魏朝での経歴
- 字は穎考、陳国陽夏の人。父は何夔(魏の太僕・陽武亭侯)。若くして爵位を継ぎ、博学で同郡の袁侃と並び称された。魏明帝即位後、散騎侍郎、汲郡典農中郎将、給事黄門侍郎を歴任。郡守の人選の重要性を説く上疏を奏した(良吏を得られるかどうかが民の安寧を左右するとの内容)。
- 宣帝(司馬懿)の遼東遠征に際し、副将を置く必要性を説く上疏を奏したが容れられなかった。河内太守として威厳を示し、侍中に召されたが母の喪で辞した。
- 嘉平年間、司隸校尉として撫軍校事尹模の不正を弾劾し朝廷に称賛された。曹爽専権時は宣帝に倣い病と称して隠れ、曹爽誅殺後に復職。高貴郷公廃立の謀にも参画した。
阮籍批判と栄達
- 歩兵校尉阮籍が喪中に無礼な振る舞いをした際、文帝の面前で厳しく批判し「陛下が孝によって天下を治めておられるのに、阮籍のような者を放置すべきでない」と諫めたが、文帝は阮籍の病弱を理由に容れなかった。
- 毌丘倹誅殺の際、その子の妻となっていた荀氏の娘が連座で死刑となる寸前、何曾は荀氏の懇願を受けて上奏し、法を改めさせて助命した(この経緯は「刑法志」に記される)。
- 司隸校尉在任が長く続いた後、尚書、鎮北将軍・都督河北諸軍事を歴任。赴任の際、文帝は武帝・斉王攸に見送らせ、盛大な饗応を行った逸話や、子の何劭を厳しく戒めた逸話が伝わる。征北将軍、司徒を歴任し、文帝が晋王になると高柔・鄭沖と共に三公として謁見したが、何曾は拝礼を尽くし、他の二人は揖礼のみであった。
武帝朝の栄達と奢侈
- 武帝が王位を継ぐと丞相となり、践祚後は太尉に進み公に進爵(食邑1800戸)。泰始初年、太保に任じられ、その後も太傅・太宰と累進し、漢の蕭何・田千秋、魏の鍾繇の故事に倣う厚遇を受けた。
- 咸寧4年(278年)、80歳で薨去。諡をめぐり博士秦秀が「繆醜」を提案したが帝は容れず「孝」と定めた。太康末年、子の何劭が上表して「元」に改諡された。
- 至孝で家庭を厳しく律し、若い頃から音楽や寵妾を好まなかった。老いてからも妻とは賓客のように礼をもって接した(年に2、3度のみ相見え、正装で盃を交わす程度であった)。司隸校尉傅玄は何曾・荀顗を「文王の道をもって親に事えた」と称え、「孝子の百世の宗、仁人の天下の命」と称賛した。
- 一方で奢侈を極め、帷帳車服は華美を尽くし、日々の食費は1万銭に及びながら「箸を下ろす所がない」と嘆いたという。蒸餅の表面に十字の割れ目がないと食べなかった逸話も伝わる。都官従事劉享らがたびたび奢侈を弾劾したが、帝は重臣として不問に付した。司空賈充の権勢に阿ねり、賈充と庾純の争いでは賈充を支持して正直な士に非難された。2子(遵・劭)がおり、劭が跡を継いだ。
何曾の子・劭
- 字は敬祖。武帝と同年で幼馴染であった。武帝が太子の頃は中庶子、即位後は散騎常侍として親任された。咸寧初年、兄の何遵らと共に故鬲令袁毅からの賄賂を受けた廉で問題となったが、太保(何曾)と袁毅の旧交により大目に見られた。侍中尚書に累遷。
- 恵帝即位後、幼い太子(愍懐太子)を補佐するため太子太師に任じられ、尚書事を通省した。特進、尚書左僕射を歴任。博学で文才があり、近代の事情を語らせれば手のひらを指すように詳しかった。永康初年(300年)、司徒。趙王倫の簒位、三王(司馬冏ら)の抗争の間も驕奢な貴族としての立場を保ち恨みを買わなかった。父譲りの奢侈で、日々の食費の上限を2万銭とし、太官の御膳もこれには及ばぬと評された一方、権勢を貪らなかった。『荀粲伝』『王弼伝』ほか奏議文章を著した。永寧元年(301年)薨去、司徒を追贈され諡は康。子の何岐が跡を継いだ。
- 何劭の死去に際し、袁粲が弔問に訪れたが何岐が病と称して会わなかったため、袁粲は独り哭して「今年は婢子の品定めを下そう」と言い、王詮が「生を知り死を弔うべきものを、なぜ生きている時には見舞わず亡くなってから品評するのか」と諫め、袁粲はやめた。
何劭の庶兄・遵とその子たち
- 何遵、字は思祖、何劭の庶兄。散騎黄門郎、散騎常侍、侍中を経て大鴻臚に至った。奢侈な性格で禁制品の製作・売買が発覚し免官。太康初年、魏郡太守として起用され太僕卿に至るがまた免官、家で没した。4子(嵩・綏・機・羨)がいた。
- 何嵩は字を泰基といい、寛容で士を愛し博学、『史記』『漢書』に精通し著作郎を務めた。
- 何綏は字を伯蔚といい、侍中尚書に至ったが、名門の出であることを笠に着て過度に奢侈で人を軽んじる態度をとった。城陽王司馬尼は「伯蔚の驕慢はこのままでは免れまい」と評した。劉輿・潘滔が東海王司馬越に讒言し、司馬越は何綏を誅殺した。かつて何曾は武帝の宴に侍った後、子らに「陛下は国家の遠大な計を語らず日常の話ばかりする、これは子孫への計略ではない、子孫の代が心配だ」と述べ、孫たちを指して「この者らは必ず乱によって滅びるだろう」と予言していた。何綏の死に際し、何嵩は「我が祖父はなんと大聖であったことか」と哭いた。
- 何機は鄒平令となったが驕慢な性格で、郷里の謝鯤らに拝礼を強要し、風俗を損なうとの忠告にも恥じなかった。
- 何羨は離狐令となり、驕慢で吝嗇、人々に憎まれた。永嘉末年、何氏一族は皆滅ぼされ、後を継ぐ者もなかった。