出自と経歴
- 李重、字は茂曾、江夏の鐘武の人。父の李景は秦州刺史・都亭定侯。重は若くして学を好み文才があった。早くに父を失い、弟たちと共に暮らし友愛で知られた。弱冠で本国の中正となったが辞退した。のちに始平王の文学となり、九品官人法について上疏した。
- 要旨:九品中正の制は喪乱の中、軍中の便法として始まったもので、経国の恒久の法ではない。検察が煩瑣になり選挙が実情を失っており、朝野ともに弊害の甚だしさを指摘するが、改めることには誰もが躊躇している。古の諸侯制では土地・爵位が定まり卿大夫の禄も世襲され、上下が安定し人心も厚かった。秦がこれを廃して郡県制としたため風俗が薄くなった。漢は周秦を折衷し、封建と郡県を併用し郷挙里選によって人材を推挙し、聖典に適い三代に肩を並べた。しかし今は魏の疲弊を受け継ぎ、人々は流浪して定住地を持たず、郎吏は軍府に、豪族は都邑に集まる状態にある。九品を廃止する暁には、まず移住の自由を認め、人々を土断(居住地による戸籍確定)させるべきであり、官職の階級を少なくし在任期間を長くすれば人心が定まり治績も上がる、と説く。
- 太子舎人に遷り尚書郎に転じた。太中大夫の恬和が漢の孔光・魏の徐幹の議に倣い王公以下の奴婢の数を制限し百姓の田宅売買を禁ずべきと上表した際、重は次のように駁論した。
- 要旨:士農工商にはそれぞれ分業があり、周代の井田制のもとでは公私の制度が均整を保っていたが、秦の阡陌開設・郡県制施行以来この制は失われた。漢魏は服物・車器の貴賎の差のみを法で定め、奴婢の私有数までは制限してこなかった。既に泰始8年の詔書(己巳詔書)で服飾・車馬の制度違反を厳しく取り締まる規定(一県一年に3家、洛陽県では10家以上の違反があれば長官を免職)があり、法制は既に厳格である。恬和の主張する孔光・徐幹の議は、その当時衰世の奢侈を正すための議論であって行われなかったものであり、田宅に定限がない以上、奴婢の数だけを制限するのは実効性を欠くと反論し、恬和の上表は施行されなかった。
- 司隷校尉の石鑒が、監督する者を私用にこき使ったとして郁林太守の介登の召還を求めた際、尚書の荀愷は遠郡赴任者への同情から降格のうえ留任させるべきと上奏した。重は「法に一定の基準がなければ、庶民を統べ邪を防ぐことができない。登のような例が多い中で降格留任を先例とすれば、遠地に赴く凡庸な者が貨賄にふける弊害を招く」として石鑒の上奏通り登を召還すべきと駁し、詔もこれに従った。
- 太熙初め、廷尉平に遷った。廷尉の邯鄲醉らへの奏に対する駁論は文が多く割愛。のち中書郎に再遷し、大事や疑議のたびに経典を参照して裁定し、多くが施行された。尚書吏部郎に遷ってからは華美な競争を抑え私的な陳情を通さず、隠逸の士に特に心を寄せたため、多くの人材が挙用された。北海の西郭湯、琅邪の劉珩、燕国の霍原、馮翊の吉謀らを秘書郎や諸王文学に抜擢し、天下の人心が帰服した。
- 燕国の中正劉沈が霍原を「寒素」(清廉な無位無官の士)として推挙したが司徒府がこれを認めず、沈が中書に直訴すると中書は改めて司徒府に諮問した。司徒左長史の荀組は「寒素とは門地も身分も寒微で世禄の恵みがない者を指す。原は列侯として金紫を帯び、かつて世俗の交わりをなし晩年になって学問に励んだ者で、若い頃と後年で行いが異なり、年齢も30を超えてなお草野の誉れが定着せず徳礼も聞こえない。寒素の名には値しない」と反論した。重は「詔書(癸酉詔書)の趣旨は廉譲を崇び浮競を退けることにあり、二品を家柄で決めれば廉退の士を失うおそれがあるため寒素の目を開いたのである。古の高士は隠棲・克己・晩学などさまざまな出処があり、若い頃と晩年で行いが違うからといってその節操を疑い、終始一貫を求めるのは人を評価する道理に合わない。まさに郷党の評価と推挙者の判断に基づいて審査すべきであり、沈は中正として自ら選考にあたり、原の隠居求志・篤学の実、遠方から千里を厭わず学びに来る者が絶えないこと(孫氏・孟氏の風、厳光・鄭玄の操に比すべきこと)を明らかにしている。原の推挙はすでに侍中領中書監の張華、前州大中正・後将軍の応嬰、河南尹の軼に諮った上でのもので、幽州刺史許猛も特に原の名を朝廷に伝え西河の故事になぞらえて徴聘を求めている。州党の議も刺史の推薦もある以上、なお草野の誉れが不足すると言うなら、それを覆す明確な理由が要る。原は二品に相応しい」と反論し、詔はこれに従った。