晉書卷二十 志第十

喪礼総説(漢魏晋の三年喪と魏武の遺令)

  • 五礼の別の第二は凶礼である。天子より庶人に至るまで、身体髪膚は父母より受け、その理も情も等しいので、生きては養い死しては哀しむのが道理であり、三年の喪は天下に通じる達礼である。
  • 漢の礼では、天子が崩じてから登遐・葬に至るまでの喪紀の制は、夏殷周の三代とは異なっていた。魏晋以来は概ね漢の制度を踏襲した。しかし漢の文帝が喪礼を改めて以降、後代はこれに倣い、もはや三年の礼は行われなくなっていた。
  • 魏の武帝(曹操)は臨終に際し、「天下がまだ安定していないので古礼に従うことはできない。臨席する百官は十五回哭礼を挙げれば喪服を除いてよい。兵を率いて屯戍する者は部署を離れてはならない」と遺令した。武帝は正月庚子の日に崩じ、翌辛丑日に殯し、同月丁卯日に葬られ、一月を超えなかった。

晋の皇帝の喪礼(宣帝から武帝まで)

  • 宣帝・景帝の崩御では、いずれも権制(略式)に従った。文帝の崩御では国内は三日間喪に服した。
  • 武帝も漢魏の典礼に倣い、葬儀が終われば喪服を除いたが、なお深衣素冠を着け、席を降り膳を減じた。太宰の司馬孚・太傅の鄭沖・太保の王祥・太尉の何曾・司徒領中領軍の司馬望・司空の荀顗・車騎将軍の賈充・尚書令の裴秀・尚書僕射の武陔・都護大将軍の郭建・侍中の郭綏・中書監の荀勖・中軍将軍の羊祜らが上奏し、陛下は情を割いて世を治めるべきであり、御府に命じて服を改め、内省で座を改め、太官に膳を復させ、諸事は旧制どおりにすべきと述べた。
  • 武帝は詔して、幽冥を偲び、草土に苴絰を終えられぬ悲しみを述べ、稲を食し錦を衣ることは心を痛めると答え、自分は諸生の家に生まれ礼を伝えて久しいので、この情を天が定めたところから一旦変えることはできないとした。ただ孔子が宰我に答えた言葉を省みるよう述べた。
  • 孚らは重ねて上奏し、聖詔を拝読して感激したが、干戈がまだ収まらず万機が至って重い折、陛下が布衣の礼を履み粗末な食事を続けては神気を損なうことを恐れると訴え、有司に命じて座を改め常に復させることを願った。
  • 武帝はさらに詔し、三年の喪は自古より達礼であり聖人が情に稱いて立てたものだが、神霊は日々遠ざかり訴える術もない、薄情ではあるが旨きを食し美なるを服することに耐えられないとし、繰り返し心を傷めることのないよう述べた。結局、帝はこの礼を貫いて三年の喪を終えた。後の太后の喪でも同様にした。

泰始二年、先帝一周忌の謁陵

  • 泰始二年八月、武帝は詔して、この上旬が先帝(文帝=司馬昭)の崩じた日から一年に当たるので、陵に赴いて哀憤を尽くしたいと述べ、主者に行装を整えさせた。
  • 太宰の安平王司馬孚・尚書令の裴秀・尚書僕射の武陔らが上奏し、陛下は至孝であり哀思限りないが、衰麻はすでに除いたのに疏食を続けて神気を損なっており、なお暑さが残る中で山陵に謁見すれば悲しみで身を痛めるとして、聖情を抑えるよう願った。
  • 帝は詔してなお行くとし、涼しくなれば出発すると述べた。さらに漢の文帝が天下に喪を尽くさせなかったのも帝王の至謙の志であるとし、山陵を見る際に喪服なしでは忍びないとして衰絰を着けて行くとした。
  • 孚らは重ねて上奏し、上古の喪期には定数がなく後世に至って年月の定めができたこと、漢の文帝が時に随って短喪を制したことなどを述べ、すでに衰麻を除いて吉服にある群臣百姓とともに謁陵する以上、衰絰を加えるのは進退に当を得ないとして詔を奉じかねると答えた。
  • 帝は麻布そのものにこだわるのではなく人子の情として喪の物を身に置きたいだけだと述べ、群臣は旧制に従ってよいとした。孚らはさらに、聖人の制作は時宜に従うものであり、陛下がすでに権制に就いて衰麻を除き心喪の礼を行っている以上、いま改めて服を制するのは義に依るところがなく、君が服して臣が服さないのも安んじがたいとして、前の奏のとおりにすべきと述べた。帝は情が及ばないことを患うのみで衣服は問題ではないとしつつ、群臣の勤めに従った。

泰始四年、皇太后の喪

  • 泰始四年、皇太后が崩じた。有司は前代の故事に倣い、倚廬に白練の帳・敷物・素床を設け、塊草を布巾で包み、軺輦・版輿・細犢車にも練で覆いをかけることを上奏したが、帝はこれを聴かず、ただ布で車を覆わせるのみとし、その他の居喪の制は礼文を改めなかった。
  • 有司はさらに、大行皇太后を四月二十五日に安厝するにあたり、故事では虞祭で衰服を著け虞祭が終われば除くとされていることを上奏した。帝は、三年の喪は天下の達礼であり、終身の愛を受けながら数年の報いも尽くさず葬られてすぐ吉に就くのは忍びないと詔した。
  • 有司はなお、世に険易があり道に洿隆があるのは時の異なるゆえであって礼を軽んじるのではないとし、いま戎馬いまだ散ぜず王事が至って多い折、周の康王が翌室に登ってもなお冕を戴いて臨朝した故事や、漢魏以降に葬儀後すぐ服を除く慣行になった経緯を述べ、高宗の制を割いて当時の宜に従うよう願った。
  • 帝はなお三年の喪を尽くすことを望んだが、有司が固く請い、群臣も固く請うたため、帝は久しく流涕したのちにこれを許した。文明皇后崩御および武元楊后崩御では、天下の官吏は三日間の発哀にとどめられた。

穆帝崩後の哀帝の継嗣議論

  • 穆帝が崩じ、哀帝が立った。哀帝は穆帝の従父昆弟にあたり、穆帝の舅の褚歆が上表したが、中書省の答表には朝廷にその儀がないとして、詔して議論させた。
  • 尚書僕射の江虨ら四人は、魯の閔公・僖公の兄弟の例を挙げ、哀帝は帝の嗣となるべきと論じた。衛軍の王述ら二十五人は、成帝は私愛を偏らせず天倫を越えて康帝に授け、康帝は顕宗(成帝)から受命したのだから、社稷の重は既に移っており纂承の序は康皇(康帝)を継ぐべきと論じた。尚書の謝奉ら六人は、継体の正は天属に本づくべきであり人情に照らせば顕宗を継ぐべきと論じた。
  • 詔は王述らの議に従い、顕宗(成帝)を継ぐこととした。

寧康二年、簡文帝の喪と閏月の祥除

  • 寧康二年七月、簡文帝が崩じて再周(二年)となる時にちょうど閏月に当たった。博士の謝攸・孔粲は、魯の襄公二十八年十二月乙未に楚子が卒したとき閏月であるのに十二月と記されたのは前月に附したためであり、喪事は先んじて遠くを慮るべきなので博士の呉商の説に従い閏月をもって祥とすべきと論じた。
  • 尚書僕射の謝安・中領軍の王劭・散騎常侍の鄭襲・右衛将軍の殷康・驍騎将軍の袁宏・散騎侍郎の殷茂・中書郎の車胤・左丞の劉遵・吏部郎の劉耽の意見もこれと同じであった。殷康は、七月を過ぎてまだ八月に及ばないのを逾期とは言えないとし、袁宏は、もし閏十二月であれば年がまだ終わっていないので取れないが、『漢書』が閏を後九月としているのは同体とみなしているためだと述べた。鄭襲は、中宗・粛祖もいずれも閏月に崩じ、祥除の変はいずれも閏の後月を用いたと述べた。
  • 尚書令の王彪之・侍中の王混・中丞の譙王恬・右丞の戴謐らは異なる議論を立てた。彪之は、呉商は中才の小官であり名賢碩儒・公輔重臣で時に準則とされる人物ではなく、閏を取る証拠もないとして反対し、丞相の桓温がかつて『礼』は二十五月で大祥とすると論じたことを引いて、なぜ期を越えて閏を取り二十六月にする必要があるのかと述べた。
  • そこで、閏の扱いについて中軍将軍の桓沖と参詳し、三年の喪は十三月で練、二十五月で畢とするのが『礼』の明文であり、『春秋』の義では閏が年内にあれば略して数えず年外にあれば取らないとし、期忌の重を越えるべきでないとした。己酉の晦日、帝は縞(喪服)を除いて吉に就いた。
  • 徐広はこれを論じて、義理を弁じるのに明確な証拠のない場合は疑いに従うほかなく、礼は疑わしければ重きに従うものであるとし、王彪之は正義を援用して人を屈服させたのではなく名位で人を圧しただけであると批判し、執政がこれに従ったのは行き過ぎであると論じた。

喪中の音楽停止

  • 魏の武帝は正月に崩じたが、魏の文帝はその年の七月に妓楽百戯を設けており、魏は喪をもって楽を廃さなかった。武帝(晋)以来、国に大喪があれば楽を廃し三年に及んだ。
  • 恵帝の太安元年、太子の喪がまだ除かれないうちに元会でも楽を廃した。穆帝の永和年間、中原の山陵がまだ修復されていないとして数年にわたり元会で楽を廃し、この時太后が臨朝しており、后の父の褚裒が薨じたため元会でも楽を廃した。孝武帝の太元六年には皇后王氏の喪のため楽を廃した。孝武帝が崩じた際、太傅録尚書の会稽王道子は、山陵の後は婚嫁を通じさせるが楽を作ることは一期(一年)を限りとして禁ずべきと議した。

太皇太后・皇太后の喪儀

  • 漢の儀礼では、太皇太后・皇太后が崩じると長楽太僕・少府大長秋が喪事を執り行い、三公が制度を奉じ、その他は皆天子の礼のとおりとした。魏晋もまた天子の儀に同じくした。

泰始十年、武元楊皇后の喪と皇太子の服喪

  • 泰始十年、武元楊皇后が崩じ、峻陽陵に遷すにあたり、旧制に従い葬儀が終われば帝および群臣は喪を除いて吉に就くこととなった。先に尚書祠部が博士の張靖の議に従い、皇太子もともに服を釈くべきと上奏していた。博士の陳逵は、今の制度は漢帝の権制に由来し有事に興ったもので礼の正しい姿ではなく、皇太子には国事がないのだから最後まで服すべきと論じた。詔してさらに詳議させた。
  • 尚書の杜預は、古の天子諸侯の三年の喪は初めは斉衰・斬衰を同じくしたが、葬儀が終われば喪服を除いて諒闇に居し、心喪をもって制を終えるのであり士庶と同礼ではなかったと論じた。漢は秦を承け天下に天子のために三年の喪を修めさせたが、漢の文帝は久しく行いがたいと見て古制を知らぬまま祥禫を意で制し葬儀が終われば吉に就くようにした。魏氏はただ葬儀終了をもって節とし、嗣君はみな諒闇の終制を行わなくなった。学者はこれを久しく非難してきたが、経伝を推究せず、王者の三年の喪は衰麻をもって二十五月を終えるべきものと専ら言い、嗣君がこれに従えば天子・群臣はみな喪を除けないことになると述べた。今の皇太子は尊と体を同じくするので、古典に復し卒哭で衰麻を除いて諒闇をもって終制とすべきであり、義において除かないのは不当であり漢文帝にも倣う必要はなく、それこそが喪礼を篤くする所以だと論じた。
  • 尚書僕射の盧欽・尚書の魏舒が杜預に典拠を問うと、預は、「三年の喪は天子より達す」とは天子が期喪を絶ち三年喪のみを有することを言うのであって士庶と同じく衰服三年を居すことを言うのではないとし、后・世子の喪について叔向が「三年の喪二つあり」と称したこと、周公が高宗について「服喪三年」と言わず「諒闇三年」と言ったのは釈服心喪の文であること、叔向が景王の除喪を譏らず宴楽の早きを譏ったのは葬儀後に除服すべきであるのに諒闇の節に違えたことを譏ったのだと説明した。また『春秋』で簡公がまだ葬られていない時に子産が鄭伯を相けて喪を免じて命を聴いたことを君子が得礼としたこと、宰咺が恵公・仲子の賵を持って来た際「弔生不及哀」と伝にあることを挙げ、これらはみな葬儀後に除服し諒闇とする証拠であるとした。『喪服』で諸侯が天子のためにも斬衰とするのを終服三年と言えないことも述べ、上古から将来まで王者の君臣上下がみな衰麻三年を貫いた例はなく、聖人は行われない制を虚しく設けなかったのだと結んだ。盧欽・魏舒はこれに従い、預に議を作らせて上奏した。

杜預らの上奏(皇太子の服喪について)

  • 侍中尚書令司空魯公の賈充、侍中尚書僕射奉車都尉大梁侯の盧欽、尚書新遝伯の山濤、尚書奉車都尉平春侯の胡威、尚書劇陽子の魏舒、尚書堂陽子の石鑒、尚書豊楽亭侯の杜預が連名で上奏した。礼官が博士の張靖らの議(漢の文帝の三十六日の権制の服に倣い皇太子も割情して服を除くべき)と博士の陳逵らの議(三年の喪は人子が自ら尽くすものであり将吏の父母の喪も二十五月の仮寧が与えられているのに皇太子だけ外の衰服を除くのは礼の「情に稱う」に反し除くべきでない)とを参議し、いずれも一端の学に偏り帝者の居喪の通礼を明らかにしていないと批判した。
  • 天子と群臣は哀楽の情は同じでも居る位が異なるので礼も同じくならず、『易』に「上古の世は喪期に数なし」とあり『虞書』に「三載、四海八音を遏密す」とあってその後は文がなく、周公が「殷の高宗、諒闇三年言わず」と称した。子張がこれを疑い孔子に問うと、孔子は「何ぞ必ずしも高宗のみならん、古の人みな然り、君薨ずれば百官己を総べて塚宰に聴くこと三年」と答えた。周の景王が后・世子の喪にあって葬儀後に喪を除いて楽を用いたのを晋の叔向が「三年の喪は貴きも遂に服するのが礼である、王がこれを遂げずとも宴楽を早めたのも非礼である」と譏ったことなどを挙げ、天子の喪は葬儀で衰麻の制を遂げ、葬後に除いて諒闇をもって三年を終え、父の道を三年改めないので百官が塚宰に総べ聴くのだと論じた。喪服を除いた後になお「言わず」と称えられたのは荒政を避けたことを示すのだとした。『礼記』に「三年の喪は天子より達す」「父母の喪は貴賤なく一なり」「端衰喪車皆等しきなし」とあるのはみな天子の衣服の節が凡人と同じであり心喪の礼が三年に終わることを言うのであって服喪三年の文ではないと結び、継体の君が多く荒寧に流れ諒闇の制を廃したことで高宗が往代に名を独占し子張が疑いを致すに至ったのは賢聖が譏った所以であり、天子が喪を服して終えないことを譏ったのではないと述べた。

杜預らの上奏(続き・漢魏の変遷と天子の礼)

  • 秦は書籍を焼き意のままに行い上を亢げ下を抑えた。漢の高祖は草創のまま因襲し、天下に重服を終えさせ朝夕哭臨し寒暑を経て嫁娶飲酒食肉を禁じるなど情に稱わない制を用いた。このため文帝の遺詔は斂を終えればすぐ葬り、葬儀が終われば紅禫の除を制した。高宗の諒闇の義には合わないが古典に近く後嗣に伝えられた。当時は予め陵廟を修めていたため斂葬が浹辰(十二日)の内にできたことでこの制が定まったが、近くは明帝に至って存生中に陵寝を作らず五旬でようやく葬るなど三十六日の制からは程遠く、これは当時の経学が疎略で前聖に師しない病であるとした。魏氏の革命は葬儀終了をもって節とし古典に合うが、諒闇に心を留めず前代に同じく譏られる。泰始の開元より陛下(武帝)が諒闇の礼を追尊し慎終を篤く行い古制に叶い殷宗(高宗)に超絶しているのは張靖らの原本しうるところではないと結んだ。
  • 天子諸侯の礼は具わっていたはずだが、諸侯は自らに害があるとしてその籍を削り、今残るのは『士喪』一篇のみで戴聖の記も雑錯しており正しがたい。天子の位は至尊であり万機の政は至大、群臣は至って広く凡人とは異なる。大行(天子)は葬儀後に廟に祔祭され、疏に因って除かれる。己が除かなければ群臣も敢えて除けないので己を屈して除くのであり、諒闇をもって終制とすれば天下は「我が王の仁」と称える。既に除いて心喪すれば「我が王はなお篤い」と称える。凡そ臣子たる者もこれに励むべきであり、これこそ聖制が移風易俗の本であり高宗が雍熙を致した所以であって衰裳のみのことではないとした。
  • 難ずる者はなお権制を自らの居とし、屈伸厭降を疑い職事をもって断とうとするが、父在れば母のために期、父が卒すれば三年とするのは至親を至尊に屈するの義であり、出母の喪では至親であっても長子は制を得ず体尊の義に従うのであり、皇太子が国事の有無に関わらず制を貫くべき理を『礼』の諸子の職や『伝』の「君行けば守る、守れば従う、従うを撫軍と曰い守るを監国と曰う」等を引いて論じた。漢の文帝の喪で紅禫が終われば孝景帝はすぐ未央宮で吉に就き、薄后・竇后が別宮で斉斬(喪服)を続けたことはなかったのと同様、皇太子も至尊に配貳する身であるから古礼と時制を兼ねて屈除し諸下を寛にすべきと論じた。
  • 君子の礼には直行するものと曲げて殺すもの、経として等しくするものと順って去るものがあり、心中にとどめるものである。皇太子の至孝は自然より発するもので、大行の柩を送っては往いて反らず、想像し彳徨するであろうが、もし諒闇に従わなければ東宮の臣僕も服を釈くことができず、永福官属も独り衰麻に服さねばならなくなり継続が困難になる。今の将吏は二十五月の仮寧を蒙るが大臣にはその制もない。昔、翟方進は漢の丞相の身でありながら喪三十六日で国典を越えなかった例があり、まして皇太子はなおさらであるとし、皇太子は前奏のとおり服を除いて諒闇に終制すべきと結んだ。
  • こうして太子は厭降の議に従い国制どおり衰麻を除いて諒闇に終制した。

干宝の論(王毖の二妻問題の後日談として段暢に命じた考証)

  • 当時、内外はにわかに杜預の異議を聞いて多くこれを怪しんだ。ある者は礼に違えて時に合わせたと言った。杜預自身は弁明せず、博士の段暢に典籍を博く採らせて証拠を集めさせ大義を明らかにし将来に垂示させようとした。段暢は預の旨を承け書伝の旧文を撰集し実事の成言を条にして定証とし旨趣を弘めた。伝記に今の議と同じものがあればそれも列挙した。文が多いため省略する。

楊悼皇后の喪服(懐帝の養母)

  • 武帝の楊悼皇后は懐帝を養育しており、后が難に遭った時、懐帝はまだ幼かった。即位に及んで中詔で后の恩愛を述べた。后の祖載(葬送)にあたり、群官は帝が追って喪服を制すべきかを議論し、ある者は庶母が己を慈しんだのだから礼により小功五月とすべきとし、ある者は慈母の服は母の服の斉衰に同じとすべきと言い議は分かれた。閭丘沖は、楊后が聖上を母養したのは曲情によるものであり、今恩礼をもって追崇しても世祖廟には配さない、王者に慈養の服はないので祖載の日に三朝だけ素服して発哀すべきと論じ、これに従った。

康帝以降の皇族の喪服の諸事例

  • 康帝の建元元年正月晦、成恭杜皇后の周忌にあたり、有司は至尊は期年で服を改めるべきと上奏した。帝は「君親は名教の重きものであり権制は近代に出たものにすぎない」と詔し、素服を旧のままとした。これは漢魏の典には無いことであった。
  • 興寧元年、哀帝の章皇太妃が薨じ、帝は重服を望んだ。江虨は「先王の制礼では緦服にとどめるべき」と啓し、帝が期に降ろすことを欲すると虨はさらに「私情を厭屈するのは上、祖考を厳するためである」と啓した。結局、緦麻三月に制した。
  • 孝武帝の甯康年間、崇徳太后褚氏が崩じた。太后は帝にとって従嫂にあたり服の疑いがあった。博士の徐藻は、父に資して君に事えるのは敬を同じくすることであり、夫が父道に属せば妻も母道に属す、夫が君道に属せば妻も后道に属すとして、后への服は資母の義によるべきとし、上(孝武帝)が康帝・穆帝・哀帝および靖后の祀を奉じ敬を天のごとく致している以上、斉衰期を服すべきと論じ、帝は期服を制した。
  • 隆安四年、孝武太皇太后李氏が崩じ、服が疑われた。尚書左僕射の何澄・右僕射の王雅・尚書の車胤・孔安国・祠部郎の徐広は、太皇太后の名位は允正であり体は皇極に同じいとして、『春秋』の「母は子を以て貴し」の義や成風・文公の三年喪の例を引き、祖母のための斉衰期に準ずべきとし、永安皇后には服なくただ挙哀するのみで百官も一期とすべきとした。詔してこれを可とした。
  • 孝武帝の太元十五年、淑媛陳氏が卒した。皇太子の生母であった。有司は母は子を以て貴しとして淑媛を夫人に追贈し家令を置いて喪事を典らせた。太子前衛率の徐邈は、『喪服伝』に「尊者と体を同じくすれば私親には服さない」とあり君父が服さなければ子も敢えて服さない、王公の妾の子はその生母に練冠麻衣で服し葬儀が終われば除くのが常であり五服の常には非ず無服と称すべきと論じ、これに従った。
  • 太元二十一年、孝武帝が崩じ、孝武太后は三年の服を制した。

恵帝太安元年、皇太孫尚の喪

  • 恵帝の太安元年三月、皇太孫尚が薨じた。有司は御服を斉衰期とすべきと上奏し、詔して広く議論させた。散騎常侍の謝衡は、諸侯の太子は誓ったか否かで尊卑が異なり、『喪服』で嫡子の長殤とするのは未誓の場合であり、すでに誓えば殤とならないと論じた。
  • 中書令の卞粋は、太子は生まれながらすでに尊重であり命誓を待たない、もし衡の議のように誓えば殤にならないなら無服の子は斬衰三年、未誓で殤になれば十九歳でも大功九月となるが、誓・未誓の差は微小で斬衰・大功の軽重の差は大きい、注に「諸侯は嫡殤を降さない」とあるのを嫌って大功を重い嫡の服とするなら誓っていても三年の理は無くなると論じ、男は社稷を衛り女は婦道を奉ずるに足る年齢であれば殤ではなく、殤とみなすべき者に対しても至尊が無服の殤として成人の制を行うことなど前例がないと述べた。博士の蔡克は粋の議に同じた。秘書監の摯虞は、太子は生まれた時から成人の礼で挙げられるので殤の理は除かれ、太孫も君を体し重を伝える位で服すのであって年齢の問題ではなく、天子には服殤の義がなく期を絶っているためだと論じ、これに従った。

喪中の佩用・鹵簿・輓歌をめぐる新礼の議論

  • 魏氏の故事では国に大喪があれば群臣は凶服し帛の綬囊・布の劍衣を用いた。新礼では『伝』の「喪を去れば佩びざる所なし」により喪中は佩なしとし斉斬の喪に劍綬を佩びない制に改めた。摯虞は、『周礼』の武賁氏は士大夫の職であり兵をもって王宮を守り、国に喪故があれば衰葛して戈楯を執り門を守り葬には車に従って哭す、成王が崩じた際太保が諸大夫に干戈で内外を警備させた例を挙げ、喪故の際はむしろ宿衛の防備を重んじるものであり「喪を去れば佩なし」は服飾のことであって防禦の用ではないとし、新礼は布衣・劍を旧のままとしその他は新制のとおりとすべきと論じ、詔してこれに従った。
  • 漢魏の故事では葬送の際、吉凶の鹵簿を設けいずれも鼓吹を用いた。新礼では礼に吉駕導従の文がなく臣子は衰麻を釈いて玄黄を服すべきでないとして吉駕鹵簿を除き、凶事に楽なく八音を遏密するので凶服の鼓吹も除くとした。摯虞は、葬に祥車曠左(今の容車)があること、既葬して日中に虞に反り神を迎えて還ること、『春秋伝』で鄭の公孫蠆の卒に天子が大路を追賜し行かせたこと、『士喪礼』の稿車乗車が生時の服を載せることなどを挙げ、これらは柩を載せるだけでなく吉駕の明文でもあるとし、既に吉駕を設ける以上は導従があって平生の容を象り死を致さぬ義を明らかにすべきで、臣子が衰麻を身のために釈くことはできなくとも君父のためなら可能であると『顧命』篇を引いて論じ、新礼は吉服導従を旧のままとし凶服の鼓吹のみ除くべきとして、詔してこれに従った。
  • 漢魏の故事では大喪および大臣の喪で紼を執る者が輓歌を歌った。新礼では輓歌は漢の武帝の役人の労歌に由来し声が哀切であるため送終の礼となったが、音曲は摧愴で経典の制ではなく銜枚の義に違うとして、号慕の折に歌を名とすべきでないとし除いて輓歌を用いないとした。摯虞は、輓歌は倡和により摧愴の声となるもので銜枚も哀を全うする所以であり衆を感じさせる点は同じであり、経典に載らずとも歴代の故事であり『詩』にも「君子作歌、惟以告哀」とあるとして、新礼は旧のままとすべきと論じ、詔してこれに従った。

咸寧年間の宗室の服喪をめぐる議論

  • 咸寧二年、安平穆王が嗣なく薨じ、母弟の司馬敦を献王(安平献王)の後継とした。太常に何服とすべきか問うたところ、博士の張靖は魯の僖公が閔公の後を継いだ例に倣い三年とすべきと答えた。尚書は靖に、穆王は敦を臣としておらず敦も穆王を継いだのではないので閔僖の例とは異なると詰問した。孫毓・宋昌は、穆王が国に赴かず敦も諸侯に仕えていないので三年に当たらないとし、義により敦は本服(母弟としての服)を一期で除き穆王の喪祭を三年主宰した後に献王を吉祭すべきとした。
  • 孫毓はさらに、『礼』で君の子孫が諸兄を臣とするのは国に臨むためであり、諸侯のために斬衰を服すのは隣国の臣が隣国の君に対する義であるが、穆王は国に赴かず敦も諸侯に仕えていないので閔僖とは異なり尚書の見解通りだとした。ただし喪主がない以上、敦は詔を奉じて国を継ぎ重を受けて喪を主宰し祭祀を典るべきであり、『礼』の「大功者が喪の主人となり三年の者があれば必ずその者のために再祭する」との文、鄭玄注の「死者の従父昆弟が喪主となる場合を言う」「三年の者とは妻や幼い子を言う」「再祭とは大祥小祥を言う」を引き、穆妃および国臣は礼によりみな三年の服にあたるので敦が大小両祥の祭を主宰すべきであり、哀楽は相雑らず吉凶は相干さないので敦が穆王の喪を主宰する間は国制が除かれるまで己の本親の服を除いて献王を吉祭することはできないと結んだ。

咸寧四年以降、宗室継嗣者の服喪をめぐる先例

  • 咸寧四年、陳留国が上表し、燕公は王の父にあたるが王は出でて明帝の祀を奉じており王にとっては従父にあたるとして、有司は期服とすべきと上奏し親疏尊卑によって降すべきでないとした。帝は、王は魏氏を奉じ承ける所が重いので私親のために服することはできないと詔した。
  • 穆帝の時、東海国が言うには、哀王が薨じて逾年ののち嗣王が来て継いだので追服はせず群臣はすでに吉に反っており国妃も同じく喪を除くべきとした。帝は、朝廷が権制に従うのは王事によって奪われたためであり礼を変えたのではない、婦人は伝重の義が大きいので権制に従えば義の託す所がなくなると詔した。こうして国妃は三年の礼を終えた。
  • 孫盛はこれについて、三年の礼を廃するのは偷薄の源を開くもので漢魏の大きな過ちであり、大夫は王事によって奪われてもよいが婦人が本服を終えるのを認めれば吉凶の儀が宮寝に雑陳し彩素の制が内外で乖異することになり情と礼のいずれにも背き哀楽の所を失うのではないかと論じた。

庶子が生母のために服す慣行への批判(車胤の上言)

  • 太元十七年、太常の車胤が上言し、『喪服礼経』では庶子は母のために緦麻三月とし、『伝』に「なぜ緦麻か、尊者と体を同じくする以上私親に服さないため」とあるのが経伝の明文であり聖賢の格言であるのに、近頃は開国の公侯から卿士に至るまで庶子が後継となると私情を恣にし庶母への服を嫡母と同じくしていると批判した。これは末俗の弊であり情に溺れて教えを傷つけるものであり、正さなければ流れて返らなくなると論じた。
  • 尊尊親尊は礼の大本であるが尊に親を厭するのも古来のことであり、『礼記』に「父の後を為す者は出母に服なし、祭らないためである」とあり、天子は父母の喪でもまだ葬らないうちに紼を越えて天地社稷を祭る例があるのはみな私をもって尊を廃さない厳と敬によるものだとした。今、祖宗の重を承けながら庶母の私によって烝嘗の事を廃し五廟の祀が一妾の終わりによって闕けるのは情理に照らして最大の失であり、世を挙げて然りとし誰もこれを裁貶しない、心では同じくないが事は敢えて異にできず、正礼が頽れ非が習俗となっている、『国風』が古を思い『小雅』が悲歎した所以であるとし、いま九服がようやく安まり王化が新たになった折、礼訓を明らかにして風俗を一にすべきであり台省に経典を考修させ王度を明らかにするよう請うたが、返答はなかった。
  • 太元十八年、胤は再び上言し、昨年の上言以来告報がないことを述べ、升平四年の故太宰武陵王が生母の喪で斉衰三年を求めた際に楽安王の故事に依り大功九月に制した詔、興寧三年の故梁王の生母の喪でも三年を求めたが庚子詔書で太宰の故事に依り同じく大功とされた例を挙げ、周礼によれば緦麻三月、晋制によれば大功九月であり、いずれにも居廬三年の文はないのに近年は各々私情を通じ互いに擬襲して習俗となりつつあると批判した。尊尊親親は人の本、王化の由るところであり、先王は郊社の敬・越紼の礼・宗廟の厳・庶子の服の厭を設けて人文を経緯し天下を化成したのであり、家事を王道に屈し私恩を祖宗に厭するのは上が下に行い父が子に行うべきことであり、この心が替われば君臣の礼も虧けると論じ、台に参詳を請うた。
  • 尚書は、庶子が尊者と体を同じくして私親に服さないのは尊祖敬宗の義であり、この礼が近頃廃れているので革正すべきとして、車胤の上言に従い樂安王の大功の例を正とすべきと奏し、詔してこれを可とした。

大臣の喪への対応

  • 『礼』では、王は三公六卿のために錫衰、大夫士のために疑衰を服し首に弁絰をつける。天子諸侯はみな貴臣貴妾のために三月服する。漢では大臣のための服制は伝わっていない。漢の明帝の時、東海恭王が薨じた際、帝は津門亭に出て発哀した。
  • 武帝の咸寧二年十一月、詔して「諸王公大臣が薨じ三朝発哀すべき者は逾月まで楽を挙げず、一朝発哀する者は三日楽を挙げない」とした。
  • 元帝の姨、広昌郷君の喪でまだ葬られていない時、中丞の熊遠は、『礼』に「君は卿大夫に対し葬までは肉を食さず卒哭までは楽を挙げない」とあるのは惻隠の心から吉事を行うに忍びないためであると上表し、尚書からの符で冬至後二日の小会があると聞き、広昌郷君の喪殯の日に聖恩が哀悼するのであれば冬至は群下が賀を奉ずるだけにして小会は行うべきでないと述べた。詔してこの表を賀循に示すと、賀循は『礼記』雑記の文を引いて熊遠の答は古義に合うとしつつ、咸寧の詔書は経典に合わずとも時に随って立てられた定制であり群下が改めて論ずるべきものではないと答えた。
  • 升平元年、帝の姑の廬陵公主がまだ葬られていない時、太常に冬至の小会で楽を作るべきか問われた。博士の胡訥は、君は卿大夫に対し卒哭までは楽を挙げないもので公主は骨肉の親であるから楽は闕くべきと論じた。太常の王彪之は、武帝の詔に三朝挙哀し三旬で楽を挙げる、一朝挙哀なら三日で楽を挙げるとあり、泰始十年の長楽長公主の薨・太康七年の扶風王駿の薨でも武帝は三日挙哀しただけであった例を挙げ、中興以降もこの制を改めていないので小会では楽を作るべきとした。両説の帰結は定まらなかった。

「公為所寓」条の存廃と諸侯の服喪範囲

  • 『喪服記』に「公、寓する所の為に、斉衰三月」とある。新礼では今このような事情がないとして削除しようとしたが、摯虞は、『周礼』は刑措(刑罰を用いない)の時に作られながら荒政十二を著しており、礼は物に備えて待つもので時世が衰えたからといって盛典を除いたり世が隆んになったからといって衰教を闕いたりしないものであると論じ、かつて王司徒が守りを失って播越し自ら寄公と称し、当時天下にも同様の例が多くあったことを挙げ、この条は旧経のままとすべきとして、詔してこれに従った。
  • 漢魏の故事には五等諸侯の制がなく、公卿朝士の服喪は親疎によりその親のとおりとしていた。新礼では、王公五等諸侯で成国して卿を置く者および朝廷の公孤の爵にある者は傍親のためには期を絶ち、傍親が彼らのために服す時は斬衰とし、卿校で大夫の位にある者は緦を絶つとした。摯虞は、古の諸侯は国に君臨し父兄を臣としたが今の諸侯は古と同じではなく、尊がまだ全うされないうちに期を絶つ制に従わせ傍親に斬衰の重服をさせるべきでないとし、諸侯がそうである以上、公孤の爵も旧のままとすべきとした。かつて魏の武帝が建安中に既に上表し漢朝が古に依って制を立てようとしたが事情が古と異なりいずれも施行されず、施行されたものは魏の科に著されている、晋はこれを採って令に著しているので新礼は旧のままとすべきと論じ、詔してこれに従った。

弟子が師のために服す新礼の廃止

  • 『喪服』には弟子が師のために服す制はなかったが、新礼では弟子は師のために斉衰三月とした。摯虞は、古来師のための服制はなく孔子の喪の際も門人はどう服すべきか疑い、子貢が「昔、夫子は顔回の喪に子のように喪して服はなかった、夫子の喪も父のように喪して服なくしよう」と言い心喪三年を行ったこと、群居では入れば絰し出れば絰しなかったのがいわゆる弔服加麻であることを挙げた。先聖の礼は従いやすく伝えやすいことを旨とし、師弟の義は重くとも服制が著されなかったのは歴代これに従い欠けたものとされなかったためであり、師を尋ねる者は彌高を得と為すゆえ幾度も師を変えても嫌われず、業を修める者は日新を益と為すゆえ旧を舎てても疑われないと論じた。孔子も「三人行けば必ず我が師あり」と言い子貢も「何ぞ常師あらんや」と言った。浅学の師や暫くの師にまで服すことはできず、義に軽重があれば服にも廃興が生じ臧否・是非の争いや愛悪の相攻めが起こると懸念し、新礼は旧のとおり服なしとすべきと論じ、詔してこれに従った。

天子諸侯の葬礼と魏氏の終制

  • 古の天子諸侯の葬礼はほぼ備わっていたが、漢代に多く変革され、魏晋以降も世々改変があったが大体は漢の制に同じであった。魏の武帝は礼をもって送終の制を襲称する数が繁多で益がなく世俗はさらにこれを過ごしていたため、あらかじめ送終の衣服四篋を自ら制し上に季節を題識し、日を諱まず時に随って斂めることとし、金珥珠玉銅鉄の物は一切送らせなかった。文帝はこれを遵奉し増加しなかった。魏の受禅にあたり金璽を刻み尊号を追加したが埏(墓道)を開かず石室を作り璽を埏の首に蔵し、陵中に金銀の類がないことを示した。漢の礼では明器が甚だ多かったがこれ以降はみな省かれた。
  • 魏の文帝は黄初三年、自ら終制を作り、礼では国君は即位すれば椑(棺)を作り存生中から亡きに備えるとし、寿陵は山に因って体とし封樹なく寝殿を立てず園邑を造らず神道を通じないこととした。葬とは蔵すことであり人に見せないためであり、礼に墓祭なきは存亡を汚さないためであるとし、王に随わない皇后・貴人以下は終没すれば澗西に葬ることを既に定めていたとした。この詔は宗廟に蔵し尚書・秘書・三府に副えて保管された。明帝もこれを遵奉し、性は奢侈を好んだが陵墓の制を大きくすることはなかった。

宣帝以降の終制と江左(東晋)の倹約

  • 宣帝(司馬懿)はあらかじめ首陽山に土蔵を作り塡めず樹を植えず『顧命終制』を作り、時服のまま斂め明器を設けなかった。景帝・文帝はいずれも謹んでその命を奉じ加えるところがなかった。景帝が崩じた際の喪事制度も宣帝の故事に依った。
  • 武帝の泰始四年、文明王皇后が崩じ合葬するにあたり崇陽陵を開き太尉の司馬望に祭を奉じさせ、皇帝の密璽綬を便房の神坐に進めた。魏氏の金璽よりもさらに倹約であった。江左の初め、元帝・明帝は倹約を尊び、百度がまだ草創の折であったため山陵の奉終も省約であった。成帝の咸康七年、皇后杜氏が崩じた際、詔して外官は五日に一度入って臨み内官は朝一度入るだけとし、葬儀と虞祭が終われば止めるとした。
  • 有司が大行皇后の陵所に凶門柏歴の門(顕陽端門と号す)を設けることを奏したが、帝は「門は所定のとおりでよいが凶門柏歴は大変な煩費であるので停めよ」と詔した。蔡謨の説によれば、始死の祭に二つの瓦器を盛り木に繋ぎ葦席で包んで庭の南寄りに置くのを「重」と言い、今の凶門はその象であるという。礼では虞祭の後に主を作るが、まだ葬られておらず主がないので重をもってこれに当てるのだという。范堅はさらに、凶門は礼ではなく礼にある「懸重」が凶門に似た形であったのが後人により門外に出されて喪を表す俗になったのであり、薄帳は古の弔幕の類であると述べた。
  • この時、帝はさらに、地下の重壤に無用の飾りを施す必要はなく陵中はただ清掃するのみでよいと詔した。有司はまた旧により公卿以下六品の子弟六十人を選んで挽郎とすることを奏したが、帝はこれも停めた。孝武帝の太元四年九月、皇后王氏が崩じた際、帝は「終事はただ倹速に従うべし」と詔し、また「遠近から山陵使を遣わしてはならない」と詔した。有司が挽郎二十四人を選ぶことを奏したが、これも停めた。

墓祭・謁陵の沿革

  • 古に墓祭の礼はなかった。漢は秦を承け、みな園寝を有した。正月上丁、南郊で祭が終われば次に北郊・明堂・高廟・世祖廟を祭る、これを五供と言った。
  • 魏の武帝が高陵に葬られると、有司は漢に依り陵上に祭殿を立てた。文帝は黄初三年、先帝は節倹を躬行し遺詔で省約を命じた、子は父を述べるを孝とし臣は事を継ぐを忠とするとし、古に墓祭なくみな廟で行ったとして高陵の上殿をみな毀壊させ車馬を厩に還し衣服を府に蔵させ、先帝の倹徳の志に従わせた。文帝は自ら終制を作り「寿陵に寝殿を立てず園邑を造らず」と定めたため、以後園邑・寝殿は絶えた。斉王(曹芳)の在位九年、初めて一度高平陵に謁したが曹爽が誅され、その後は廃れ魏の代を通じて終わった。
  • 宣帝は遺詔で「子弟群官はみな陵に謁してはならない」とし、景帝・文帝はこの旨に従った。武帝に至っても崇陽陵に再度謁し峻平陵に一度謁したのみで高原陵にはついに謁さず、恵帝に至って完全に止んだ。
  • 江左に至り、元帝が崩じて後、諸公が初めて謁陵辞告の事を行うようになった。これは眷が友執に同じいことから情に率って行われたもので洛京の旧に非ざるものであった。成帝の時、中宮も年々陵を拝したが議者は非礼としこれを止め永制とした。穆帝の時、褚太后が臨朝して再び拝陵したが帝が幼かったためであった。孝武帝が崩じた際、驃騎将軍の司馬道子は、今は権制で服を釈いているが朔望諸節には陵所に情を展べるべきであり一周を限りとすべきと述べた。こうして陵に至って単衣に着替える等、煩瀆で準則がなく礼意に合わなかった。
  • 安帝の元興元年、尚書左僕射の桓謙が上奏し、百僚の拝陵は中興に始まったもので晋の旧典ではなく積習が近法となったにすぎない、武皇帝の詔では人主・諸王にも陵を拝させなかったのだから百僚はなおさら遵奉すべきと述べ、これが施行された。義熙の初めに至り、また江左の旧に復した。

太康七年、大臣の終喪三年制の始まり

  • 太康七年、大鴻臚の鄭黙の母が喪となり、葬儀が終わっても旧により職務に復すべきところ固辞して起たなかったため、初めて大臣が喪を三年終えることを得る制が定められた。しかし元康年間、陳準・傅咸らはなお権によって奪われ礼を終えることができず、それ以降これが成比(先例)とされた。

王昌の二母問題(前史)

  • 太康元年、東平王楙が上言した。相の王昌の父の毖は、もと長沙に居て妻子があったが、漢末に中国に使いした際に呉の叛乱に遭い、そのまま魏に仕えて黄門郎となり、前妻子とは生死が隔絶したまま、改めて昌の母を娶った。今、江表が一統されたので昌は前母の久しい喪を聞き、疾(喪に服すべきか)を言って平議を求めた。
  • 守博士の謝衡は、二妻があるのは故あってのことであり道に害はなく互いに服すべきと議した。守博士の許猛は、地が絶えて前母の制がないのは、前にいて没していないのに絶えたとみなすためであり前母が在っても服すべきでないとした。段暢・秦秀・騶沖は猛に同じた。散騎常侍の劉智安は、礼は常事のために制せられ非常のために設けられたものではなく、亡父母の生死を知らない場合は礼に著されていないので、平生相見えなければ加隆を去り期をもって断とすべきと論じた。
  • 都令史の虞溥は、礼は嫡を二つとしないのは正を重んじるためで単に妒忌を防ぐだけではないとし、「一たび之と斉たれば終身改めず」とあり変事に遭って二嫡となる例はない、二つとしないのなら昌の父が再婚した時が前妻の義絶の日にあたり、もし昌の父が存命で二妻が並び在れば二嫡が堂を専らにし両婦が祭を執ることはあり得ないと論じた。秦秀は、二妾の子でも父が命じて相い慈養させれば三年の恩があり同じく所生とみなされる、昌の父がなぜ二嫡にこの礼を命じなかったのか、父の執友でさえ子の礼があるのに兄の母に事えるのはなおさらだと論じた。許猛はさらに、夫が少なく婦が稚ければ改嫁を許されないもので、今妻が在るのに改めて聘え夫が存命なのに妻が改醮するのは絶ではないかと論じた。
  • 侍中領博士の張惲は、昔舜が告げずに娶ったため婚礼が欠けており『堯典』が二女を釐降させたことを記して嫡媵を区別しなかったこと、黄昌が新妻に正室を避けさせた例を挙げ、昌はそれぞれの母に服すべきと論じた。黄門侍郎の崔諒・荀悝、中書監の荀勖、領中書令の和嶠、侍郎の夏侯湛はみな虞溥の議に同じた。侍郎の山雄、兼侍郎著作の陳寿は、虞溥の「一と斉する」の駁は大夫にあたらない、礼に二嫡なしというのは並べられないという意味に過ぎず、昌の父と二母がいずれも今存命であれば前母は廃されておらず明徴があるとし、昌の兄に服母の理があれば昌にも服すべきに疑いはないと論じた。
  • 賊曹属の卞粋は、昌の父が前妻の生死不明な時に後妻を娶ったのであれば前妻は死んだとみなされ義は絶えないが、生きて再会し後妻を去らなければ後妻は妾として前志に列するに過ぎないとし、死して合わせ祔葬されるのであれば並嫡の実はないと論じた。倉曹属の衛恒は、嫡を二つにできないというのは旧を奪い新を与え母を違え子に従うことで礼律の許さぬところであるとし、絶と死を同じとみなすのが実情に近いとして前母への服を復さないとした。主簿の劉卞は、毖が南では邦族であり北では羈旅であることを名分から論じ、前妻を元妃、後婦を継室とすべきで王路が通じた後に今の妻を逐い嫡子を廃すべきではないとし、趙姫・原同の例を引いて昌の対応を論じた。

王昌の二母問題(朝議の帰結)

  • 司空の斉王攸は、『礼記』の「祖父母・諸父昆弟に生まれながら会わず、父が追って喪服を稅しても己はそうしない」との文を引き、父が他故で異域に子を生み親が存命中に会えなかった場合は父が追って服しても子は稅さないのであり、まして前母は所生の親でもなく往来もなく恩が隔絶しているのだから追服させるのは情に稱わないとして、昌は追服すべきでないと論じた。司徒の李胤は、毖が黄門侍郎の任にあった時江南はすでに叛いていたとして石厚の大義滅親の例を引き、毖の義において妻とすることはできないと論じた。大司馬の司馬騫は議さず、太尉の賈充、撫軍大将軍の汝南王亮はみな主者(尚書の議)に従った。
  • 虞溥はさらに卞粋に反駁し、喪は情に従うが服は親に非ざるものに及ぼさないこと、死とは終わりであり絶ちる道理がないこと、分居しているだけなら離否は人によるが夫婦は判合を義とし今は土地が隔たり人も異なるので配合の理は絶えていること、彼(前妻)がすでに再婚し己に代えたのだから死んだ婦と同一視できないこと、伯夷が孤竹を譲った故事は後王の法にはできないことなどを述べ、すでに嫡後(正妻)の服を服しながら妾とも言い生きては貶められ死しては同じ祔葬になるのは、妻が一途に夫に事えるのに夫が貳心を懐いて己に接するに等しく、偽薄の風を開き貞信の教えを傷つけると批判した。今の昌の二母は土地が隔たっているだけで同時に並存しているのであり前母後母と呼べるのかとも問い、もし昌の母が先に亡くなり嫡として合葬され前母が絶えていなければ、遠く喪の知らせが届いた際にどう服すべきかと問うた。
  • 尚書八座は、例えば父が敦煌太守として在り子が後に洛陽に任じている場合、父が妻を娶っても子はそれを知らないことすらあり得るが、死亡すれば服さないわけにいかない、鞠養の恩を受けた者への情と会ったことのない者への制とは戚念の心は異なっても服す点では一つであるとし、両后が匹嫡であるのは非礼だが非常の事に常礼で処するわけにもいかないと述べた。昔、子思が出母を廟で哭し、門人に「庶氏の女が死んだのになぜ孔氏の廟で哭するのか」と咎められ、子思が恐れて他室で哭した故事を引き、もし昌が服を制さなければ父祖に告げてその前母の屍を掘り他の地に移さねばならなくなる(できなければ罪人となる)と述べた。婦人が夫の族に牽かれつつなお尊ぶものがあるという趙姫の例、および昌の二母がすでにともに終亡している状況を踏まえ、昌の前母は叔隗に準ずべきとし、昌が生まれる前に前母が亡くなっていたなら服すべきでないが、母が存命中に生まれたのなら礼どおり三年の名服を服すべきとして、これを正定の文とし太常に下し楙に奉行させた。
  • 制(詔)は、非常の事は旧典に準じて断を立てるべきであり、議論で趙姫・叔隗を引いたのはほぼ正しいが、狄と晋が和したから姫氏が叔隗を迎えて之を下座に置けたのであり、呉との間が隔絶していた毖と前妻とは始終永絶していたとし、義において二嫡がないのであれば趙衰は隗氏を専制できたはずである、昌は人の子として擅にその母を替えることはできない、毖の二妻はいずれも絶亡しているので昌はやはり後母の子にすぎず、昌は服を制すべきでないとした。

干宝の論(王昌の二母問題への総括)

  • 太興の初め、著作郎の干宝がこれを論じ、礼には経・変・権があり王毖の事は已むを得ずして為されたものであり始終の義や常の文で責めることはできないとした。同産の子には嫡側の別はなく先に生まれた者を兄とし、諸侯は同爵でも等級の差はなく先に封じられた者を長とするように、二妻が入ったのに貴賤の礼がないのなら先後をもって秩とすべきで、これは順序の義であるとした。生きて同室にいる例は少なくとも死して同廟にいる例は多く、神位には上下があるのが常であり、『春秋』が趙姫を賢としたのも礼の変に遭って礼情を得たためであるとした。
  • 二母は本来他人であり名によって親となったが恩は時によって異なり敬は生に及ばず愛は喪に及ばないのに追服の道理があろうかとし、張惲・劉卞は先後の節を得ており斉王(攸)・衛恒は服絶の制に通じているのでこれで断とすべきとした。朝廷はこれに際し趙姫の例で導き詔命で斉え、先妻には含容の徳を、後妻には卑譲の道を、室人には長少の序を弘めさせ、百姓に変礼の中庸を見せるべきであるとし、古の王者が師友の礼をもって臣に接しても臣が自尊しなかった例のように、先妻が一体をもって後妻に接し後妻が抗わなければ子孫も互いに服し合う礼の善きものになるとし、王昌兄弟が相い得た日には二母を祫祭しその礼饋を等しくし先後を序し左右に配し兄弟粛雍として交互に献酬すれば、上は先父の志を恕し中は二母の徳を高くし下は兄弟の好みを斉えることになり、義風を王教に弘め慈譲を急難に洽すことになるのではないかと結んだ。

二嫡・二妻をめぐるその他の先例

  • この時、沛国の劉仲武は先に毌丘氏を娶り正舒・正則の二子を生んだが、毌丘倹の反乱・敗死により妻を出し王氏を娶り陶を生んだ。仲武は毌丘氏のために別に舎を設けたが絶ちを告げなかった。毌丘氏が卒すると正舒は祔葬を求めたが陶はこれを許さず、舒は喪服を釈かず上下に訴え泣血露骨し縗裳綴絡のまま数十年も許されず死に至った。
  • 呉国の朱某は妻の陳氏を娶り子の東伯を生んだ。晋に入って晋から某氏を賜り子の綏伯を生んだ。太康年間、某氏がすでに亡くなり綏伯が母を伴って邦族に帰る際、兄弟は互いに敬愛の道をもって接し二母は先後の序を篤くし雍雍として人に間隙がなかった。二母が終わる際、二子は互いに服し合い、君子はこれを賢とした。
  • 安豊太守の程諒は先に妻がありながら後にまた娶り二嫡を立てた。前妻が亡くなり後妻の子の勲は服を疑った。中書令の張華は仮定の問いを作り、甲が乙を妻に娶り後に丙をも娶りながら乙のあることを匿し家では二嫡のごとく貴賤の差なく過ごしたところ、乙が亡くなると丙の子は何を服すべきかを問い、本来並立し嫡庶の区別がないのだから二嫡が正しくないとしてもその失は先人にあり人子が私に親を裁つことはできない、庶母の服とするのも成り立たない、進退窮まると述べた。
  • 太傅の鄭沖は、甲が家において礼を失い二嫡が並び在るのは人子の正しうるところではなく、乙丙の子はいずれも三年を服すべきで礼は疑わしければ重きに従うと論じた。車騎の賈充、侍中少傅の任愷もおおむね鄭沖に同じた。太尉の荀顗は、『春秋』が「后を並べ嫡に匹する」ことを咎めたのは古の明典であり、犯礼の二妻を並立させ尊卑を分けずその失を遂げることはできないとし、礼で断ずるなら先に至った者を嫡とし後に至った者を庶とすべきとし、丙の子は嫡母として乙に服し乙の子は庶母として丙に事えるべきとし、屈建が芰(ひし)を去った故事を礼に違えて礼を得た例として引き、これは丙の子がその親を抑えるのではなく礼の先後貴賤順序の義を奉じることであると論じた。中書監の荀勖は、郷里の鄭子群が陳司空の従妹を娶った後、呂布の乱で生死を知れなくなり郷里の蔡氏の女を娶り、徐州平定後に陳氏が戻って二妃が並存した例を挙げ、蔡氏の子の元釁が陳氏に嫡母の服を服し陳公に従舅の礼で事えたこと、族兄の宗伯がこれを親を抑えるものと責めたが郷里の先達は元釁を合宜としたことを紹介した。

温嶠の不拝と、寇難で不明となった二親への服喪

  • 建武元年、温嶠は散騎侍郎に任じられたが、母が寇に遭って亡くなった際に殯葬に臨めなかったため改葬を営もうとして固辞し拝命しなかった。元帝は詔し、嶠が拝さないのは改卜葬送がまだできていないためかと問い、古人の三年の制は情の尽きるところではなく存亡に断があり死をもって生を傷つけないためであり要絰のまま金革の役に服すのも王事の緩急に随うのみであるとし、いま桀逆(賊)がまだ滅びず平陽への道も断たれ迎えの諸軍も進めない状況で嶠一身のためにどうして私艱を済ませられようか、道理に閡られて自ら疑い王命に服さないでよいのかと問い、三司八座・門下三省・内外群臣に共通の議を命じ自ら裁断するとした。
  • 太宰の西陽王羕、司徒臨潁公の組、驃騎将軍即丘子の導、侍中の紀瞻、尚書の周顗、散騎常侍の荀邃らは、伍員が弓を挟んで楚を去り呉の行人として楚を謀った例は報仇に志して身を滅ぼさなかったものであり、温嶠が河朔で難に遭い長く干戈を尋ね讎を刷う志で万里身を投じて朝廷に帰赴したのも時に因り力を竭くし王威に頼ってその情を展べようとする志であって、道路が通じず師旅が進まないからといって王事を中辞し家に留まる理由はないと論じ、詔のとおりにすべきと答えた。
  • 有司は、建武元年九月の令書に依れば父の喪がまだ葬られない時は喪主のみ服を除かないとされているが、他の事情で葬れない場合は人子の情として喪殯にありながら服を除くことはできないので畢葬を期とし遠近の限りはないこと、しかし賊難に遭い喪の行方すら分からず求める理も絶えた場合は三年で除くのが当然で未葬の例には従わせないこと、骨肉が寇害に遭い遺賊がまだ滅びない中では亡者の収殯の実もなく生者も奔赴の礼を欠くが人子の情は限りなく未葬の義に依り除かずにいれば人が無限の喪に居ることになり礼の本旨に反すること、こうした場合はみな東関の故事に依り三年の礼を限りとして除くべきことを述べた。ただし二親が生きて離れ吉凶が分からない場合は、喪に服せば凶事がまだ確定せず吉に従えば存在を疑うことになるため哀しみを心に留めて素のまま居るのが人情に適い、官制の裁く所ではないとした。今、嶠が改卜奔赴がまだできないとして辞を重ねているのは、辛未の制にすでに定めがある以上私情を遂げることはできず王命に服さないのは法憲を虧くとし、前詔のとおり嶠を拝させ、司徒に重ねて告げ嶠のような者はみな東関の故事・辛未令書の制に依るべきとした。嶠はやむを得ず拝命した。

中原喪乱下、行方不明の二親への服喪をめぐる議論

  • この時中原は喪乱にあり室家は離散し、朝廷では二親が寇難に陥没した場合に服を制すべきかを議論した。太常の賀循は、二親が生き別れて吉凶が分からない場合、喪に服せば凶事がまだ確定せず吉に従えば存在を疑うことになるため哀しみに心を留めて素のまま居るのが人情に適うと述べ、元帝はこの議を然りとした。
  • 太興二年、司徒の荀組は、二親が寇難に陥没し万に一つも望みがない場合は王法に依り例に随って喪を行わせるべきと述べた。庾蔚之は、二親が戎狄に破られ存亡が分からない場合は尋ね求める理を尽くすべきであり、尋ね求めても絶えれば三年を過ぎて婚宦してもよい、胤嗣は絶やせず王政も廃せないためであるが、なお哀素をもって自ら居し吉慶の事には預からず中寿(一定の年齢)を待って服すべきとした。もし境内の賊乱が清平になり赦免の後もなお跡が見つからなければ服を制すべきとした。

咸康二年、李繁の姉の事例(二妻の先例)

  • 咸康二年、零陵の李繁の姉は先に南平郡の陳詵に嫁ぎ妻となり四子を産んだ後に賊に遭った。姉は自ら賊に身を投じ姑の命乞いをし、賊は姉を略奪して連れ去った。詵は改めて厳氏を娶り三子を生んだ。繁は後に姉の消息を得て迎え戻し、詵は籍に二妻を並記した。李が亡くなると詵は服を疑い、征西大将軍庾亮の府に平議を求めたところ議論は一致しなかった。
  • 司馬の王愆期は、礼に二嫡なしとして恵の西元妃孟子が卒し声子を継室としたこと、『士喪礼』の継母の説を引き、詵は遠慮して難を避け妻を失ったのであり七出によって絶たれたのではなく、初めから絶たれず終には迎えられ姑を養い子が首嫡として黄籍に列している以上は詵の妻であり、詵の妻であれば暉(子)の母であるので暉が服すのに疑いはないとした。継母への服の文はあっても前母への服の文がないのはこのような特殊な例が稀だからであり礿祠蒸嘗ではみな前母を母として扱うのが常であるとし、詵は老母を養う必要があり妻に帰る期がないのだから妾を納めるのはやむを得ず、李は賊に沒しても生きる望みがある以上、詵が求める理を尽くさず妻を娶ったのは詵の短所だが、田舎の夫は礼義に通じないものであり施孝叔の妻が郤犨に身を汚されても棄てられなかった例のように、非は詵の罪ではないと論じた。李が危険の中で姑の命乞いをした孝行を称え、議者が没略の中でも操を全うすべきというなら宋伯姫のような者ばかりを求めることになるとした。詵は二妻を持つべきではなかったが厳氏はやはり継室であり嫡ではないとしつつ、詵が下(先妻を敬う)ことができれば趙姫の義になるとし、先嫡後継の原則は古来のものであるとした。庾亮は愆期の議に従って定めた。

諡号の同名をめぐる議論

  • 『五経通義』では徳があれば善諡、徳がなければ悪諡とし、君臣でも同じ諡が許されるとする。魏朝は初め宣帝(司馬懿)を文侯、景王(司馬師)を武侯と諡したが、文王(司馬昭)の表で二祖と同じくすべきでないとされ、宣文・忠武と改諡された。文王が晋王の号を受けるに及び、魏帝はさらに宣文を宣王、忠武を景王と追命した。
  • 太康八年十月、太常が故太常平陵男の郭奕に景侯の諡を上った。有司は、晋の受命以来祖宗の号諡と群下の諡が同じであった例はなく、郭奕を景とすれば景皇(景帝)と同じになるので聴すべきでなく穆と諡すべきと上奏した。王済・羊璞らは、無窮の祚に名諡が一つでは足りず、みな避けるとすれば制度が全うできず、みな避けなければ推崇尊事の礼にも反するとし、諱名の義に倣い七廟の祖宗にのみ及び遷毀の廟には及ばないとすべきと論じた。成粲・武茂・劉訥は、同諡は嫌うべきものではなく号諡は国の大典であり時を励まし教えを作す所以であるとし、君父にすら義において隆んでない場合があり臣子は行いによって顕れることがあるとして周公父子が同じく文と諡された例を引いた。武帝は詔して、君臣が同諡になり得ないというのではなく郭奕を景と諡するのが相応しくないだけだとし、簡と諡すべきとした。
  • 太元四年に至り、侍中の王欣之が君臣で諡が同じになる嫌いを表し、尚書は欣之の言を然りとし、詔してこれを可とした。

温嶠の三人の妻の夫人号

  • 驃騎将軍の温嶠の前妻李氏は、嶠がまだ微賤な頃に卒した。さらに王氏・何氏を娶ったが、いずれも嶠より先に死んだ。嶠が薨じた際、朝廷は陳舒に三人はみな夫人とできるかを問うた。舒は、『礼記』の「その妻が夫人となって卒し、その後夫が大夫でなくなり妻に祔せば牲を易えない、妻が卒した後に夫が大夫となり妻に祔せば大夫の牲を用いる」との文を引き、夫が朝に栄えれば妻も室に貴くなり、たとえ夫より先に没していても栄辱は常に夫に随うと論じた。また『礼記』の「妻は祖姑に祔す、祖姑が三人あれば親しい者に祔す」を引き、礼によれば三人ともに夫人とすべきとした。秦漢以来一娶九女の制が廃れ近世には継室の礼もなく先妻が卒せば改めて娶るのであり、生きて礼を加えられれば亡くなって貶められるべきではないとした。
  • 庾蔚之は、賤しい時の妻は並んで夫人にはできない、追贈の命があれば別だと論じた。『温嶠伝』では王・何の二人には夫人の印綬が贈られたが李氏には及ばなかった。

婦人の諡号をめぐる議論

  • 永和十一年、彭城国が李太妃のために諡を求めた。博士の曹耽之は、夫婦の行いは必ずしも同じでなく夫の諡で婦を諡すことはできない、『春秋』には婦人の諡が多くあり経にこれを譏る文がないので諡を得るのが礼だと論じた。胡訥は、礼では婦人は生前は夫の爵により死せば夫の諡によるものであり、『春秋』で夫人に諡があるのは礼に依らなかったにすぎないとし、安平献王の李妃・琅邪武王の諸葛妃・太傅東海王の裴妃にはいずれも諡がなく旧典に率うべきと論じた。王彪之は、婦人に諡があるのは礼が壊れたためであり、声子に諡が付けられたことを服虔ら諸儒は非としており杜預も「礼、婦人に諡なし」と述べている、『春秋』に譏る文がないのはいわゆる貶絶を待たず自明であるという意味であり、近世はただ后にのみ諡があるのだと論じた。

荀顗の諡法(遠隔地での賜諡)

  • 太尉の荀顗が上げた諡法によれば、もし諡を賜るのに道が遠く葬儀に間に合わない場合は、みな封策を属官に下し、承けた長吏を遣わして策を持って塚に赴かせ祭って諡を賜わせるとした。

太元十三年、私諱をめぐる孔安国の求解

  • 太元十三年、孔安国が召されて侍中となった。安国は黄門郎の王愉の名が自分の私諱に触れるため連署できないとして解任を求めた。有司は、名を終生諱むのは人の心が同じくするところであり名を聞いて心が瞿くのも前誥に明らかであるとしつつ、『礼』に「君の所には私諱なし、大夫の所には公諱あり」私諱なしとあり、また「詩書は諱まず、文に臨んでは諱まず」ともあるとし、これは公義が私情に勝り王制が家礼に優先することを示すものだと論じた。
  • かつて尚書安衆男の臣が中兵曹郎の王祐の名が父の諱に触れるとして解職を求めた際、明詔が発せられ曹を換えることを聴された例があったが、それは制外の恩によるものであった。しかし近頃は互いにこれに倣い、その源が開かれて際限を知らない状況になっている。皇朝の礼は大きく百僚は職を備え、官を編み署を列ねる中で互いに関わり合うのは常であり、もし私諱によって各々の心を遂げさせれば官職の移動が止まらなくなり典法に違い政体を虧くことになるとして、一断すべきと論じた。詔してこれに従った。