晉書卷四十六 列傳第十六 劉頌

出自と経歴

  • 劉頌、字は子雅、廣陵の人。前漢の廣陵厲王劉胥の後裔で、代々名族。同郡の雷・蔣・谷・魯の四姓もその下に位置づけられ、当時「雷、蔣、谷、魯、劉が最も祖たり」と言われた。父の劉観は平陽太守。
  • 頌は若くして物事の道理を弁えるとして評判となった。孝廉・秀才に挙げられたが応じず、文帝(司馬昭)に召されて相府掾となり、蜀へ使者として赴いた。当時蜀は平定されたばかりで飢饉・荒廃がひどく、頌は上表して賑貸(貸付救済)を求め、返答を待たずに実行したため免職となった。
  • 武帝即位後、尚書三公郎となり法律を司り冤罪の訴えを扱った。中書侍郎に昇進。咸寧年間、散騎郎の白褒とともに荊・揚を巡撫し、意にかなったとして黄門郎に転じた。議郎、廷尉守事となる。尚書令史の扈寅が無実の罪で下獄させられた際、頌は無罪を主張して寅は釈放され、時人は頌を前漢の張釈之になぞらえた。在職6年、公平で知られた。
  • 呉平定の際、諸将が功を争った際、頌に事の裁定を命じられ、王渾を上功、王浚を中功とした。武帝は頌の裁定が理を失ったとして京兆太守に左遷したが赴任せず、河内太守に転じた。赴任に際し便宜の策を上奏し、多く採用された。郡内には公主の水碓(水車式臼)が多く、流水を堰き止めて害となっていたため、頌は上表してこれを廃止させ、百姓は利益を得た。まもなく母の喪により去職。喪が明けると淮南相となり、厳正な政治で治績が高かった。従来芍陂の修築に年に数万人を要し、豪強が土地を兼併し貧民は生業を失っていたが、頌は大小の者に力を尽くさせ功に応じて分配させたため、百姓はその公平と恩恵を讃えた。

劉頌の上奏――封建・刑政をめぐる意見

  • 淮南相在任中、頌は長大な上疏を奉った。要旨は次の通り。
  • まず、かつて河内太守在任時に帝から「大小の事をすべて奏聞せよ」との詔を受けた恩に応え、遅ればせながら意見を具申する旨を述べる。
  • 皇族を諸侯に封建した詔書を寿ぎつつも、幼い皇子を呉・蜀の地に封じたことには異議を唱える。呉・越は軽薄、庸・蜀は険阻で乱の起こりやすい地であり、平呉後は東南六州の将士が江表を守る負担も大きい。年長で才ある同姓の諸王(20歳以上)を選んで呉・蜀に封じ、幼い皇子は成長後に改めて遣わすべきと説く。
  • 「盡忠の臣」たらんと欲する自身の立場を述べ、忌憚なく意見を尽くすことこそが君への報恩であるとする。
  • 晉の建国の経緯(漢末の混乱、魏武帝の治世、文帝・明帝の奢侈、嘉平以降の晉の基礎固め)を振り返り、泰始以来ほぼ30年を経てなお政績が理想に及ばない現状を憂える。
  • 天下の大事は「一たび安ずれば傾け難く、一たび傾けば正し難い」とし、諸侯を封建して藩屏とすることの重要性を説く。郡県制は目先の統治はうまくいくが大勢において危うく、諸侯制は近くの不備はあっても遠い将来において安定するとし、周が長く続いた理由、秦の孤立による二世亡国、漢が呂氏の乱・七国の乱を斉・代・梁の諸侯によって鎮めた例、後に諸侯の権が削られ王莽の簒奪を招いた例、光武帝が諸侯の権限を確立しなかったため祚が長く続かなかった例、魏が親族を幽閉して速やかに滅んだ例を挙げ、晉が呉を滅ぼし天下を統一した今こそ同姓を王として封建し、万代の安定を図るべきと説く。
  • 「任臣」(公のために働く臣)と「重臣」(私のために権を借りる臣)の違いを論じ、国家の基盤(藩屏)が固ければ重臣も任臣に転じ、基盤が脆ければ任臣も重臣(専権の臣)と化すとする。周が成王・康王以後、名臣を欠いても長く存続したのは諸侯が支えたためだと説く。
  • 封建の具体策として、十世を単位に親疎に応じて封地を移し替える制度、諸侯国の規模は「国容は少なく軍容は多く」し、車甲・宮室・官司・礼楽なども段階的に整備すべきとし、内史・国相の任命のみ天子が行い、その他の人事・賞罰・財政は諸侯に委ねるべきとする。
  • 周の諸侯が長く続いたのは「国が君より重い」制度(無道の君は誅せられても嗣子があれば必ず存続させる)にあり、漢は君と国の軽重を分けなかったため国が滅びやすかったと分析し、班固の言(諸侯の失国は法網が密なため)を引いて、晉では封建の規定をゆるめ、絶えた場合も皇子を立てて祀りを継がせるべきとする。
  • 官界に名士・有能な官吏が乏しいのは清議が緩み考課の制度がないためとし、富貴を求める人情を逆手に取り、貧賎を経てこそ富貴に至れる仕組み(清廉さの涵養)を作るべきと説く。
  • 君主は「執要(要点を握る)」に徹し、事の成否によって功罪を判断すべきで、事の始めばかりに精を出し終わりの評価を疎かにする現状を改めるべきとする。琴瑟の調子が狂えば張り替えるべしという古語を引く。
  • 官制について、尚書が九卿の職務まで抱え込みすぎている現状を改め、監司の摘発は大綱を挙げて細事を見逃す「綱挙げて網疎らか」であるべきとし、微罪の摘発が豪強の跋扈を見逃す結果になっていると批判する。
  • 賦役についても、魏武帝以来の戸を分離して各地に配置する制度(権宜の一時策)が呉平定後も続いていることを問題視し、江表守備の将士が父子離散する苦しみを憂え、役は本国内で完結させるべきと説く。
  • 政務の要諦を「静(力役を息める)」「実(農を利し糴を平らかにする)」「信(賢を選び官を久しくする)」の三条にまとめる。
  • 最後に、世間が頌を漢の孝文帝になぞらえることについて、武帝の功業は孝文帝以上であるが、封建の制を万全にしなければ後世の評価はそれに及ばないと述べ、上奏を結ぶ。
  • あわせて肉刑の復活について論じた文は『刑法志』にある。武帝は詔で「封国の制、刑法・肉刑、六州将士の役について述べたところはすべて卿の忠誠から出たものと分かった。今後も随時奏聞せよ」と答えた。

その後の経歴と最期

  • 元康の初め、淮南王司馬允に従って入朝。楊駿誅殺の際は殿中を守衛し、その夜のうちに三公尚書に任じられた。さらに律令の事を論じた上疏は当時高く評価された。のちに吏部尚書に転じ、百官が職に長く留まって遷任を急がぬよう「九班の制」を建てて考課による賞罰を明確にしようとしたが、賈后・郭氏一族が朝政を専らにし昇進を急ぐ風潮のため実施されなかった。
  • 趙王司馬倫が張華を害した際、頌は激しく哀哭した。張華の子が逃れたと聞き「茂先(張華の字)よ、卿にはまだ後継ぎがいるのだな」と喜んだ。倫の党の張林はこれを聞いて怒ったが、頌の正しさを憚って害することができなかった。孫秀らが倫の功績を称えて九錫を加えるよう求めた際、百官が誰も異論を唱えぬ中、頌だけは「漢が魏に、魏が晉に九錫を与えたのは一時の便法であり通用させるべきでない。今宗廟は安泰であり、周勃が呂氏を誅して孝文帝を立てた例、霍光が昌邑王を廃して孝宣帝を奉じた例にも九錫の命はなかった。旧典に背き権変に倣うのは先王の制にあらず」と反対した。張林は頌を張華の党と見なし害そうとしたが、孫秀は「張華・裴頠を誅してすでに時望を損なった、これ以上頌を誅すべきでない」と止めた。頌は光禄大夫に任じられ、門に行馬を施す待遇を受けたが、まもなく病没した。使者を遣わして弔祭し、銭二十万・朝服一具を賜り、諡は貞。中書侍郎の劉沈は頌が当代の傑物として開府の贈位に値すると議論したが、孫秀がかねてより頌を恨んでいたため聞き入れられなかった。頌には子がなく、弟劉和の子劉雍を養子としたが早世したため、雍の弟劉詡の子劉𨻳を嫡孫として封を継がせた。永康元年、頌が賈謐誅殺に功があったとして梁鄒県侯に追封され、食邑千五百戸を与えられた。

劉頌の弟たち

  • 弟の劉彪、字は仲雅。安東軍事に参与し、呉討伐の際に張悌を捕らえる功を立て、積弩将軍まで昇った。武庫の火災の際には建物を切り倒す策を立てて多くの宝器を運び出させた。荊州刺史を歴任。
  • 次弟の劉仲、字は世混。黄門郎・滎陽太守を歴任したが、赴任前に卒去した。

劉頌の娘の婚姻をめぐる論争

  • かつて頌は娘を臨淮の陳矯に嫁がせた。矯はもと劉氏の出で頌の近親にあたるが、伯母のもとへ養子に出て陳姓を名乗っていた。中正の劉友がこれを非難すると、頌は「舜の後裔である姚虞氏と陳田氏は本来同根でありながら代々婚姻しており、礼律で禁じられていない。これも同じ理屈であり婚姻して差し支えない」と反論した。友は上申しようとしたが陳騫に止められ、弾劾には至らなかった。頌が明法掾の陳黙・蔡畿に「郷里で誰が最も理不尽な扱いを受けているか」と尋ねると、二人はそろって「劉友が理不尽だ」と答えた。頌が色をなして叱ると、蔡畿は「友が私議で明府(頌)を冒犯したことは非であるが、郷里の公論としては友が理不尽だとされている」と述べた。友はのちに公府掾・尚書郎・黄沙御史に任じられた。