晉書卷三十七 列傳第七 彭城穆王權

彭城穆王權。宣帝の弟にあたる宗室諸王の一人。

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彭城穆王權

  • 権、字は子輿、宣帝の弟で魏の魯相・東武城侯馗の子。初め封を襲い冗従僕射を拝す。武帝受禅後、彭城王・邑二千九百戸に封じられ、北中郎将・都督鄴城守諸軍事として出た。泰始中に入朝し袞冕の服を賜り、咸寧元年薨、子の元王・植が立った。
  • 植は後将軍を経て国子祭酒・太僕卿・侍中・尚書を拝し、安東将軍・都督揚州諸軍事として出て淮南王允に代わり寿春に鎮する予定だったが赴任前に、植が允の趙王倫討伐を助けたためとも言われる憂いから薨じた。車騎将軍を追贈され邑一万五千戸を増された。子の康王・釈が立ち南中郎将・持節・平南将軍に至り、魯国の蕃・薛二県を分けて国に加えられ邑二万三千戸となった。薨じ子の雄が立ったが蘇峻に奔り誅殺され、釈の子・紘が改めて嗣となった。

曾孫・紘

  • 紘、字は偉徳、初め堂邑県公に封じられた。建興末、元帝は承制で紘を高密王拠の嗣とし、帝即位後、散騎侍郎を拝し翊軍校尉・前将軍に遷った。雄の誅殺後、紘は本宗に戻り国子祭酒を拝し散騎常侍を加えられ、大宗正・秘書監に遷った。
  • 風疾があり性格が定まらず、上疏して公卿に示そうとしたり、章印貂蟬を返上して『杜門賦』を著しその志を示したりした。これにより光禄大夫・大宗師・常侍として復職したが、のち病が重くなり無軌道な振る舞いや官属への乱暴、悖言・誹謗が続き、車で端門に突入し太極殿前に至ったため、御史中丞の車灌が弾劾を上奏し官を免じ国を厳しく監督することが命じられた。成帝は詔で紘を宗師の重責から解き常侍・光禄・宗師を辞めさせ静養させた。咸康八年薨、散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈。二子は玄・俊。
  • 玄は嗣立したが庚戌の禁制(戸籍の隠匿禁止)で五戸を匿ったことを桓温に告発され廷尉に付されたが、のち赦されて中書侍郎に至った。薨じ子の弘之、その子の邵之、その子の崇之、その子の緝之と代を継ぎ、宋の受禅で国は除かれた。

紘子・俊

  • 俊、字は道度、高密王略を嗣ぎ散騎常侍に至った。薨じ子の敬王純之が立ち臨川内史・司農少府卿・太宰右長史を歴任。薨じ子の恢之が立ち義熙末、給事中兼太尉として洛陽の園陵を修謁した。宋の受禅で国は除かれた。