晉書卷四十五 列傳第十五 郭奕

人物鑒識と地方官

  • 郭奕、字は大業、太原陽曲の人。若くして重名があり山濤はその高簡雅量を称えた。初め野王令となった際、羊祜がしばしば訪ねると奕は「羊叔子がどうして郭大業に劣ろうか」と嘆じたが、しばらくして再訪した後「羊叔子は私よりはるかに優れている」と嘆じ祜を数百里も国境まで見送り、これに坐して免官となった。咸熙末年、文帝の相国主簿となった。鍾会が蜀で反逆した際、荀勖は会の甥で幼くして会の家で育ち文帝の掾となっていたため奕はこれを出すよう啓した。帝は用いなかったがその雅正さを知った。武帝が禅譲を受け東宮が初めて建てられた際、奕は鄭默と共に中庶子となった。右衛率・驍騎将軍に遷り平陵男に封ぜられた。咸寧初年、雍州刺史・鷹揚将軍に遷り赤幢曲蓋・鼓吹を仮された。奕には寡姉があり任地に随った際、姉の下の僮僕に奸犯が多く糾弾された。奕は取り調べを終えると「大丈夫がどうして老姉のために名声を求めることがあろうか」とその者を遣わして問わなかった。当時亭長の李含に俊才があったが門地が寒く豪族に排されていたところ、奕は彼を別駕に用い、含は後に果たして名位を得、時人は奕を人を知る者とした。

晩年

  • 太康中、尚書に召された。奕は重名があり当世の朝臣は皆彼の下にあった。当時帝は楊駿に委任していたが、奕は「駿は器が小さく社稷を任せられない」と表したが帝は聞かず、駿は後に果たして誅された。奕が病んだ際、詔で銭二十万を賜い日ごとに酒米を給した。太康八年に卒去した。太常は諡を景としたが、有司は貴賎で号が異なるべきで諡が景皇(司馬師)と同じであるのは不可として穆と諡すことを請うた。詔で「諡は徳を旌し行いを表すもの、諡法によれば一徳懈らざるを簡とする、奕は忠毅清直で立てた徳を渝えなかった」とあり、結局簡と諡された。