晉書卷四十五 列傳第十五 何攀
出自と呉討伐への貢献
- 何攀、字は惠興、蜀郡郫の人。州の主簿として仕えた。刺史皇甫晏が牙門張弘に害され大逆と誣告された際、攀はちょうど母の喪に服していたが梁州に赴いて表を上げ晏の無実を証し、晏の冤罪は晴れた。王濬が益州となると別駕に辟された。濬が呉討伐を謀った際、攀を遣わし表を台に奉じさせ事機を口陳させ、詔で再引見し張華に攀と籌量させ討伐の宜を決めた。濬はさらに攀を羊祜のもとに遣わし面と向かって伐呉の策を陳べさせた。攀は命を受けることに長け帝はこれを善しとし、詔により攀は濬の軍事に参与した。
- 孫皓が濬に降ると王渾が後れを取ったことを恚り濬を攻めようとしたが、攀は濬に皓を渾に送るよう勧め、これで事は解けた。攀は濬の輔国司馬とされ関内侯に封ぜられた。滎陽令に転じ便宜十事を上げ大いに名称を得た。廷尉平を除された。廷尉卿の諸葛沖は攀が蜀の出であることから軽んじたが、共に疑獄を断ずるうちに沖は嘆服するようになった。宣城太守に遷ったが赴任せず散騎侍郎に転じた。楊駿執政の際、多く親族を樹て大いに封賞を開き恩沢で自衛しようとしたが、攀はこれを非とし石崇と共に議を立てて奏した(『崇伝』に詳しい)。帝は納れなかった。
楊駿誅殺後の待遇
- 楊駿誅殺の功により西城侯・食邑一万戸に封ぜられ絹一万匹を賜り、弟の逢は平卿侯、兄の子の逵は関中侯とされた。攀は封じられた戸数と絹の半分を固辞し、残りは中外の宗親に分け与えほとんど自分の懐には入れなかった。翊軍校尉に遷り、まもなく東羌校尉として出た。揚州刺史に召され在任三年、大司農に遷った。兗州刺史に転じ鷹揚将軍を加えられたが固辞して就かなかった。太常成粲・左将軍卞粹は攀に職に就くよう勧め、中詔もさらに厳しく督促したが攀は結局病と称して起たなかった。趙王倫が篡位すると使者を遣わし攀を召したが再び病篤しと称した。倫は怒り誅そうとしたため攀はやむを得ず病を扶けて召しに応じたが、洛陽で卒去した、時に年五十八。
- 攀は心を平允に保ち官にあっては整粛で、人物を愛し儒を敦くし才を貴んだ。梁・益二州の中正として遺滞(埋もれた人材)を引き立てた。巴西の陳寿・閻乂・犍為の費立は皆西州の名士だったが郷閭の謗りを受け清議十余年に及んでいたところ、攀はその曲直を申明し皆冤罪を免れさせた。攀は顕職にありながら家は貧素で妾媵伎楽もなく周窮済乏を専らの務めとした。子の璋が継ぎ、また父の風があった。
史論
史臣曰く:幽王・厲王は君主として不徳であったが上(周公・召公ら)はなお善を進めようとした、共驩(四凶)が位にあったのは大聖(舜)ですら堪えなかった。まして志士仁人はどうして苟合を求めようか。寵秩に懐かれることでその存亡が左右されるのである。自ら口を金で銷し光を投げて剣を撫し北闕に書を馳せ敗車をなお踐むとしても、主を諫めることは容易でなく臣を譏ることは実に難しい。劉毅は一たび寛容に遇い、任愷は両度膚受(讒言)に遭った、その事績を詳しく観れば各々その心に由るところである。武陔は魏臣の志を懐き崔洪は郤詵の道を愛し、長升(劉暾)は王彌に尊号を勧め、何攀は趙倫の命に従った、君子たる者は事に臨む態度を観るものである。
贊に曰く:仲雄(劉毅)は初め令き、忠謇は庭に揚がった。身は諸葛(豊)に方せられ、帝は桓・霊に擬えられた。大業(郭奕)は楊(駿)を非とし、元褒(任愷)は賈(充)を誚った。和氏(和嶠)は条暢たり、大廈を施すに堪えた。崔門は謁せず、声は朝野に飛んだ。侯史(光)・武陔は輔佐の才。何攀は平允、冤濫多くを回した。