晉書卷三十七 列傳第七 范陽康王綏
范陽康王綏。宣帝の弟にあたる宗室諸王の一人。子の虓は宗室として重んじられ司徒に至ったが、永興三年に急病で薨じた。
范陽康王綏
- 綏、字は子都、彭城王権の末弟、初め諫議大夫。泰始元年に封を受け十五年在位、咸寧五年薨、子の虓が立った。
子・虓
- 虓、字は武会、若くして学を好み名を馳せ、経記を研究し弁舌に長け議論に巧みであった。宗室として散騎常侍に選ばれ累進して尚書となる。安南将軍・都督豫州諸軍事・持節として許昌に鎮し征南将軍に進む。
- 河間王顒が成都王穎を皇太弟に立てるよう上表したが穎は王浚に破られ天子を奉じて洛陽に戻った。虓は東平王楙・鎮東将軍の周馥らと共に上言し、湣懐太子の死後皇儲が立たず前相(成都王穎)に重責を委ねたが期待に応えられなかった経緯、太宰(河間王顒)の将・張方を功臣として保護すべきこと、朝臣が功臣を疑い過ぎて容赦しないことの弊害、司徒の王戎・司空の越・安北将軍の王浚を重用すべきことなどを詳しく訴え、成都王穎への処分についても寛大な扱いを求める上表を続けて行った。虓はまず自ら軍を率いて許から滎陽に屯した。
- 恵帝の西遷に際し、虓は従兄の平昌公模・長史の馮嵩らと白馬の血を啜って盟い、東海王越を盟主に推し、虓は都督河北諸軍事・驃騎将軍・持節・領豫州刺史となった。劉喬が越らの節度に従わず許を攻め落としたが、虓は自ら河を渡って脱出し、王浚が虓を冀州刺史に推薦し兵馬を与えた。虓は冀州で兵を発しさらに南下して河を渡り喬らを破った。河間王顒は喬の敗北を聞き張方を斬りその首を越に送った。越と虓は西に赴き帝を迎え、顒は出奔した。かくして天子を都に戻し虓は司徒を拝した。永興三年、急病で薨、享年三十七。子なく模の子・黎を養子としたが、黎は模に従い藩国で難に遭った。