晉書卷二十二 志第十二

楽論――音楽の起源と意義

  • 心の内から発する情は詠歌となり、手足の動きとなって現れる。心に生じるものを道、形に成るものを用という。百獣すら和平を喜び喪乱を哀しんで舞うのだから、まして人はなおさらである。
  • 農(神農)の瑟、羲(伏羲)の琴、倕・鍾・和の作った鐘磬など、楽器の起源は古い。殷の乱れとともに淫奏が興り雅楽は衰えた。孔子は「人能く道を弘む、道人を弘むるに非ず」と説いた。周初の二南の詩は六代の風を兼ねた。黄帝の《雲門》、堯の《咸池》、舜の《大韶》、禹の《大夏》、殷の《大濩》、周の《大武》は、いずれも前王の礼に基づき容儀を整えたものである。褒姒の艶美による災いと平王の乱以後、礼は廃れ楽は沈み、延陵季子は《小雅》を聞いて「周徳の衰えながらもなお先王の遺風あり」と評した。列国はそれぞれ吟詠を興し、魏文侯は古楽を聞いて眠くなり晋平公は新声に食を忘れるまでになるなど、先王の道は次第に衰えた。秦の統一後は刑憲が専らとされ、弦歌・詩頌・干戚旄羽の類はことごとく焼き払われて跡形もなくなった。
  • 漢の高祖は武で天下を平定し、文治の徳化には及ばなかったが、後の武帝の代には礼楽が盛んになった。永平三年、楽官を「大予」と改称し典礼を揚げ図讖を求めた。五方の楽(天神を礼す)、宗廟の楽(先祖が聴く)、社稷の楽(田祖を迎える)、辟雍の楽(移風易俗)、黄門の楽(群臣を宴す)、短簫の楽(軍中の凱歌)など、それぞれ経典の語に対応する意義があるとされた。
  • 魏武帝は天子を挟んで諸侯に号令し、荊州平定後に杜夔を得て雅楽の制を整えた。魏の三祖はいずれも文才があり、王粲らが新詩を作り神霊を讃えた。
  • 武帝(司馬炎)は漢魏の遺範を採り、泰始九年、光禄大夫荀勖が古尺を作って声韻を調え、張華らの作った歌辞を用いた。永嘉の乱で伶官は減り、楽器・楽舞も多くが失われ、備わるものは百に一つほどとなった。人は天地の霊気を受け剛柔哀楽の情を分かつものであり、聖人は功成れば楽を作り、化平まれば曲を裁し、節奏を揚げて中和を暢べ、歓びを飾り哀しみを止めるものだと結ぶ。

楽理――五声・八音・律呂・十二辰

  • 五声(宮・商・角・徴・羽)にはそれぞれ君・臣・民・事・物の意味が配され、聞く者の徳性に感化を与えるとされる(宮声は温良寛大、商声は方廉好義、角声は惻隠仁愛、徴声は楽養好施、羽声は恭倹好礼)。
  • 八音(石・革・匏・竹・木・絲・土・金)はそれぞれ八卦(乾坎艮震巽離坤兌)と八方の風に配当される。
  • 陽六律(黄鍾・太蔟・姑洗・蕤賓・夷則・無射)と陰六呂(大呂・応鍾・南呂・林鍾・仲呂・夾鍾)で十二律とし、十二辰に配する。律は「法」、呂は「助」の意とされる。
  • 十二辰(寅~丑)と十二律(黄鍾~大呂)それぞれについて、字義に基づく由来の説明が記される(寅は津、卯は茂、辰は震……黄鍾は陰陽の中色、太蔟は蔟生……など、いずれも季節・万物の生育変化を象徴する語源解釈)。

郊祀・宗廟の楽歌――泰始二年、傅玄作

  • 泰始二年、武帝は郊祀・明堂の礼楽をひとまず魏儀に依りつつ、歌辞のみ改めさせ、傅玄に作らせた。以下の曲が作られた。
  • 〈祀天地五郊夕牲歌〉〈祀天地五郊迎送神歌〉〈饗天地五郊歌〉(三章)〈天地郊明堂夕牲歌〉〈天地郊明堂降神歌〉〈天郊饗神歌〉〈地郊饗神歌〉〈明堂饗神歌〉〈祠廟夕牲歌〉〈祠廟迎送神歌〉〈祠征西将軍登歌〉〈祠豫章府君登歌〉〈祠潁川府君登歌〉〈祠京兆府君登歌〉〈祠宣皇帝登歌〉〈祠景皇帝登歌〉〈祠文皇帝登歌〉〈祠廟饗神歌〉(三章)
  • いずれも晋が天命を受けて魏に代わったことを寿ぎ、宣帝・景帝・文帝ら祖考の武功文徳を称え、神祇の降臨と子孫繁栄を祈る内容で統一されている。
  • 杜夔が伝えた旧雅楽四曲は《鹿鳴》《騶虞》《伐檀》《文王》であったが、太和年間に左延年が《騶虞》《伐檀》《文王》三曲の声節を改め、《鹿鳴》のみ旧のままとした。後にこの三篇を〈於赫篇〉(武帝を詠う)・〈巍巍篇〉(文帝を詠う)・〈洋洋篇〉(明帝を詠う)に改め、第四に再び《鹿鳴》を用いた。晋初の食挙にも《鹿鳴》が用いられたが、泰始五年、尚書の奏により太僕傅玄・中書監荀勖・黄門侍郎張華にそれぞれ〈正旦行禮〉〈王公上寿酒〉〈食挙楽歌〉の詩を作らせた。荀勖は「魏氏の行礼・食挙が本来宴嘉賓の詩である《鹿鳴》を朝廷用に転用したのは適切でない」として《鹿鳴》を除き新たに行礼詩四篇を作った。また魏の歌詩が二言・三言・四言・五言と句法が不揃いなのを問題視し、司律中郎将陳頎に問うたところ「金石に被せるのに必ずしも整うとは限らない」との答えを得て、荀勖の晋歌は原則四言、〈王公上寿酒〉のみ三言五言とした。張華は逆に「魏の上寿・食挙の詩は句の長短があっても古の詠法に由来し曲節に適う」として、あえて改めない立場を取った。詔により中書侍郎成公綏にも作らせた。

四廂楽歌

  • 〈正旦大会行礼歌〉(十一章)は元日朝賀の盛儀と天子の徳、四海の帰服、瑞祥(麒麟・鳳皇・醴泉・嘉禾)などを詠う一連の頌歌。
  • 〈正旦大会王公上寿酒歌〉は元日に王公が寿酒を献じ皇帝の長寿を祈る短章。
  • 〈食挙楽東西廂歌〉(十三章)は宴の礼儀・賓客への敬意、宣帝・景帝・文帝の功業、四夷の来朝、天下泰平を詠う。
  • 〈冬至初歳小会歌〉は冬至の小会での君臣和楽を詠う。
  • 〈宴会歌〉は日常の宴での歓楽と礼節の調和を詠う。
  • 〈命将出征歌〉は出征する将軍への激励と武功への期待を詠う。
  • 〈労還師歌〉は凱旋した将士をねぎらい、艱苦をしのぶ内容。
  • 〈中宮所歌〉は皇后の徳を古の三妃・后妃の徳に擬えて称える。
  • 〈宗親会歌〉は皇族一門の親睦を詠う。

正德舞・大豫舞

  • 泰始九年、光禄大夫荀勖は杜夔の律呂が太楽・総章・鼓吹八音とずれていることを問題視し、古尺を作り新律呂を制した(詳細は「律暦志」)。律成った後、太常に頒って太楽・総章・鼓吹・清商に用いさせ、郭夏・宋識らに《正徳舞》《大豫舞》の二舞を作らせた。楽章は張華の作。
  • 〈正徳舞歌〉は晋の天命と武帝の聖徳、礼楽の隆盛を詠う。
  • 〈大豫舞歌〉は晋の三代(宣帝・景帝・文帝)の光を継ぎ武帝が天命を受け継いだこと、万物への仁化を詠う。
  • 荀勖はまた新律笛十二枚を作り雅楽を正したが、阮咸は勖の新律の声が高すぎて哀思に近く中和に合わないと批判し、公会の楽で意見が対立、勖は咸を始平相に出した。後に田父が周代の玉尺を得たことで荀勖の律の誤りが証明され、阮咸の妙解が裏付けられた。荀勖は新律で二舞を作った後、鐘声を修正しようとしたが薨じて未完に終わり、元康三年にその子藩に金石の修定を詔したが、間もなく喪乱に遭いその後継続されなかった。

《巴渝舞》の沿革

  • 漢高祖が蜀漢から三秦を平定する際、閬中の范因が賨人を率いて先鋒を務め、後に閬中侯に封じられ賨人七姓の賦役が免除された。その勇猛な舞を高祖が愛好し楽人に習わせたのが《巴渝舞》の由来(閬中の渝水にちなむ)。曲は《矛渝本歌曲》《安弩渝本歌曲》《安台本歌曲》《行辞本歌曲》の四篇があったが、句読の意味が失われていたため、魏初に王粲が巴渝の楽人李管・種玉に曲意を問い、新たに《矛渝新福歌曲》《弩渝新福歌曲》《安台新福歌曲》《行辞新福歌曲》に改作した(《行辞》は魏の徳を述べる)。黄初三年、《巴渝舞》は《昭武舞》と改称された。景初元年、尚書の奏により三代の礼楽を参考に《武始》《咸熙》《章斌》の三舞(羽龠を執る)が作られた。晋になると《昭武舞》は《宣武舞》、《羽龠舞》は《宣文舞》と改称されたが、咸寧元年、祖宗の号を定めた際に廟楽は《宣武》《宣文》二舞を停め、荀勖の作らせた《正徳》《大豫》二舞に統一された。