出自と若年期
- 李憙、字は季和、上党銅鞮の人。父の牷は漢の大鴻臚。憙は若くして高潔な行いがあり博学精緻で、北海の管寧とともに賢良に推挙されたが出仕しなかった。三府に度々招かれたが応じなかった。
- 宣帝は再び太傅属に招いたが病と称して固辞し、郡県が輿で送ろうとした際、母の病が篤かったため泫氏城をひそかに越えて徒歩で帰り、そのまま母の喪に遭った。世論はその志節を称えた。
- 后に并州別駕となり、驍騎将軍秦朗が并州を通過した際、州将畢軌が敬意を表し車に乗せて閣まで来させようとしたが、憙は固く諫めて不可とし、軌はやむを得ず従った。
景帝・涼州での功績
- 景帝が輔政すると憙を大将軍従事中郎に任じ、「昔父が招いた時は応じなかったのに、今私が命じたら来たのはなぜか」と問うと、憙は「先君は礼をもって遇したので礼によって進退を決めました。あなたは法をもって私を縛るので法を畏れて参りました」と答え、帝は深く重んじた。
- 司馬に転じ、まもなく右長史を拝した。毌丘倹討伐に従い帰還後、御史中丞に遷った。職務にあたって厳正で権勢を恐れず、百官は震え粛然とした。楽安の孫璞を推挙し、時人は「人を知る」と称した。まもなく大司馬に遷ったが、公事により免官となった。
- 司馬伷が寧北将軍として鄴を鎮めた際、憙を軍司とした。まもなく涼州刺史に任じられ揚威将軍・仮節を加え護羌校尉を領し、華夷を綏撫し大いに功績があった。羌の異民族が国境を犯した際、上聞を待たず便宜により深く出兵し大いに勝利を得た。功にもかかわらず重い譴責を免れ、当時の人は漢の馮奉世・甘延寿になぞらえた。帰還を願い出て許された。
- 数か月後、冀州刺史を拝され、司隸校尉に累進した。魏帝が晋に禅譲を告げるに及び、憙は本官のまま司徒事を代行し、太尉鄭沖を助けて策を奉じた。泰始初年、祁侯に封ぜられた。
上言と司隸校尉
- 憙は「亡くなった立進令劉友、前尚書山濤、中山王睦、故尚書僕射武陔がそれぞれ官田三更の稲田を占有していた。濤・睦らの官を免じ、すでに亡くなった陔の諡を貶めるよう請う」と上言した。
- 詔に「調べたところこの事はすべて劉友が行い百姓を侵し朝士を欺いたものだ。友を厳しく取り調べ懲らしめよ。濤らは問うべきではない。今憙は公のために志を高くし『邦の司直』と言えよう。群僚に各々その職を慎ませよ、寛宥の恩は度々受けられるものではない」とあった。憙は二代にわたり司隸を務め朝野に称えられたが、公事により免官となった。
- その年、皇太子が立てられ、憙は太子太傅となった。魏の明帝以来東宮は長く空しく制度は廃れ、詹事・左右率・庶子・中舎人などの官はいずれも置かれず、衛率令が兵を統轄するのみで二傅がすべての職務を兼任していた。憙は在位数年、教導は規に尽くした。
- 尚書僕射に遷り特進・光禄大夫を拝したが、老齢を理由に辞位した。詔に「まさに三公に昇るべきであったのに年老いたことで致仕する、光禄の号により金紫を改め仮し、官騎十人を置き銭五十万を賜い、俸禄・賜与の儀は三司に準じ門に行馬を施す」とあった。
晩年
- 初め、憙が僕射であった時、涼州の異民族が辺境を侵し、憙は義を唱えて討伐しようとしたが朝士は従わず、後に果たして異民族は猖獗し涼州は覆滅し朝廷は深く後悔した。憙が清廉で貧しかったため絹百匹を賜った。
- 斉王攸が籓に出るに及び、憙は上疏して諫争し言葉は非常に懇切であった。憙は仕官以来清廉さは人に劣らなかったが家に蓄えはなく、親旧・故人とは衣食を分かち合い、私的に王の官物を用いたことはなかった。
- 卒すると太保を追贈され、諡は成といった。子の贊が継いだ。少子の儉、字仲約は左積弩将軍・屯騎校尉を歴任した。儉の子の弘、字世彦は若くして清節があり、永嘉末、給事黄門侍郎・散騎常侍を歴任した。