晉書卷四十七 列傳第十七 傅祗

経歴

  • 祗、字は子莊。父の傅嘏は魏の太常。祗は至孝で早くから知られ、才識明練とされた。武帝が東宮を建てた際、太子舎人として仕官し、散騎黄門郎に累遷、関内侯に封じられ食邑300戸を賜った。母の喪により去職。母を葬る際、詔により太常が五等の吉凶導従を給し、以後諸卿の夫人の葬儀にも導従が給されるようになった。喪明けて滎陽太守となる。魏の黄初年間の大水以来、河済が氾濫し、鄧艾がかつて『済河論』を著し石門を開いて通したが、再び決壊していたところ、祗は沈萊堰を築き、以後兗・豫二州は水害を免れ、百姓は碑を建てて頌えた。まもなく廷尉を兼ね、常侍・左軍将軍に遷る。

傅祗と楊駿誅殺

  • 武帝崩御し梓宮が殯(もがり)にある間、太傅楊駿が輔政して衆心を悦ばせようと爵位の一斉加増を議したが、祗は「帝王の崩御に際して臣下が論功するなど前例がない」と書を送って諫め、駿はこれに従わなかった。祗は入って侍中となる。楊駿誅殺の際、駿はこれを知らず、祗は駿の傍に侍していたが雲龍門が閉ざされ内外が遮断されたため、尚書の武茂とともに情勢を確かめようと立ち上がった。武茂がなお座していたので祗は「君は天子の臣ではないか、内外が隔絶し朝廷の所在も分からぬのに、なぜ安座するのか」と促し、茂は驚いて立ち上がった。駿誅殺の後、駿の婿である裴楷の子裴瓚が乱兵に殺され、尚書左僕射の荀愷が裴楷と不仲であったため楷を駿の親族として廷尉に送ろうとしたが、祗は楷の無罪を証言し赦免された。また駿の官属も収監されようとしたが、祗は「かつて魯芝は曹爽の司馬でありながら関を破って爽のもとへ駆けつけたが、宣帝(司馬懿)はその義を評価し青州刺史に遷した。駿の僚佐を罰すべきではない」と上啓し、これも赦された。祗はこのように多くの人物を正しく擁護した。

その後の経歴

  • 河南尹を拝命する前に司隷校尉に遷る。楊駿討伐の功により郡公・食邑8000戸に封じられるはずが固辞し、半減して靈川県公・食邑1800戸に減らし、余りの2200戸は末子の暢に武郷亭侯として分与、また旧封を兄の子雋に東明亭侯として分与した。
  • 楚王司馬瑋が詔を偽って発した際、祗は奏聞を留めた咎で免官となったが、1年後に光禄勲に遷り、また公事で免官となった。氐族の斉万年が反乱を起こすと行安西軍司・常侍として安西将軍夏侯駿に従いこれを平定した。衛尉に遷ったが持病の風疾により辞し、常侍のまま卿の禄秩を受け銭・床帳等を賜った。まもなく光禄大夫を加えられ、門に行馬を施される待遇を受けた。趙王倫が輔政すると中書監に任じ常侍も兼ねさせて衆心を鎮めさせようとしたが、祗は病を理由に辞退し、倫は御史に輿で祗を職に就かせた。王戎・陳準らは「傅公が政にあれば我らに憂いはない」と語り合ったといい、人々の信望の厚さがうかがえる。

趙王倫政権期から晩年

  • 趙王倫が帝位を簒奪すると、祗は右光禄・開府、侍中を加えられた。恵帝が復位すると、祗は偽朝の官職を受けたことを理由に退官を願ったが許されなかった。倫の簒奪に際し、孫秀と義陽王司馬威ら10余人が禅譲の儀式・文書を撰した。倫が敗れると、斉王司馬冏は侍中の劉逵、常侍の騶捷・杜育、黄門郎の陸機、右丞の周導・王尊らを廷尉に送ったが、禅文が中書から出たことから祗の罪も改めて議されたものの、恩赦により免れた。のち禅文の草本が祗の撰でなかったことが判明し、光禄大夫に復した。子の宣は弘農公主を娶った。
  • まもなく太子少傅に遷り、上章して辞し帰宅した。成都王司馬穎が太傅となると再び少傅に任じられ侍中を加えられた。懐帝即位後、光禄大夫・侍中に遷り、就任前に右僕射・中書監を加えられた。太傅東海王司馬越が輔政する中、祗は宰相の地位にありながら常に君臣の謙譲を説き、上下は和睦を保った。祗は国体に明達し朝廷の制度整備に多く関わった。左光禄・開府、行太子太傅を歴任、侍中も兼ねた。病篤く辞そうとしたが許されず、司徒に遷ると足の疾により輿に乗ったまま殿上に上ることを詔されたが拝命はしなかった。
  • 大将軍苟晞が遷都を上表すると、祗は河陰に赴き舟楫を修理して水路の備えとした。洛陽陥落の後、共に行台を建て祗を盟主に推し、司徒・持節・大都督諸軍事として四方に檄を伝えた。子の宣に公主を伴わせ尚書令の和郁とともに諸方伯へ義兵を求めさせ、祗自身は盟津の小城に屯し、宣の弟の暢は河陰令代行として宣を待った。祗は急病で薨去、時に69歳。祗は自らの義が全うできなかったことを恥じ、病を押して子の宣・暢に厳しく戒めの手紙を書き遺し、読む者はみな感激したという。祗は文章・駁論十余万言を著した。

傅祗の子ら(傅宣・傅暢)

  • 宣、字は世弘。6歳で継母を失い成人のごとく哭泣し、親族を驚かせた。成長して学を好み、趙王倫に相国掾・尚書郎・太子中舎人として用いられ、司徒西曹掾に遷った。去職後、秘書丞・驃騎従事中郎に累遷。恵帝が長安から帰還すると左丞に任じられたが赴任せず、黄門郎に遷った。懐帝即位後、吏部郎に転じ、さらに御史中丞となった。49歳で卒去、子がなく、暢の子の沖を嗣子とした。
  • 暢、字は世道。5歳の時、父の友人が戯れに暢の衣を解いて金環を取り侍者に与えたが、暢は惜しまなかったため賞された。20歳前にして重名を得、東宮の侍講に選ばれ秘書丞となった。のち石勒の捕虜となり、勒により大将軍右司馬に任じられた。朝儀に通じ常に機密に参与し、勒に重んじられた。『晉諸公敘贊』22巻、『公卿故事』9巻を著した。咸和5年に卒去。子の詠は江南に渡り交州刺史・太子右率となった。

史評

  • 史臣曰く:武帝は四方を観察し百姓を治め、いつも忠言を求め諫臣を任用した。傅玄は剛直な資質と身を顧みぬ節操を持ち、正論を尽くして過ちを補い朝廷で直言を憚らず、その職責を辱めなかった。三独座(御史中丞ら)の位にあって弾劾を司ってからは台閣が緊張し貴戚も手を控えたことは、前代の鮑宣・葛洪もこれに及ばないほどであった。しかしその狭量さゆえ寛大さに欠け、しばしば激しい言動が物議を招いたのは惜しむべきである。古人が韋弦(柔と剛それぞれの戒め)を身につけたのももっともなことである。長虞(傅咸)の風格は峻厳で家声を落とさなかった。汝南王への諫言、楊駿への上書には道理を貫く先見の明があった。傅祗は名臣の子として早くから風格を樹て、危難の朝廷にあって君臣の間を匡救し、最後まで禄位を保ったのは道を存したゆえと言えよう。
  • 賛に曰く:鶉觚(傅玄)は貞諒、まことに朝望を集めた。志は強直に励み、性は温和とは異なった。長虞(傅咸)は剛簡、家風に欠くところなし。子莊(傅祗)は才識あり、ここに宰相の任を担った。忠績いまだ尽きぬうちに、泉路(黄泉への道)は急に迫った。