晉書卷四十二 列傳第十二 唐彬

出仕以前

  • 唐彬、字は儒宗、魯国鄒の人。父の台は太山太守。彬は経国の大度があったが行検に拘らなかった。若くして弓馬に慣れ遊猟を好み、身長八尺、走れば奔鹿に及び強力は人に勝った。晩年に経史を篤く学び特に『易経』に明るく、師事を受けたのちは家に帰って教授し常に数百人が集まった。
  • 初め郡の門下掾となり主簿に転じた。刺史王沈が諸参佐を集め呉討伐の策を論じた際、彬は同僚の張惲とともに呉に兼併の可能性があると陳べ、王沈はその答えを善しとし、彬に反対論を難じさせたが理は皆屈した。功曹に遷り孝廉に挙げられ、州に主簿として辟され別駕に累進した。

文帝への出仕と鄧艾誅殺の密査

  • 彬は忠粛公正で規を尽くし諫を顕さず自らを誇らなかった。相府に赴いて事を計った際、当世の英彦たる僚佐も彬を欽悦し文帝に称え掾属に薦めた。帝が参軍孔顥に問うと妬んで答えず、陳騫が「彬は騫より遥かに優れている」と称えたため、帝は彬を鎧曹属に辟した。帝の問いに彬は「陋巷で修業し、古人の遺跡を観て、言は天下に満ちても口過なく行いは天下に満ちても怨悪がないようにと努めている」と答え、帝は「名は虚しく行われるものではない」と称えた。
  • 鄧艾誅殺の際、文帝は艾が久しく隴右にあって士心を得ていたため辺情の動揺を恐れ、彬に密かに察させた。彬は「鄧艾は忌克詭狹で己の能を誇り、従う者を『事を見る』と言い直言する者を『触迕』と言い、失指した答対にはすぐ罵辱を加えるなど礼のない振る舞いで大いに人心を失っていた、彼の禍を隴右は喜んでいて用いようとはしない、諸軍がすでに至っているので鎮圧に憂いはない」と報告した。

地方官としての治績と呉討伐

  • 尚書水部郎を経て泰始初年、関内侯を賜った。鄴令に補されると徳礼をもって期月で教化を成した。弋陽太守に遷り明確な禁防を設け百姓は安んじた。母の喪により去官した。
  • 益州は東で呉寇と接し監軍の位が欠員となった際、武帝は文立に武陵太守楊宗と彬いずれを用いるべきか問い、「宗・彬いずれも失いがたいが彬は財欲が多く宗は酒好きだ」との答えに帝は「財欲は満たせるが酒は改めがたい」として彬を用いた。まもなく巴東諸軍事を監せしめ広武将軍を加えた。呉征伐の策は帝の意に大いに叶った。
  • 王濬と共に呉を討つ際、彬は要衝に屯し全軍の前駆となり疑兵を設けて機に応じ勝を制し、西陵・楽鄉を陥落させ多くを捕らえた。巴陵・沔口以東の賊はことごとく震懼し降った。彬は賊寇がすでに殄び孫皓が降ろうとするのを知ると、建鄴まで二百里の地点で病と称して滞留し先を争わない意を示した。果たして先着者は物を争い後着者は功を争ったが、識者は皆彬のこの振る舞いを高く評価した。
  • 呉平定後、詔に「広武将軍唐彬は方隅を任され東で呉寇を禦ぎ南で蛮越を監し、綏御の績があった。慷慨として立功の志を抱き、頃者の征討にも病を扶けて命を奉じ勲効は著しい、右将軍・都督巴東諸軍事とせよ」とあった。翊軍校尉に召され上庸県侯・食邑六千戸に改封され絹六千匹を賜り、朝廷の疑議にもたびたび参与した。

幽州鎮撫

  • 北の異民族が北平を侵掠した際、彬は使持節・監幽州諸軍事・領護烏丸校尉・右将軍とされた。鎮に着くと兵を訓練し農を広げ稼を重んじ威武を震い、国命を宣諭し恩信を示した。鮮卑の二部大莫廆・擿何らはそろって侍子を入貢させた。学校を修め教誨を怠らず仁恵は広く及んだ。旧境を開拓して千里の地を得、秦の長城塞を復し温城から碣石まで山谷を貫く三千里に軍を分屯し烽堠を連ねた。これにより辺境は安寧を得、犬の吠える警もなく、漢魏の征鎮もこれに比べられなかった。
  • 鮮卑諸種は畏れて大莫廆を殺した。彬はこれを討とうとしたが、上奏して返答を待てば異民族は逃散すると考え幽冀の車牛を発したが、参軍許祗が密奏し詔により御史檻車で廷尉に付されたものの、事の筋が正しいとして釈放された。百姓は彬の功徳を追慕し、生きているうちに碑を立てて頌を作った。
  • 彬は初め東海の閻徳に学び門徒は多かったが、独り彬に廊廟の才があると目された。彬が官成する頃には徳はすでに卒しており、彬は徳のために碑を立てた。

晩年

  • 元康初年、使持節・前将軍・領西戎校尉・雍州刺史を拝した。教を下して「この州は名都、士人の林藪である。処士の皇甫申叔・厳舒龍・姜茂時・梁子遠らは志節清妙で行いは高潔だ、幅巾で相見え道を論じるのみで吏職に屈させることのないようにせよ」と命じ、四人はいずれも到り彬は敬意をもって遇した。
  • 元康四年、官にて卒去、時に年六十、諡は襄、絹二百匹・銭二十万を賜った。長子は嗣ぎ広陵太守に至った。少子の岐は征虜司馬。

史論

史臣曰く:孫氏は江山の阻隔を頼み牛斗の妖氛を恃んで水郷を保ち上国に抗した。王渾・王濬は共に戎旅の任にあたり律を受けて出征し、渾は横江で献捷し濬もまた建鄴を清めた。呉討伐の役、将帥は多かったが呉平定の功はこの二人が最であった。もし弘范(王渾)の父が功を誇らず、陽夏(王濬)が推功の徳を示し、上は廟堂に禀り下は将士に憑れば、なんと立派な始終であったろうか。しかしそうならず、矜功負気の者、勢を恃み驕陵する者があり、南箕・貝錦の讒を成し宸扆を喧擾させ彝倫を乱し、功臣の戒めとなり清論の譏りを招いた、惜しむべきことである。王済は父の偏狭な心を助長し争子の明義に背いた、俊材は多くともそれが何になろう。唐彬は交争を畏れ避け病と称して滞留した、その退譲の風は渾・濬より遥かに優れている。伝に「行検に拘らず」とあるが、これで長者の行いと言えるだろうか。

贊に曰く:二王は軍を総べ、淮海を共に平らげた。渾はすでに善を害し、濬もまた功を誇った。武子(王済)は豪桀であり夙く朝列に参じたが、欲を逞しくすること牛心の如く、情を紆ねること馬埒の如し。儒宗(唐彬)は退くを知り、名を避けて節を全うした。