出自と孝行
- 字は休徴、琅邪臨沂の人。後漢の諫議大夫王吉の子孫。祖父は王仁(青州刺史)、父は王融(公府の招聘に応じなかった)。
- 至孝で知られた。幼くして父を亡くし、継母朱氏に疎まれ讒言されて父の愛を失ったが、牛小屋の掃除を命じられても恭謹に努めた。父母の病には帯を解かず薬を自ら味見した。母が生魚を欲した際、寒さで凍った川の氷を割ろうとすると氷が自然に割れ鯉が跳び出た故事、母が黄雀の炙り物を欲した際に黄雀の群れが幕内に飛び込んだ故事など、孝行が天に通じたと語り継がれた。実った丹柰(林檎)の番を命じられると、風雨のたびに木を抱いて泣いたという。
隠棲から仕官へ
- 後漢末の乱により母と弟王覧を連れて廬江に避難し、30年余り隠棲して州郡の招聘に応じなかった。母の喪では杖に頼らねば起き上がれぬほど衰弱した。徐州刺史呂虔の招きに固辞したが、弟の勧めで応じ、州事を任された。賊の討伐に功があり、州境は清まり、「海沂の康、実に王祥に頼る。邦国空しからざるは、別駕の功なり」と民に謳われた。
- 秀才に挙げられ温令を経て大司農に累遷。高貴郷公即位に功があり関内侯に封じられ光禄勲、司隸校尉を歴任。毌丘倹討伐に従い増封400戸、太常となり万歳亭侯に封じられた。天子が太学に行幸した際は三老に任じられ、師の礼をもって政道の要諦を説いた。
高貴郷公弑逆と三公歴任
- 高貴郷公が弑された際、朝臣が哀を挙げる中、王祥は「老臣、面目なし」と号泣し、人々を恥じ入らせた。司空、太尉、侍中を歴任。五等爵制成立時、睢陵侯(食邑1600戸)に封じられた。
- 武帝(司馬炎)が晋王となった際、荀顗と共に謁見した折、荀顗が拝礼すべきと勧めたのに対し、王祥は「相国は尊貴だが魏の宰相にすぎない。我らは魏の三公であり、公と王の差は一階に過ぎない。天子の三司たる者が軽々しく人を拝すべきでない」として長揖のみに留めた。武帝は「今日こそ君の重んじる心を知った」と述べた。
武帝朝の礼遇と致仕
- 武帝践祚後、太保を拝命し公に進爵、七官の職を加えられた。何曾・鄭沖ら老臣とともに朝見が稀になったため、帝は侍中任愷を遣わして意見を聞いた。年老いたことを理由に辞位を求めたが許されず、御史中丞侯史光が病を理由の免官を求めても詔で退けられた。ついに睢陵公として致仕を許され、保傅と同格の礼遇(几杖・安車駟馬・邸宅・銭百万・絹五百匹等)を受けた。
- 病篤くなった際、子孫への遺言を残した。「死は自然の理、85年生きて思い残すことはない。薄葬とし沐浴も要らず、故衣のまま棺に納め、玄玉佩など賜った品は殉葬品にせず、墳墓も築かず簡素にせよ」と説き、言行一致・美を人に譲り過ちを引き受けること・親を顕彰すること・兄弟の和・財を譲ることの5つを立身の本とした。子らはこれをよく守った。
- 泰始5年(269年)薨去。文明皇太后崩御の直後であったため哀悼の発表が遅れたが、翌年に元の諡が贈られた。葬儀に集まったのは賢臣と親しい旧吏のみで、雑多な弔問客はいなかった。族孫の王戎は「太保はまさに清廉練達の士であった」と評した。5人の子(肇・夏・馥・烈・芬)がいた。
子孫
- 王肇は庶子、王夏は早世、王馥が爵位を継いだ。咸寧初年、家の貧窮を理由に絹300匹が下賜され、上洛太守を拝命、諡は孝。子の王根が跡を継ぎ散騎郎となった。王肇は始平太守にまで至り、子の王俊は太子舎人・永世侯、その子王遐は郁林太守となった。王烈・王芬は幼くして知られ父に愛されたが、同時期に亡くなった。臨終に際し王烈は故郷への埋葬を、王芬は都での埋葬を望み、王祥は「故郷を忘れないのも仁、故郷に拘泥しないのも達、この二つを我が子は持っている」と涙した。
王祥の弟・覽
- 字は玄通。継母朱氏に虐待される兄王祥をかばい、母の非道な仕打ちにも自ら共に耐え、妻にも同様の被害が及ぶと自らの妻も共にした。朱氏が王祥を毒殺しようとした際、覽が先に酒を取ろうとして未遂に終わらせ、以後は朱氏が用意した食事を覽が先に毒見するようになり、朱氏はついに諦めた。
- 王祥の出仕とともに覽も本郡の招聘に応じ、司徒西曹掾・清河太守を歴任。五等爵制で即丘子(食邑600戸)に封じられ、泰始末年に弘訓少府、のち太中大夫に転じた。咸寧初年、宗正卿に任じられたが、病を理由に致仕を願い許され、致仕後も銭20万等の厚遇を受けた。のち光禄大夫に転じた。
- 咸寧4年(278年)、73歳で卒し、諡は貞。6人の子(裁・基・会・正・彦・琛)がいた。裁は撫軍長史、基は治書御史、会は侍御史、正は尚書郎、彦は中護軍、琛は国子祭酒となった。
- 呂虔の佩刀の逸話:相者が「必ず三公に登る者が帯びるべき刀」と評したこの刀を呂虔は王祥に譲り、王祥は臨終に際しこれを弟の覽に授け「お前の子孫は必ず栄えるだろう、この刀にふさわしい」と告げた。覽の子孫は代々賢才が多く、江左(東晋)で栄えた。裁の子王導は別伝がある。