至った。纘は河南新安に寄寓し、若くして英豪と交わり広く典籍を読み物の道理に通じていた。父の死後、継母が慈しまなかったが纘はますます恭しく仕えた。継母の憎しみは募り、纘が父の在世中の金宝を盗んだと有司に訴え、纘は10余年清議(郷論による処分)を受けたが怨む色もなく孝謹を怠らなかった。継母の意が解けてから中正を改めて品位を回復した。太傅楊駿の舎人となり安復令に転じた。駿誅殺の際、纘は官を棄てて帰り、駿の旧主簿潘岳・掾崔基らとともに駿を葬ろうとした。崔基・潘岳は罪を恐れたため纘が主となり、墓が成って葬儀に臨む際、駿の従弟の司馬模が武陵王司馬澹に告げ、企てた者を殺すと表そうとしたため、皆恐れて墓を埋め立てて逃げたが、纘だけは自らの家財で墓を完成させ駿を葬って去った。国子祭酒の鄒湛は纘の才が著作の佐官に堪えるとして秘書監の華嶠に推薦したが、嶠は「この職は暇で俸禄も厚く、権勢家が争って求めるもので、才を求める余裕はない」と用いなかった。河間王司馬顒が西戎校尉司馬に招き、功を立てて平楽郷侯に封じられた。
閻纘の上奏(1)――愍懷太子の冤罪を訴える
- 愍懐太子(司馬遹)が廃された際、纘は棺を輿に載せて宮門に赴き、太子の冤罪を訴える上書をした。
- 要旨:太子(遹)の悖逆が甚だしいと聞き驚愕したが、遹が幼くして深宮で富貴に溺れ、師傅・群吏も皆富貴な家柄の者ばかりで、寒門儒素の衛綰・周文・石奮・疏広のような人物や、洗馬・舎人に汲黯・鄭荘のような者もおらず、事父事君の道を学ぶ機会がなかったことが原因であると述べる。古の太子は士の礼で育てられ国人と同列に置かれたのは、貧賎を知ってこそ貴きを知るという先王の意図であり、東宮が驕り過ぎたことが今回の失敗の因であるとする。
- 前漢の戻太子の例(壺関三老・田千秋の上書により武帝が悔悟し思子台を築いた故事)を引き、遹の罪は戻太子よりも軽いとして、司空張華・光禄大夫劉寔・尚書僕射裴頠のような徳望ある人物を師・保・友に選び、寒門で行いの立派な者を側近に置き、貴戚の子弟や軽薄な賓客を退けるべきと説く。
- 殷の太甲が3年の放逐の後に善に立ち返った例、魏文帝が廃されることを恐れ自ら慎んだ例、魏明帝が母の罪により平原侯に落とされながらも正しい師友を得て名声を得た例、漢高祖が太子廃立を思いとどまった例(四皓・張良の輔佐)を引き、遹にもなお改める機会を与えるべきと説く。
- 自らは寒門の出で東宮に私心はないと述べ、老母が纘の上表を占って「上表すれば死ぬ」と告げられ、妻子が涙ながらに止めたにもかかわらず、抜擢を受けた恩に報いるため死をもって忠を献じると述べ、棺と絮(死装束)を用意して刑を待つと結んだ。
- この上書は取り上げられなかった。
- のち張華が殺害され賈謐が誅されると、朝野は震え上がったが、纘は独り張華の屍を撫でて慟哭し「早くに退官を勧めたのに聞かなかった、これも運命か」と言い、また賈謐の屍を叱って「乱国の元凶め、誅されるのが遅すぎた」と述べた。
閻纘の上奏(2)――皇太孫擁立に際して
- 皇太孫(愍懐太子の子)が立てられると、纘は再び上疏した。
- 要旨:先の上表が取り上げられなかったことを悔い、漢武帝が壺関三老・田千秋の諫言に感じ入り太子の冤を晴らした故事を引きつつ、自らの誠が薄く太子を救えず許昌で落命させてしまったことを恨む。三公の献策により賈后一派が誅され太孫が立てられたことを、周公による管叔・蔡叔誅伐や漢の呂氏誅滅にも比すべき快挙と称える。今後の永制として、太子は士の礼で育て国人と同列に置き、官属も朋友のように扱い純然たる君臣関係にしないことで、孝道を守りつつ互いに規正しあえるようにすべきと説く。
- 漢武帝が太子を害そうとした際、邴吉が皇孫(後の宣帝)を守り抜いた故事を引き、晋の法が厳しすぎて忠義を貫く余地がないと批判する。漢の呂后専権時に周昌が趙王を守った例、漢初に趙王張敖の臣貫高が反逆を企てても高祖が誅さず臣道を明らかにした例、田叔・孟舒ら十人が奴隷となってまで趙王に仕えた例を引き、晋でも東宮の臣が敢えて距命(勅命に逆らってでも太子を守ること)できる制度が必要と説く。
- 三率(東宮警護の武官)の兵馬が有事に機能しなかった実情を憂え、緊急時には群臣が独断で対応し事後に殿前で口頭で報告することを認める制度を設けるべきとする。詹事の裴権や舎人の秦戢が太子のために諫言したのに評価されず、爰倩だけが九列の官を贈られた不公平を指摘し、忠義を尽くした者を顕彰し将来を勧奨すべきと説く。
閻纘の上奏(3)――東宮の師傅・礼制について
- 要旨:相国が東宮の保傅となっているが、日々の教導には城門校尉梁柳や白衣の朱沖のような寒苦の士を選ぶべきで、権門豪族の子弟(呉太妃の一族や賈氏・郭氏の党類)を近づけるべきでないとする。魏文帝と徐幹・劉楨、呉の太子孫登と顧譚・諸葛恪のように、身分を離れて字で呼び合う親密な師友関係が理想であるとする。天子の子は驕慢に陥りやすく過ちを聞かされぬことが問題であるとし、周公が伯禽を打ち曹参が子の窋を200回笞打った故事を引き、小過を看過せず正すべきと説く。
- また太子への朝夕の視膳・昏定晨省の礼が漢高祖以来5日に1度に簡略化されたことを問題視し、『礼記』文王世子篇の周文王の孝行の例を引き、天子が政務に専念できる今こそ旧に復すべきと説く。
閻纘の上奏(4)――太子の柩の護送と人事
- 要旨:愍懐太子の柩を迎える際、太孫が幼く道中に赴けないため、太子妃に遠路を奉迎させ、その父裴衍に随行護衛させるべきとする。纘自らは太子の副監国となり邴吉の故事に倣って護衛にあたりたかったが、身分が軽いとして許されなかったと述べる。当時の監国御史・副使が太子の変事の際にことごとく責任を問われ三族皆殺しとなった一方、河南尹向雄がかつて危難を冒して鍾会を葬り文帝に評価された故事を引き、忠直の士を選ぶべきと説く。あわせて郭俶・郭斌については刑に当たるが、他の使者は無能ゆえの過ちで謀に与ったわけではないとして区別すべきと述べる。
- また東宮の兵衛にも向雄のような柱石の士を選ぶべきとし、賈謐に群がった「魯公二十四友」と呼ばれる浮薄な士人らを批判する。侍郎賈胤は賈謐と近縁ながら距離を置き父の喪に5年家に籠った点で評価されるとし、潘岳・繆征ら賈謐の党類24人が処分されたことについては世評は妥当とするが、纘自身はその処分すら手緩いと考えると述べる。
- 朝廷は纘の忠烈を評価し、漢中太守に抜擢した。趙王倫が死んで葬られた後、纘はその墓に車を轢かせた。張華の兄の子張景が漢中に流されていたことについては、纘が召還を上表した。纘は細かい行いにはこだわらなかったが、慷慨として大節を重んじた人物であった。在官のまま卒去、時に59歳。5人の子はみな開朗で才力があった。
閻纘の子――閻亨
- 長子の亨は遼西太守となったが、王濬が自らの人材を用いようとしたため赴任できなかった。青州刺史苟晞に身を寄せたが、晞の刑政が苛虐であったため亨はたびたび諫言し、そのため晞に害された。
史評
- 史臣曰く:愍懐太子が廃された時、天下はその冤罪を語ったが、乱政の惨禍と淫嬖(賈后)の凶忍を恐れ、忠臣は口をつぐみ義士は憤りを呑み込んだ。閻続伯(纘)は侍郎にも執戟にも満たぬ微官でありながら、生を軽んじ義を重んじ、死を帰するがごとく上奏して厳誅を待ち、棺を輿に載せて鼎鑊(極刑)に赴いた。その言行を見るに、忠直にして壮烈と言うべきである。晋朝の公卿を顧みれば、纘の徒隷にも及ばぬ者ばかりであった。茂伯(向雄)は終わりを篤くし、王経の死を哭してその節を全うした。休然(段灼)は遠きを追想し、鄧艾のために弁じてその名を成した。義は明時に感じ、仁は枯骨にまで流れたと言うべきで、後漢の硃勃が新息侯(馬援)を追論した故事や欒布が彭越のために奏事した故事にも劣らない。
- 賛に曰く:義に感じて遺骸を収め会せしめ、終わりを篤くして艾のために理を尽くす。道はすでに相並び、名もまた揃って泰らかなり。続伯(閻纘)は区々(微官)ながら、輿櫬(棺)を陳謩(謀)とした。淫嬖に逼られ、良図を遂げられず。その泣くを見よ、嗟くも及ばず。