出自と若年期
- 劉寔、字は子真、平原高唐の人。漢の済北恵王劉寿の後裔。父の広は斥丘の令。寔は若くして貧苦にあり牛衣を売って自活したが、学問を好み手には縄をより口には書を誦し古今に博通した。清廉潔白で行いに瑕はなかった。
- 郡が孝廉に推し州が秀才に挙げたがいずれも出仕せず、計吏として洛陽に入り河南尹丞に任ぜられ、尚書郎・廷尉正に遷った。後に吏部郎を歴任し文帝の相国軍事に参与し、循陽子に封ぜられた。
- 鍾会・鄧艾の蜀征伐に際し、客に「二将は蜀を平定できるか」と問われ「蜀を破ることは必定だが、両者とも帰還しないだろう」と答え、結局その言葉通りになった。寔の先見の明はこのようなものが多かった。
『崇讓論』(要約)
- 世が功名を求める風潮にあり廉譲の道が廃れていることから、『崇讓論』を著してこれを正した。
- 古の聖王が譲を貴んだのは賢才を出させ争いを鎮めるためであり、譲の道が興れば賢能の人は自ら現れ、一官の欠員には衆官が最も多く譲った者を用いるのが審らかな道である。譲の風が行われれば賢と不肖は明らかに分かれる。魏代以来この風は廃れ、争競の心が生じ、争う者は自分に優る能者を憎み毀るため、孔子・墨子でさえ世の謗りを免れなかった。
- 世に才が乏しいのではなく世が譲を尊ばないだけであり、能否が混雑し優劣が分からず官次によってのみ人が挙げられ、先に用いられた者はさらに昇進を重ね任に堪えなくなる弊害が生じている。
- もし天下が譲を貴べば、名行が立たない者は用いる術がなくなる。漢魏以来しばしば衆官に才によって人を挙げさせたが、当を得た挙用も抜擢と分からず、不当な挙用も罪とされず、賢愚の名が区別されないのは互いに推薦し合わない習慣による。斉の宣王の竽の合奏に紛れて俸禄を騙し取った南郭先生の故事を引き、濫挙の法が改まらねば南郭先生のような輩が朝廷に満ちると説く。
- 譲の道が興らない弊害は、良臣で重責を担う者も次第に罪を受け退けられていくことに及ぶ。譭謗はしばしば些細な過ちに乗じて生まれ、聞こえれば上の者もこれに頼らざるを得ず、罪に問えば大臣は自らを安んじられなくなる。詩に「禄を受けて譲らざれば身を亡ぼすに至る」とあると引く。
- この俗を改めるのは容易いとし、人臣が初めて任命される際の謝章の本来の意味は賢能を推挙して国恩に謝することにあったとし、舜の禹・益・伯夷の譲りの故事を引く。任用される官が上表を許される場合は賢を推し能を譲る文のみを通し、三司・四征・尚書・郡守の欠員はそれぞれの官が最も多く譲った者を用いるべきだと説く。
- 衆官・百郡の譲りを主者一人の判断に委ねるより優れ、世が譲れば賢智が現れ能否の美が判然とすると説き、『春秋伝』の范宣子の故事を引いて論を締めくくる。朝にある君子が賢を譲り能を挙げることを先務とすれば、多くの才が現れる功にまさるものはないと結ぶ。
出仕から晩年
- 泰始初年、爵位を伯に進め少府に累進。咸寧中、太常となる。尚書に転じた。杜預の呉討伐に際し、寔は本官のまま鎮南軍司を代行した。
- 初め、寔の妻盧氏は子の躋を生んで卒し、華氏がその娘を娶らせようとした。弟の智が「華家は貪欲な性質で必ず家を破るだろう」と諫めたが辞退できず、結局華氏と婚姻し子の夏をもうけた。寔は夏が賄賂を受けた事件に連座して免官となり、まもなく大司農となったがまた夏の罪により免官となった。
- 寔が郷里に帰るたび郷人は酒肉を持って迎え、寔は共に食し余りは返した。ある人に子らが行いを倣えないことを問われ、「私の行いは見聞きしたことによるもので代々受け継いだ習慣ではない、教誨によって得られるものではない」と答え、世は寔の言葉を正しいとした。
- 後に国子祭酒・散騎常侍として起用された。愍懐太子が初め広陵王に封ぜられた際、高潔な師友を選び寔を師とした。元康初年、爵位を侯に進め太子太保に累進、侍中・特進・右光禄大夫・開府儀同三司を加え冀州都督を領した。九年、司空を策拝され太保に遷り太傅に転じた。太安初年、老病により辞位し安車駟馬・銭百万を賜い侯として自邸に就いた。長沙王・成都王の相戦うに及び、寔は軍人に略奪され密かに郷里に帰った。
- 恵帝が崩じると寔は山陵に赴いた。懐帝即位後、再び太尉を授けられたが年老いたことを述べ固辞したが許されなかった。左丞の劉坦は「太尉寔は変わらぬ潔さを守り車を懸けて告老してから二十余年、国の碩老、邦の宗模と言うべきである。年九十を超えて自ら輿を扶けて山陵に赴いた、大臣の節はここに備わっている。古の養老は事に携わらないことを優とする、寔の望むところを聞き入れるべきである」と上言した。
- 三年、詔に「昔虞は五臣に任せ垂拱の化を致した。君は年老いて告老を確固として願う、今君の望みを聞き侯として自邸に就かせ位は三司の上に居らせ秩禄は旧に準じ几杖を賜う。国の大政はなお君に諮ることになろう」とあった。歳余りで薨去、時に年九十一、諡は元といった。
人柄と著作
- 寔は若い頃貧窮し杖をついて徒歩で旅し、宿るたびに主人に迷惑をかけず薪水の事は自ら賄った。位望が高くなってからも常に倹素を尚み華美を好まなかった。石崇の家を訪ね厠に入った際、絳の紋帳と美しい褥、香嚢を持つ二人の婢がいるのを見て「誤って御殿に入ってしまった」と言い、崇に「あれは厠だ」と言われても「貧士はこのようなものを見たことがない」と別の厠に行った。
- 栄寵の身にありながら邸宅を持たず、得た俸禄は親旧の困窮を助けるのに用いた。礼教が衰えていた時代でも自ら正しく行い、妻の喪では廬に住み杖をつく制を守り、喪の終わるまで閨房に入らなかった。軽薄な者はこれを笑ったが意に介さなかった。
- 若年から老年まで篤く学問に励み、職務にあっても書巻を手放さなかった。特に『三伝』に精通し『公羊伝』を批判し、衛の輒が祖父の命を理由に王位を辞すべきではなかったこと、祭仲が臣としての節を失ったことを論じ、この二点を挙げて臣子の体を明らかにし、これは世に広く行われた。また『春秋条例』二十巻を著した。
- 子は二人、躋と夏。躋、字景雲は散騎常侍に至った。夏は貪汚によって世に棄てられた。
弟智
- 弟の智、字子房は貞淑素朴で兄の風があった。若くして貧窮し薪を背負って自活しながら読誦を怠らず、ついに儒行をもって称された。中書黄門吏部郎を歴任し潁川太守として出た。平原の管輅は「私が劉潁川兄弟と語ると人の思考は清らかになり眠気も覚める。それ以外だと昼間から眠くなりそうだ」と評した。
- 秘書監に入り南陽王師を領し散騎常侍を加えられ、侍中・尚書・太常に遷った。『喪服釈疑論』を著し多くの疑問を明らかにした。太康末年に卒し、諡は成といった。