晉書卷四十四 列傳第十四 盧欽
盧欽の弟珽の子・志は、字を子道といい、成都王穎の謀主として重んじられ、穎の危機に際して恵帝を奉じて洛陽へ帰す功を挙げた。穎の滅亡後、洛陽陥落に殉じて劉琨を頼ろうとする途上、劉粲に捕らえられ平陽で殺された。子の諶も後趙に仕えつつ節を守り、冉閔の乱に殉じた。
出自と出仕
- 盧欽、字は子若、范陽涿の人。祖の植は漢の侍中。父の毓は魏の司空。世々儒業で顕れた。欽は清淡で遠識があり経史を篤く志した。孝廉に挙げられたが行かず、魏の大将軍曹爽の掾に辟された。爽の弟が請託した際、欽は爽の子弟が法度を犯すべきでないと述べ爽は深く納れその弟を罰した。尚書郎を除された。爽誅殺後、免官となった。後に侍御史となり父の爵大利亭侯を襲い琅邪太守に累進。宣帝が太傅となった際、従事中郎に辟され陽平太守として出て淮北都督・伏波将軍に遷り大いに称績があった。散騎常侍・大司農に召され吏部尚書に遷り大梁侯に進封された。
- 武帝受禅に際し都督沔北諸軍事・平南将軍・仮節とされ追鋒軺車・臥車各一乗、第二駙馬二乗、騎具刀器、御府人馬鎧など、銭三十万を給された。欽は鎮にあって寛猛が中庸を得、疆場は無事だった。尚書僕射に入り侍中・奉車都尉を加えられ吏部を領した。清貧を理由に特に絹百匹を賜った。欽の挙用は必ず材によるとされ廉平と称された。
卒去と人柄
- 咸寧四年に卒去、詔に「欽は道を履み清正、徳を執って貞素、文武の称は方夏に著れた、機衡に躋りては庶事を允当した、内外に勤め匪躬の節があった。不幸にも薨没し朕は甚だ悼む、衛将軍・開府儀同三司を贈り秘器・朝服一具・衣一襲・布五十匹・銭三十万を賜う」とあり諡は元。欽の忠清高潔で産業を営まなかったことから、没後家に庇う所がないことを慮り特に銭五十万を賜い邸を建てさせた。さらに詔で「故司空王基・衛将軍盧欽・領典軍将軍楊囂は素より清貧で身没の後家に私積がなかった、頃者の饑饉でその家が大いに困窮していると聞く、それぞれ穀三百斛を賜う」とされた。欽は州郡を宰したが功名を尚まず平理を務めとし、俸禄は親旧に散じ資産を営まなかった。妻の死には礼典に則り廬杖の制で喪を外で終えた。著した詩賦論難数十篇は『小道』と名付けられた。子の浮が継いだ。
子浮
- 浮、字は子雲。太子舎人として起家した。疽で手を切断し廃疾となったが、朝廷は彼を重んじ国子博士・祭酒・秘書監に任じようとしたがいずれも就かなかった。
弟珽
- 欽の弟の珽、字は子笏は衛尉卿。珽の子は志。
珽子志
- 志、字は子道。初め公府掾・尚書郎に辟され鄴令として出た。成都王穎が鄴を鎮めた際その才量を愛し心膂として委ね謀主とした。斉王冏が挙兵し穎に告げると、穎は志を召して計を問い、志は「趙王は無道で篡逆を肆にし四海人神は憤怒している、殿下は三軍を総率して電のように出兵すべきだ、子来の衆は召さずして自ら至る、賢を旌し才を任じ時望を集めるべきだ」と答え、穎はこれに深く従い上佐を改選し高い掾属を辟き、志を諮議参軍とし左長史を補させ文翰を専掌させた。
- 穎の前鋒都督趙驤が倫に敗れ士衆が震駭した際、議者の多くは朝歌に還り保つことを望んだが、志は「今我が軍は失利し敵は勝ちに乗じて軽んずるだろう、兵を頓めて進まねば三軍は畏怖して用いられない、勝負のない戦はない、精兵を選び直ちに星行倍道で不意を突くべきだ、これが用兵の奇である」と答え穎はこれに従った。倫が敗れると志は穎に「斉王は号して百万の衆があり張泓らと対峙し決着がつかないが、大王は径ちに河を渡ることができた、この勲功は比類がない、しかし斉王と共に朝政を輔けることになれば両雄並び立たず功名も並び立たない、太妃の微疾にかこつけて還り省定し斉王を推崇し徐に四海の心を結ぶべきだ、これが上策だ」と勧め、穎はこれに従い母の病を理由に籓に還り重責を冏に委ねた。これにより穎は四海の誉れを得、天下は帰心した。朝廷は志を武強侯に封じ散騎常侍を加えた。
志――成都王穎の側近として
- 河間王顒が李含の説を受け二王を内から除き穎を儲副に立てようとした際、穎に報せると穎は応じようとしたが志は正諫し従わなかった。冏が滅ぶと穎は遠く政権を執り觖望の心を抱いた。長沙王乂が内にあることを理由に欲を恣にできず密かに乂を除こうとした。荊州の張昌の乱に際し穎は親征を表し朝廷は許した。昌らが平定されると乂討伐に転じようとした際、志は「公は先に皇祚を復した大勲があり、事が平定すると功を斉王に帰し九錫の賞を辞退し朝政の権に当たらず、陽翟の飢人を振い黄橋の白骨を葬った、すべて盛徳の事で四海の人は皆その恩恵に浴した、逆寇が猾擾する荊楚を公は掃清し南土を安んじて振旅すれば覇王の事となろう」と諫めたが穎は納れなかった。
- 乂の死後、穎は志を中書監とし鄴に留めて相府事に参署させた。乗與が蕩陰で敗れた際、穎は志に兵を督させ帝を迎えさせた。王浚が鄴を攻めた際、志は穎に帝を奉じて洛陽に還るよう勧めた。当時甲士は一万五千人余りあり、志は夜のうちに部分し暁には皆列を成したが、程太妃が鄴を離れたがらず穎は決断できなかった。まもなく衆は潰え、志と子の謐・兄の子綝・殿中武賁千人のみが残り、志は早く発つよう重ねて勧めた。黄という道士が「聖人」を号し太妃が信じていたが、人を呼ばせると道士は杯二つの酒を求め飲み干して杯を投げて去り、これで志の計画が決まった。人馬が再び散った際、志は営陣の間で捜索し数台の鹿車を得、司馬督韓玄が黄門百余人を集めた。志が入ると帝は「なぜここまで散敗したのか」と問い、志は「賊は鄴から八十里の地点にあり、人士が一朝で散った、太弟は今陛下を奉じて洛陽に還ろうとしている」と答え、帝は「甚だ良い」と言い犢車で発った。屯騎校尉郝昌が先に八千の兵で洛陽を守っていたが召すと汲郡で追いつき兵仗は盛んだった。志は再興を喜び天子に赦書を下し百姓と休慶を共にするよう啓した。洛陽に達すると志は滿奮を司隷校尉とするよう啓し、奔散した者の多くが戻り百官はほぼ揃い帝は悦び、志に絹二百匹・綿百斤・衣一襲・鶴綾袍一領を賜った。
志――長安への随行と最期
- 初め河間王顒は王浚の挙兵を聞き右将軍張方に鄴の救援を命じたが、方は成都軍の敗北を聞き洛陽で軍を止め進まず、兵を放って虜掠し密かに長安への遷都を図り宗廟宮室を焼いて人心を絶とうとした。志は方に「昔董卓は無道にも洛陽を焼き払い、その怨毒の声は百年経ってもなお残っている、なぜこれを繰り返すのか」と説き、方は止めた。しかし方はついに天子を自らの塁に迫った。帝が涙を流しながら輿に就く時、志だけが側に侍し「陛下の今日の事は右将軍に従うほかない、臣は駑怯で何の補いもできないが、ただ誠を尽くし左右を離れないだけです」と述べた。方の塁に三日留まってから西に向かい、志は長安まで随行した。穎が黜けられると志も免官となった。
- 東海王越が大駕を迎えるに及び、顒は帝に穎を鄴に還すことを願い出て、志を魏郡太守・加左将軍とし穎に随って北鎮させた。洛陽に至る途中、平昌公模が前鋒督護馮嵩を遣わして穎を拒んだ。穎は長安に還ろうとしたが至らぬうちに顒が張方を斬り越に和を求めたと聞いた。穎は華陰に留まり志は長安に進んで陳謝し、穎の元に武関で還った。南陽に奔ったが再び劉陶に追われ河北へ向かった。穎の薨去に及び官属は皆奔散したが志だけが自ら殯送し、時人は嘉した。越は志を軍諮祭酒とし衛尉に遷った。永嘉末年、尚書に転じた。洛陽陥落後、志は妻子を連れ北の并州刺史劉琨を頼ろうとしたが、陽邑で劉粲に捕えられ、次子の謐・詵らとともに平陽で殺された。長子の諶。
志子諶
- 諶、字は子諒は清敏で理知があり『老』『荘』を好み文を善くした。武帝の娘滎陽公主に選ばれて駙馬都尉を拝したが未婚のうちに公主が卒した。後に州が秀才に挙げ太尉掾に辟された。洛陽陥落後、父志に従い北の劉琨を頼り、志と共に劉粲に捕えられた。粲が晋陽に拠った際、諶を参軍として留めた。琨は散卒を収め猗盧の騎兵を引いて粲を攻め、粲は敗走し諶は琨のもとに赴くことができたが、平陽にいた父母兄弟は皆劉聡に害された。琨は司空となり諶を主簿とし従事中郎に転じた。琨の妻は諶の従母(伯叔母)であり親愛を加え才地も重んじられた。
- 建興末年、琨に従い段匹磾を頼った。匹磾が幽州を領するに及び諶は別駕とされた。匹磾が琨を害してまもなく敗喪すると、南路が阻絶していたため諶は遼西にいた段末波を頼った。元帝の初め末波が江左に通使すると諶はその使者に乗じて上表し琨の理を訴え文旨は甚だ切だった。すぐに弔祭が加えられた。度々散騎中書侍郎に召されたが末波に留められ南渡できなかった。末波の死後、弟の遼が代わり立ち、諶は流離すること二十年近くに及んだ。石季龍が遼西を破るとまた季龍に得られ中書侍郎・国子祭酒・侍中・中書監とされた。冉閔が石氏を誅した際、諶は閔の軍に従い襄国で遭害された、時に年六十七、この年は永和六年である。
- 諶は名家の子で早くから声誉があり才は高く行は潔かったため一時の推とされた。中原の喪乱に際し清河の崔悅・穎川の荀綽・河東の裴憲・北地の傅暢と共に非所(異民族の地)に淪陥し、皆石氏の下で顕位に就いたが常に辱と感じていた。諶は諸子に「私が死んだ後は、ただ晋の司空従事中郎とだけ称せよ」と語った。『祭法』を撰し『荘子』に注し文集を著し、皆世に行われた。
崔悅
- 悦、字は道儒は魏の司空崔林の曾孫で、劉琨の妻子の甥にあたる。諶と共に琨の司空従事中郎となり、後に末波の佐史となった。石氏の下に陥ったが同じく大官に居た。荀綽・裴憲・傅暢についてはそれぞれ別に伝がある。