晉書卷四十七 列傳第十七 傅咸

経歴

  • 咸、字は長虞。剛直で節義があり、風格は峻厳、悪を疾むこと仇のごとく、賢を推し善を楽しみ、常に春秋の季文子・仲山甫の志を慕った。文論を好んだが、華麗さには欠けるものの言葉は規範となった。潁川の庾純は「長虞の文は詩人の作に近い」と歎じた。
  • 咸寧の初め、父の爵を襲い太子洗馬を拝し、尚書右丞に累遷。冀州刺史として出るはずが、継母の杜氏が赴任に従うのを拒んだため自ら官を辞したいと表し、30日のうちに司徒左長史に遷った。帝が政の得失を朝臣に諮った際、咸は「陛下は至尊の位にありながら万機を親覧し日夜労苦されているが、泰始の建元より15年を経てなお軍国は豊かでなく百姓も足りず、凶作の年には菜色の民が出るのは、官が多く事が繁雑で、賦役免除が濫用され、農を離れる者が多いからである」と上言し、官を並せて事を省き、力役を静めて農事に専念すべきと説いた。

人事をめぐる論争

  • 咸は職にあって多く正しきを守った。豫州大中正の夏侯駿が、魯国小中正の孔毓(司空司馬)が病を理由に賓客対応ができないとして尚書郎曹馥への交代を求めた後、10日で毓を再び中正に上げたことについて、司徒が3度却下したにもかかわらず駿がなお正当だと主張したため、咸は駿が恣意的に与奪していると奏して大中正の職を免じさせた。司徒の魏舒は駿の姻戚で、咸の上奏に何度も署名を拒んだが、咸は強く正論を主張し、舒が最後まで従わなかったため咸は独断で上奏した。舒は咸を「激越で不当」と奏し、咸は車騎司馬に転任させられた。
  • 世の奢侈を見て咸は上書し、古の堯は茅葺きの家に住み臣下も玉食を用いなかったが、今は百姓も贅を尽くし賈人も粱肉に飽き、婢妾すら綾羅をまとい賤隷も肥馬に乗る有様だとし、奢侈を糺さねば風俗はますます高まると説き、魏の毛玠が吏部尚書であった頃は誰も華美を好まなかったという故事(魏武帝が「私の法も毛尚書に及ばない」と歎じた話)を引いて風俗矯正を訴えた。また県の獄を郡に移す議、二社を立てる議も朝廷に容れられた。のち尚書左丞に遷る。

楊駿・汝南王亮への諫言

  • 恵帝が即位し楊駿が輔政すると、咸は「諒闇(喪に服して政務を執らないこと)は既に行われなくなって久しく、漢文帝以来、既葬にして服を除く制となり、武帝も心喪三年としつつ万機は親覧された。今、聖上が明公(楊駿)に政を委ね諒闇に居ようとするのは謙譲の心とはいえ天下はこれを善しとしない。周公のような聖人ですら誹りを免れなかった、まして今の聖上は成王ほど幼くない」と説いた。また司隷の荀愷が従兄の喪に赴くことを願い出て許可が下る前に楊駿邸を訪れた件を、咸は「阿諛にして友愛の情なし」として弾劾したが、帝は楊駿への配慮から不問とし、駿はこれを憚った。咸はさらに駿に書簡を送って諷諫し、駿は次第に不快を募らせた。駿は咸を京兆・弘農太守に出そうとしたが、甥の李斌が「正しい人物を排斥すべきでない」と諫めて止めた。駿の弟の済は咸と親しく、「天下の大事はそう簡単に片付けられるものではないのに、貴殿は何事も片付けようとする。それは危うい」と諭す書を送ったが、咸は「酒色による死は人が悔いないのに、正直によって禍を招くことを畏れるのは心が正しくないからだ」と答えた。まもなく駿は誅殺され、咸は太子中庶子を経て御史中丞に遷った。
  • 太宰・汝南王司馬亮が輔政すると、咸は書を送り、太甲・成王のような幼君でなければ伊尹・周公のような摂政は行うべきでなく、楊駿がみだりにそれを行って誅殺されたのはその罪であるとし、駿討伐の功は本来聖上に帰すべきなのに孟観・李肇らが数千戸の県侯に封じられ、東安王(司馬繇)が王に、孟観・李肇が郡公に、その他も侯伯子男に加増・三等超遷されたことを「無功の厚賞は禍を喜ぶ風潮を生む」と批判し、亮が事の是非を正すべきだと説いた。さらに亮の専権を諫め、楊駿が親戚に権を委ねて天下の非難を招いた轍を踏まぬよう、訪問客が門前に溢れる状況を戒め、夏侯長容(夏侯駿)が先帝のために祈禱して効なく崩御を招きながら自ら功を求めて少府に取り立てられたことも、亮の姻戚だからだとの噂を指摘して諫めたが、亮は聞き入れなかった。

司隷校尉としての活動

  • 詔により群臣が郡県の職にある者を内官に推挙することとなった際、咸は上書し、人材登用の要は適材適所にあり、内外の任用に偏りがあってはならないと説き、官人に一律の限度法を設けるのではなく随時の判断に委ねるべきとし、正始年間に何晏が選挙を掌った際に内外の官がそれぞれ適材を得た例を引いて、責任は限法ではなく委任の心にあると論じた。
  • 咸は再び本郡の中正となったが継母の喪により去官。まもなく議郎に起用され、長兼司隷校尉となった。固辞したが許されず、印綬を返上しても受け入れられなかったため、官舎に霊座を設けてなお職に就いた。上表して「賄賂の横行を絶つべく都官に厳命したが日を経ても成果がない」と述べ、前任の司隷劉毅の威風に及ばぬことを恥じると訴えると、詔は「必ず道理に適う裁定をすれば威風は自ずと伸びる、劉毅だけの専売特許ではない」と応じた。
  • 当時朝廷は緩み豪族が放恣であったため、咸は河南尹の澹、左将軍の倩、廷尉の高光、兼河南尹の何攀らを免官に追い込み、都は粛然となり貴戚も震え上がった。咸は「聖人は久しくその道にあってこそ天下が治まる」とし、唐虞の三載考績・九年黜陟、『周礼』の三年大比、孔子の「三年有成」の語を引き、長吏の頻繁な交代が百姓を疲弊させていると論じた。当時僕射の王戎が吏部を兼ねていたことについても、風俗を安んじられず浮薄な競争を招いているとして王戎とその属官李重・李義の罷免を求めたが、詔は「政道の根本は職の長さにあり咸の奏は正しいが、戎は論道の職にあり信任している」として王戎への処分は差し止めのみとした。御史中丞の解結は咸が王戎を弾劾したのは越権であるとして咸の免官を奏したが、詔はこれも許さなかった。
  • 咸は自らの職権の範囲について上事し、御史中丞と司隷はともに皇太子以下百官を糾弾する権限を持ち、内外の区別なく及ぶものであると論証し、かつて石公(石鑒)が殿上で衣を脱いだ際に司隷の荀愷が奏しても先帝は問題視しなかった先例を引いて、自らが尚書を糾弾したことも越権ではないと弁明した。咸がたびたび故事を引いて条理を立てたため、朝廷もこれを覆せなかった。
  • 呉郡の顧栄は親しい者への書簡で「傅長虞が司隷となってからは剛直果断で、その弾劾は人を驚かせる。周到な才ではないが、その偏った剛直さは貴ぶべきである」と評した。元康4年、在官のまま卒去、時に56歳。詔により司隷校尉を追贈され、朝服一具・衣一襲・銭二十万を賜り、諡は貞。子は敷・晞・纂の三人、長子の敷が爵を嗣いだ。

傅咸の子ら

  • 敷、字は穎根。清静で道があり文章にも通じた。太子舎人、尚書郎、太傅参軍に任じられたがいずれも赴任しなかった。永嘉の乱で会稽に避難し、元帝に鎮東従事中郎として招かれた。持病があり再三招喩されてもやむなく病身のまま赴任し、数か月で卒去、時に46歳。
  • 弟の晞も才思があり、上虞令として治績を挙げたが、司徒西曹属で卒去した。