晉書卷四十五 列傳第十五 武陔

出自と評価

  • 武陔、字は元夏、沛国竹邑の人。父の周は魏の衛尉。陔は沈敏で器量があり早くから世評を得、二人の弟の韶(叔夏)・茂(季夏)とともに総角の頃から知名で、諸父兄弟や郷閭の宿望も彼らの優劣を見分けられなかった。同郡の劉公榮は人を見る鑒があり、周を訪ねて三子を見て「皆国士だ、元夏(陔)が最も優れ輔佐の才があり陳力就列すれば亞公(宰相に次ぐ位)となる、叔夏・季夏も常伯・納言に劣らない」と評した。

魏晋の出仕

  • 陔は若くして人倫を好み潁川の陳泰と親しかった。魏の明帝の世に下邳太守に累進した。景帝が大将軍となると従事中郎に招かれ司隸校尉に累進し太僕卿に転じた。初め亭侯に封ぜられ五等が建てられると薛県侯に改封された。文帝は深く親重し度々当時の人物を彼と論じた。かつて陳泰とその父群のいずれが優るかを問うと、陔はそれぞれの長所を称え群・泰は優劣がないと答え帝はこれに同意した。泰始初年、尚書を拝し吏部を掌り、左僕射・左光禄大夫・開府儀同三司に遷った。陔は宿齒の旧臣として名位が重く自ら佐命の功なく魏においてすでに大臣だったことからやむを得ず居位したとし深く遜譲の心を持ち終始純潔を保ち、当世は美談とした。位にて卒去、諡は定。子の輔が継いだ。

弟韶

  • 韶は吏部郎・太子右衛率・散騎常侍を歴任した。

弟茂

  • 茂は徳素をもって称され名は陔に亜ぎ、上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書となった。潁川の荀愷は茂より年少で武帝の姑の子であり貴戚を恃んで茂と交わろうとしたが拒まれ答えられず、これにより怨みを結んだ。楊駿誅殺の際、愷は僕射となっており茂を駿の姨弟であることを理由に逆党として陥れ殺害した。茂は清正方直で朝野に聞こえていたため、この無実の惨死を天下は傷んだ。侍中傅祗が上申して名誉を明らかにし、後に光禄勲を追贈された。