晉書卷三十七 列傳第七 高陽王睦

高陽王睦。宣帝の弟にあたる宗室諸王の一人。

年表(3件)
  • 咸寧三年国内の逃亡者受け入れが問題となり丹水県侯に降格される
  • 太康初爵位を復され高陽王に封じ直される
  • 元康元年宗正となり在職のまま薨去

高陽王睦

  • 睦、字は子友、譙王遜の弟。魏で安平亭侯、侍御史を歴任。武帝受禅後、中山王・邑五千二百戸に封じられた。睦は自ら六蓼の地に皋陶を、鄫杞の地に相を祀りたいと上表し、太常に議が下され礼典に照らして評議された。博士祭酒の劉憙らは『礼記』王制篇に基づき始祖の廟を立てられるのは嫡統を継承する一人に限られ、支庶の諸侯には認められないと議し、詔は禮文が明確でないためさらに詳しく礼官に議させるとした。
  • 咸寧三年、睦は国内八県に逋逃・私占・詐称改姓・復除詐取などをした者七百余戸の受け入れを募り、冀州刺史の杜友がこれを非難する上奏をした。有司は赦令以前の事として不問を求めたが、詔は睦の行いを咎めつつも赦令の範囲内であるとして丹水県侯に降格するにとどめた。
  • 呉平定後の太康初、爵位が復された。有司が江陽王に封じるよう奏したが、帝は「睦は退いて過ちを省み徳を改めた、爵土は赦免のためだけではない、江陽は険遠なので高陽郡を与えよう」として高陽王に封じ直した。元康元年、宗正となり在職のまま薨去、世子の蔚は早世していたため孫の毅が立ち散騎侍郎を拝したが、永嘉中、石勒に捕らわれた。隆安元年、詔により譙敬王恬の次子恢之の子・文深を毅の嗣とした。五年後薨じ嗣なく、高密王純の子・法蓮が改めて継いだ。宋の受禅で国は除かれた。