礼学総論と晋初の礼典編纂
- 人は天地陰陽の霊気と喜怒哀楽の情を備える。聖人はこれに範を垂れ、驕淫を節し暴乱を防ぐために礼を定めた。天地を崇め鬼神を敬い、尊卑の序・夫婦の義を立ててこそ国家は治まる。趙簡子が大叔に揖譲周旋の礼を問うたところ、「それは儀であって礼ではない」と答えられた故事のように、天経地義の道はこの頃からすでに欠けていた。魯の哀公十一年、孔子は衛から魯に戻り、三代の典を尋ね百王の訓を垂れたが、時に明君なく道は行われなかった。
- 漢文帝は再期(二年)の喪を廃し、後漢の中興は一郊の祭に改めるなど、時に随った変化があった。前漢元鼎期・後漢永平期には儒学が興隆したが、魏の代には礼楽が委れ浮華が尚ばれた。魏の王肅・高堂隆らは博く前代を通じ、三千条の礼・十七篇の学を旧文に基づき増損したが、堯舜の道に君を導くには至らなかった。景初元年、洛陽南の委粟山に圜丘を営み、始祖帝舜を配して祀った日には房俎に生魚、陶樽に玄酒を用いる素朴な儀であった。
- 晋の宣帝・景帝の代は戎旅にあり礼の制定に及ばなかったが、太康年間に呉を平げ九州を統一すると、斉魯の諸生が礼経・楽器を携えて集まった。武帝は寇乱平定後、真っ先に儀範を重んじ、吉礼では茅茨を翦らず日観に瑄を停め、凶礼では深衣布冠・撤膳降席という質素さを守った。元帝の中興期は権道が多く旧典の継承が危うかったため、常侍戴邈が上疏して礼文の興起を勧めた。穆帝・哀帝の後は王室の権威が衰え桓温が政を専らにし、有司が礼を飾っても主威はすでに失われていた。
- 晋初には荀顗・鄭沖が国典を裁成し、江左(東晋)では荀崧・刁協が朝儀を損益した。周官の五礼(吉凶軍賓嘉)のうち吉礼の祭祀が最も重んじられる。漢は秦の滅学の後を承け、東西京四百余年の間、制度はしばしば改変された。魏は漢末の大乱の後、王粲・衛顗に朝儀を草創させた。晋国建国に際し文帝(司馬昭)は荀顗に魏の旧制に基づき新礼を撰ばせ、羊祜・任愷・庾峻・応貞らが共に刊定し、百六十五篇を成して奏上した。太康初め、尚書僕射朱整はこれを尚書郎摯虞に付して討論させた。
- 摯虞の上表(一):故太尉荀顗の撰んだ『五礼』を典校したところ、革命による垂統・隆礼による率教は大事であるため速やかな施行を求める。『喪服』は最も疑義が多く補訂すべきである。また現行の礼の篇巻は煩重なので類ごとに通合すべきである。
- 摯虞の上表(二):喪服は易く旨を失いやすい。子張は高宗の諒陰三年を疑い、子思は其の子に出母への服喪をさせず、子游は異父昆弟を大功とし子夏は斉衰とし、孔子没後は門人が服喪の仕方に迷った。三年の喪について鄭玄は二十七月、王肅は二十五月とする。改葬の服も鄭は緦三月、王は葬訖にて除くとする。継母の出嫁への服喪も、無服の殤の計算法も鄭王で異なる。摯虞は『礼記』を参照し『伝』説を略取して未備を補い、王景侯(王肅)の『喪服変除』に準拠して疑争を断つべきだと述べた。
- 摯虞の上表(三):荀顗の礼は百六十五篇十五余万言に及び煩雑である。『尚書』堯典が東嶽のみ牲幣の数を詳述し他は「如初」と略すように、『周礼』も同様の祭祀は「亦如之」と略す。今の礼も事が同じで名が異なるものは別篇に分けており煩雑なので、類に随って合せ、三分の一を減らすべきと述べた。
- 摯虞は元康元年(291年)新礼の討論を終え、明堂五帝・二社六宗及び吉凶王公制度、計十五篇を上奏し詔許された。その後摯虞は傅咸と続けて纂修したが未完に終わり、永嘉の乱で中原が覆没した。摯虞の『決疑注』はその遺業である。江左では僕射刁協・太常荀崧が旧文を補緝し、光禄大夫蔡謨がさらにこれを継いだ。
郊祀の沿革(魏)
- 魏明帝太和元年(227年)正月丁未、武帝(曹操)を郊祀して天に配し、文帝(曹丕)を明堂に宗祀して上帝に配した。この時なお漢の郊禋の制が存し、魏の損益がうかがえる。太和四年(230年)八月、天子東巡の途中繁昌を過ぎ、執金吾臧霸に太尉の事を代行させ特牛で受禅壇を祠った。景初元年(237年)十月乙卯、洛陽南の委粟山に圜丘の造営を始めた。詔には、漢の甘泉后土・雍宮五畤の祭祀が四百余年廃立を繰り返し欠けていたこと、曹氏の世系は有虞氏に出るゆえ圜丘の祀は始祖帝舜を配して「皇皇帝天」と号し、方丘は「皇皇后地」として舜妃伊氏を配し、天郊は「皇天之神」として太祖武皇帝を配し、地郊は「皇地之祗」として武宣皇后を配し、明堂の宗祀は高祖文皇帝を上帝に配すると定めた。十二月壬子の冬至、初めて圜丘で皇皇帝天を始祖有虞帝舜配で祀った。正始以後、魏は再び郊祀を行わなかった。
郊祀の沿革(晋の泰始~愍帝)
- 魏元帝咸熙二年(265年)十二月甲子、使持節侍中太保鄭沖・兼太尉司隸校尉李憙が璽綬策書を奉じ晋に禅位した。丙寅、武帝は南郊に壇場を設け柴燎して上帝に告げたが、この時なお祖の配はなかった。泰始二年(266年)正月、有司が旧に魏礼を権用したことを改め永制とすべきと詔された。群臣は五帝は天そのものであり五号あっても実は一神とし、明堂南郊の五帝の座を除き五郊も同じく昊天上帝と称して一坐とし、地郊の先后配祀も除くべきと議し、帝はこれに従った。二月丁丑、宣皇帝を郊祭して天に配し、文皇帝を明堂に宗祀して上帝に配した。その年十一月、有司は円丘方丘を南北郊に合わせ、二至の祀を二郊に合すべきと再び議し帝は王肅の議に従った宣帝の先例通りこれに従った。庚寅の冬至、帝は自ら南郊の円丘に親祠した。以後円丘・方沢は別立されなくなった。
- 太康三年(282年)正月、帝は親ら郊祀し、皇太子・皇子も陪祠した。太康十年(289年)十月、詔で『孝経』の后稷配天・文王配上帝の説と『周官』の天と上帝の別を論じ、以前明堂五帝の位を除いたことを礼文に正しくないとして明堂及び南郊の五帝位を復した。愍帝は長安に都したが郊廟を立てぬうちに滅んだ。
郊祀の沿革(東晋)
- 元帝渡江後、太興二年(319年)郊祀儀の議が始まった。尚書令刁協・国子祭酒杜夷は洛邑帰還を待つべきとしたが、司徒荀組は漢献帝の許都即立の先例を挙げてただちに修奉すべきとし、驃騎王導・僕射荀崧・太常華恆・中書侍郎庾亮も荀組に同じ、事が実行され已地に南郊が立てられた。制度は太常賀循が定め漢及び晋初の儀に多く依った。三月辛卯、帝は親ら郊祀し武帝の始郊の故事に一依した。この時北壇は未立で地祗は皆天郊に合祀されていた。
- 明帝太寧三年(325年)七月、北郊立詔が発せられたが完成前に崩じた。成帝咸和八年(333年)正月、前旨を追述し覆舟山南に北郊を立てた。天郊は五帝之佐・日月・五星・二十八宿・文昌・北斗・三台・司命・軒轅・后土・太一・天一・太微・句陳・北極・雨師・雷電・司空・風伯・老人の凡そ六十二神。地郊は五嶽・四望・四海・四瀆・五湖・五帝之佐・沂山・嶽山・白山・霍山・醫無閭山・蔣山・松江・會稽山・錢唐江・先農の凡そ四十四神。江南の諸小山は江左立国後に加えられたもので、漢西京関中の小水に祭秩があったのに倣う。同月辛未、北郊で始めて宣穆張皇后を配祀した(魏の故事であり晋旧来のものではない)。
- 康帝建元元年(343年)正月、北郊に臨むにあたり疑議が起きた。太常顧和は、泰始中に二至の礼を二郊に合したこと、北郊の月は古典に明文がなく夏至とも陽月とも言われること、後漢光武帝が正月辛未に北郊を建てて南郊と同月とした先例、中興草創期に七郊を一丘に合した権宜、咸和中に北郊を別立し同じく正月を用いたこと、魏が後漢を承け正月に天を祭り地を配した際に高堂隆らが『周礼』の三王の郊は夏正一用とすべきと論じたことを述べ、これにより顧和の議に従った。辛未に南郊、辛巳に北郊が行われ、帝は共に親祠した。
- 安帝元興三年(404年)、劉裕が桓玄を討ち走らせた。己卯の日、義功を南郊に告げた。この年帝は江陵に蒙塵し未だ帰らず。翌年の郊祀については『周礼』に依り宗伯が摂職し三公が行事すべきとする議に対し、尚書左丞王納之は独り、既に殯にあって郊祀した以上天子は当陽して命を稟けて行うべきで郊の興否とは別問題だと反論。議者は郊天は至尊のものだが天子でなくとも三公が承制して行えるとしたが、王納之は武帝が二月郊、元帝中興が三月郊であったこと、今はまだ郊祀の時期を過ぎておらず輿駕の帰還を待つべきだと重ねて論じ、その議に従った。
郊廟牲幣の色・告郊の礼
- 郊廟の牲幣璧玉の色には成文があったが、秦は騮駒を多く用い、漢は犢とのみ言い色を明らかにしなかった。江左の南北郊は共に玄牲、明堂・廟・社は共に赤牲を用いた。
- 郊を告げる礼は古典になく、漢儀では天子崩御の際に太尉が南郊に諡を告げるのみだった。魏文帝黄初四年(223年)七月、東巡に大軍を出すにあたり太常に特牛で南郊に告げさせ、文帝崩御の際も太尉鍾繇が南郊に諡を告げた。江左ではこの礼は廃れた。
朝日夕月の礼
- 礼では春分に東で朝日を、秋分に西で夕月を祀るとされる。漢武帝の郊泰畤では平旦に竹宮を出て東に日を揖し、夕に西に月を揖したが、これは二分の祭ではなく朝夕の常拝となっていった。魏文帝は「漢氏が東郊で日を拝さず殿下で日月を朝夕に拝するのは家人の事に似て天神に事える道ではない」と詔したが、黄初二年(221年)正月乙亥に東門外で朝日を祀ったのもまた二分の義に背いていた。魏明帝太和元年(227年)二月丁亥、東郊で朝日を祀り八月己丑、西郊で夕月を祀り初めて古礼に適った。武帝太康二年(281年)、有司が寒温未適を理由に親祀を省こうとしたが、詔で「間者は戦事のため奏に従ったが今戎事は治まったのでこれが最も重要」として親祠に復した。以後この礼は廃れた。
明堂の配享
- 「郊祀后稷以配天、宗祀文王於明堂以配上帝」との礼文に対し、魏文帝は漢の明堂を用いたが配なく、明帝太和元年に初めて文帝を明堂に宗祀し、斉王もこの礼を行った。
- 晋初は文帝(司馬昭)配、後に宣帝配に改めまた文帝配に戻すなど変遷し、郊と明堂の配が一致しない状態だった。摯虞は、漢魏の明堂は五帝の神を祀っていたが新礼では五帝すなわち上帝すなわち天帝とし明堂は上帝のみを祀るべきとし、『周礼』の「祀天旅上帝」「祀地旅四望」から上帝は天でないと論じた。郊丘の祀は掃地して祭り牲は繭栗・器は陶匏を用い始祖を配し、明堂の祭は物を備え玉牲・籩豆を並べ人鬼の礼に同じくして近考を配するとした。太昊配木・神農配火・少昊配金・顓頊配水・黄帝配土という五行配天の古説を引き、五帝は天を配する神で四郊で兆し明堂で報じられるとした。庚午詔書で明堂・南郊の五帝の位を除いたのに対し、前太医令韓楊の上書により太康十年(289年)に旧に復すべきとの詔が出され、以後明堂・郊祀の五帝はもとに復された。江左以後は再建に及ばなかった。
五時令
- 漢儀では太史が毎年の暦を上奏し、立春・立夏・大暑・立秋・立冬に五時令を読んだ。皇帝の服色も五時に随い、尚書令以下が席位に就き尚書三公郎が案を奉じて入り伏読、酒一卮を賜った。魏もこの礼を常行した。魏明帝景初元年、大暑の時のみ黄服を読む令が欠けている理由を通事が問い、散騎常侍領太史令高堂隆は、黄は五行の中央土であり土は火の末に王となるため四季ではなく火の用事の末にのみ服し、そのため令もないと説明した。すなわち魏は大暑令を読まなかった。
- 晋も受命後この制を継いだ。傅咸は「立秋一日、白路が紫庭に光り白旗が玉階に陳ねられる」とその日の旗路が白であったことを記す。成帝咸和五年(330年)六月丁未、有司が秋令を読むことを奏したが、兼侍中散騎常侍荀奕・兼黄門侍郎散騎侍郎曹宇は武帝以来盛暑には闕いて読まぬ慣例(光禄大夫華恆の議)に依るべきと駁し詔許された。翌年三月、立夏を機に服章が備わったとして夏令を読むことが奏可された。
藉田(耕籍)の礼
- 礼では孟春に元辰を択び天子が自ら耒耜を執り三公九卿諸侯大夫を率いて帝藉を耕すとされたが、秦の滅学で久しく廃れ、漢文帝以後に復興、魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)も皆親耕した。
- 武帝泰始四年(268年)、有司の奏で先農を祠ることが行事とされた。詔では祀と農を国の大事とし、近世の耕藉が数歩の空虚な儀礼に堕していたことを憂い、千畝の制を修めて群公卿士と共に稼穡の艱難を体験すべきとし、河南に東郊南・洛水北の官田を用意させた。乗輿は木輅で耕し太牢で先農を祀ったが、恵帝以後この儀は廃れた。
- 江左元帝が耕藉を修めるにあたり、藉田の際皇帝が自ら先農を祠るべきかを尚書符が問い、賀循は漢儀にはないが『周礼』の親祭の義に照らし儀注を両立すべきと答えたが、その議は詳らかでなく事は行われなかった。後に哀帝も行おうとしたが果たせなかった。
- 漢儀では県邑が乙未日に先農を祠り乙地で耕し、丙戌日に戌地で風伯を、己丑日に丑地で雨師を祠り牲には羊豕を用いた。立春には青幡幘で東郊外野に春を迎え、拝礼のみで祭はせず、他の三時は迎えなかった。
- 魏では天子は耕藉したが藩鎮の諸侯には百畝の礼が欠けていた。武帝末年、有司が古の諸侯の百畝耕藉の義に倣い諸王も耕藉すべきと奏したが実行されなかった。
先蚕の礼
- 『周礼』では王后が内外命婦を率いて北郊で先蚕を享る。漢儀では皇后が東郊苑中で親桑し蚕室で蚕神(苑窳婦人・寓氏公主)を祭った。魏文帝黄初七年(226年)正月、周典に依り中宮に北郊で蚕をさせた。
- 武帝太康六年(285年)、散騎常侍華嶠は先王の親耕・親蚕の制に照らし皇后の蚕礼を備えるべきと上奏、詔もこれを認め翌年施行された。西郊で蚕を行い(藉田と方位を対にした)、侍中成粲が儀を定めた。先蚕壇は高さ一丈方二丈四出陛、皇后の采桑壇東南の帷宮外門外に置かれ、蚕室西南・桑林はその東にあった。列侯の妻六人を蚕母とし、皇后は十二笄歩揺、青衣、油画雲母安車に六騩馬を駕し、女尚書は貂蟬佩璽で陪乗した。公主・三夫人・九嬪・世婦・諸太妃・太夫人及び県郷君・郡公侯特進夫人・外世婦・命婦も皆歩揺・青衣で従蚕した。桑日、太祝令が太牢で告祠し、皇后は西郊で親桑(三条、諸妃公主五条、県郷君以下九条)した後桑を蚕母に授け、饗宴が行われた。
社稷の礼
- 前漢は官社のみで官稷を置かず、王莽が官稷を置いたが後に廃止された。以来漢から魏まで太社にのみ稷があり官社には稷がなく、「二社一稷」と称された。
- 晋初は魏を継いだが、太康九年(288年)宗廟を改建する際、社稷壇も一廟とともに徙り、「社は実に一神である」として二社の祀を合すべしとの詔が出た。これに対し車騎司馬傅咸が上表し反対した。傅咸は、『祭法』の王社と太社はそれぞれ天子の親耕への報と百姓のための立社という異なる由来を持ち、王景侯(王肅)の論も春の祈藉田と秋の報を混同していないと指摘。太社は天子が百姓のために祀るもので『郊特牲』の「天子太社、必受霜露風雨」の語や置社(里社)との違いを説き、七祀と社の対応関係、大厲の解釈なども挙げて景侯の説を擁護し、二社を存すべきだと重ねて論じた。成粲がなお景侯の太社不立京都説を主張したが、傅咸は『大雅』『禹貢』の毛公解等を引きこれに反駁し、劉寔も傅咸の議に同じた。結局詔は「社は実に一神だが位を襲うのは衆議一致しないため改めず、魏制のままとする」とされた。
- その後摯虞が改めて奏し、『祭法』『周礼』を引いて太社(群姓のための祈報)と王社(王自らのための)の二社が本来別のものであり、『尚書・召告』や『詩』の塚土の記述をもって帝社を廃したのは早計であるとし、新礼を定めて二社に従うべきと述べ、詔はこれに従った。
- 元帝建武元年(317年)、洛京に依り二社一稷を立てた。太社の祝辞「地德普施、惠存無疆。乃建太社、保佑萬邦。悠悠四海、咸賴嘉祥」、帝社の祝辞「坤德厚載、邦畿是保。乃建帝社、以神地道。明祀惟辰、景福來造」が定められた。
日食(合朔卻会)の礼
- 漢儀では毎月旦に太史が月暦を上奏し、朔の前後二日に牽牛酒を社下に至らせ日を祭った。日に変(日食)があれば羊を割いて社を祠り救日の変とした。晋受命後も太史が合朔を上奏すると尚書が三日前から内外に戒厳を宣した。摯虞『決疑』には、日蝕を救う者は赤幘を着けて陽を助け、天子は素服で正殿を避け、太史が霊台に登って日変を伺い鼓を伐ち、侍臣は赤幘帯剣で入侍し三台令史も剣を執って戸前に立ち、衛尉卿は宮を巡回警備し、社でも鼓を伐ち赤糸で社を繋ぎ祝史が辞を陳べて責める(社の神である勾龍は天子の上公であるため)という儀礼が記される。
- 漢建安中、正会の日に日食があると太史が上言したが、広平計吏劉邵は梓慎・裨灶ら古の良史もしばしば天時を誤ったこと、『礼』の諸侯旅見天子の四不終礼のうち日食を根拠に朝礼を予廃しない聖人の垂制を説き、尚書令荀彧らはこれに従い朝会を通常通り行い、実際に日食は起きず劉邵は名を顕した。
- 武帝咸寧三年・四年(277・278年)は正旦合朔により元会を卻けた(魏の故事を改めたもの)。元帝太興元年(318年)四月の合朔に際し、中書侍郎孔愉は『春秋』の日食に天子が社に伐鼓する故事等を引き、尚書符が諸門に伐鼓するとしたのは旧典に違うと上奏、詔で正義として外に改めさせた。
- 康帝建元元年(343年)、太史が元日合朔を上言し卻会の可否が再び議論となった。輔政の庾冰は劉邵の議を示したが、蔡謨は劉邵説を非難する議を著した。梓慎・裨灶の誤りや太史の言も必ずしも正確でないとする点は正しいが、聖人が変異により朝礼を予廃しないというのは誤りであり、災祥は人君への譴告であるから素服廃楽して敬んで慎むべきで、孔子・老聃が巷党で葬を助けた際に星の見えぬ夜には柩を止めた故事や、魯桓公が災の後に嘗祭を行ったのを『春秋』が譏った例を挙げ、劉邵の引く「諸侯入門不得終礼」は日官が予め言わなかった場合の話であって、予め蝕を知りつつ朝会を廃さないことの根拠にはならないと論じた。庾冰は衆議に従い卻会とした。
- 永和中、輔政の殷浩が再び劉邵の議に従おうとしたが、王彪之は咸寧・建元の故事を挙げ、『礼』の四つの不終礼は突発の事態を言うのであって、史官の推術の誤りに僥倖して朝礼を廃さないことの根拠ではないと論じ、再びその議に従った。
六宗の祀
- 『尚書』の「禋于六宗」については諸儒の説が分かれた。王莽は『易』の六子説に基づき六宗祠を立てた。魏明帝の時も王肅に問い同じく六子説とされ廃されなかった。晋受命後、司馬彪らの上表で六宗の祀は新礼に特立すべきでないとされ一度廃されたが、後に摯虞が再び奏し、『周礼』肆師職の「社宗」・党正職の「祭禜」等を引いて六宗は社と並ぶ格の神であり、『月令』孟冬の「天宗」に祈るのもこれに当たるとした。漢光武帝が高邑即位に際し『虞書』に依り六宗を禋祀し、安帝元初中に太社と同格の祀位を立てたこと、魏の景初二年(238年)に散騎常侍劉邵が六宗は太極沖和の気であり六気の宗であると論じ従われたことを引き、崇祀してきた百神は理由なく廃すべきでないとして新礼で六宗を旧の如く祀るべきと述べ、詔はこれに従った。
七祀・高禖・霊星等
- 礼では王が群姓のために司命・中霤・国門・国行・大厲・戸・竈の七祀を立て、仲春玄鳥至の日に太牢で高禖を祀るとされる。漢は高帝が霊星祠を立て、武帝は李少君の故により竈を、戻太子誕生の際に高禖を立てた。『漢儀』には仲春に城南に高禖祠を建て特牲で祀ること、老人星を国都南郊の老人星廟で、灶を立夏に、心星を季秋に城南壇心星廟で祀ることが記される。元康時、洛陽に高禖壇が残り百姓がその傍で祠り「落星」とも呼ばれた。以後この諸祀は廃れ、江左では七祀は立てられず霊星も南郊に配饗されるのみとなった。
雩祭(求雨の礼)
- 『左氏伝』の「龍見而雩」以来の古典礼で、漢儀では立春から立夏を経て立秋まで郡国が旱ならば社稷を掃除し、公卿官長が雩礼を順に行って雨を求め、諸陽を閉じ皁衣を着て土龍を興し土人を立て童二佾を舞わせ七日ごとに変えた。武帝咸寧二年(276年)春の長い旱魃に際し、四月丁巳「諸旱処に広く祈請せよ」との詔、五月庚午に社稷山川に祈雨、六月戊子に澍雨を得た事例がこの旧典である。太康三年四月・十年二月にも同様の例があった。雨が多い場合は禜祭を行い赤幘朱衣で諸陰を閉じ朱索で社を縈り朱鼓を伐った。
五嶽四瀆の祭祀
- 『周礼』では王が昊天上帝・日月星辰・司中司命・風伯雨師・社稷・五土・五嶽・山林川沢・四方百物を祀り、四類四望も同様とする。魏文帝黄初二年(221年)六月庚子、初めて五嶽四瀆を礼し珪璧を瘞沈した。六年七月、帝が舟軍で淮に入り、九月壬戌には使者を遣わし璧を淮に沈めさせた。魏明帝太和四年(230年)八月、東巡の際使者に特牛で中嶽を祠らせた。魏元帝咸熙元年(264年)、長安行幸の際使者に璧幣で華山を祠らせた。
- 穆帝升平中(357-361年)、何琦は五嶽の祠の修復を論じた。唐虞の制では天子が五載に一度巡狩し、五嶽を柴燎し山川を望み群神を遍祀することで災厲を防ぎ風雨寒暑を時に適わせたこと、三代を経てもこの礼は変わらず五嶽は三公に、四瀆は諸侯に准えられたこと、秦漢の西京では涇・渭・長水も祀典に無くとも大川並みに扱われたことを述べ、永嘉の乱で神州が傾覆しこの事が廃れたことを嘆いた。灊の天柱(霍山)のみ王略内にあり百戸の吏卒が奉じてきたが、中興以来官の守が無く廬江郡が大吏を遣わして四時に禱賽してきたに過ぎず、咸和以来それも廃れたと述べ、非典の祠が繁茂する一方で正しい山川の祭祀が簡缺している現状を憂い、皇輿が北旋した後に旧典を崇明し制度を大いに整えるべきだと論じたが、この時は用いられなかった。
孔子祭祀
- 武王が殷に入り車を下りる前に先代の後を封じたように、孔子は聖人ながら陪臣に終わり封爵はなかった。漢元帝の代、帝師であった孔霸に爵が賜られ褒成君と号し孔子の後を奉じさせた。魏文帝黄初二年(221年)正月、議郎孔羨を宗聖侯に封じ邑百戸、孔子の祀を奉じさせ、魯郡に旧廟を修めさせ百戸の吏卒で守らせた。武帝泰始三年(267年)十一月、宗聖侯孔震を奉聖亭侯に改封し、太学及び魯国に四時三牲で孔子を祀らせる詔を出した。明帝太寧三年(325年)、奉聖亭侯孔亭に四時の祠孔子祭直を泰始の故事の如く給する詔が出された。
- 礼では立学の際まず先聖先師に釈奠すべきとされるが、漢代にはこの礼は聞かれなかった。魏斉王正始二年(241年)二月に『論語』、五年五月に『尚書』、七年十二月に『礼記』を講じ通ずるごとに太常に釈奠させ太牢で辟雍に孔子を祀り顔回を配した。武帝泰始七年(271年)皇太子が『孝経』、咸寧三年に『詩』、太康三年に『礼記』を講じ通じた。恵帝元康三年(293年)・元帝太興二年(319年)にも皇太子が『論語』を講じ通じ、太子が自ら釈奠し太牢で孔子を祀り顔回を配した。成帝咸康元年(335年)に帝が『詩』、穆帝升平元年(357年)三月に『孝経』、孝武帝寧康三年(375年)七月に『孝経』を講じ通じ、共に釈奠が行われた。穆帝・孝武帝は共に中堂を太学に権用した。
皋陶祭祀
- 故事では廷尉寺で皋陶を祀っていたが、新礼は律署に移し太学の先聖祭祀に倣った。祀は社日から孟秋に改められた。摯虞は、皋陶は士師として断獄の功があり獄官がその神を礼するのであって律令の始めとは関係がないこと、太学は太常より重いため先聖を祀るのはふさわしいが律署は廷尉より軽いため祀を移すのは重を去り軽に就くことになると批判し、律署は廃興常なき官であるから旧の如く廷尉に祀るべきこと、祀の時期も仲春(重生の義)から孟秋(刑殺に応ずる義)への変更に十分な理由がないとし、新礼を定めて旧に復すべきと述べた。詔は「可」とした。
歳旦の禳礼と淫祀の禁
- 歳旦に葦茭桃梗を設け宮及び百寺の門に鶏を磔して悪気を祓う風習は、漢儀では仲夏に行われ桃印はあったが磔鶏はなかった。魏明帝の禳礼の大改修の際、何晏の禳祭議に鶏の特牲が見え、磔鶏は魏に始まり、桃印は漢制で卯金(劉氏)を輔けるものとして魏に廃されたと推測されるが、仲夏から歳旦への変更の起源は詳らかでない。魏明帝青龍元年(233年)、祀典に無い山川は祠らぬよう郡国に詔した。
- 武帝泰始元年(265年)十二月、聖帝明王が五嶽四瀆・名山川沢に定制を設けた由来と、道をもって天下に臨む者には鬼は神ならず神は人を傷めぬため祝史は薦めるだけで愧じることがないという理を説き、末世に僭礼瀆神・襖妄の風が広まったことを魏朝が疾んだ経緯を述べ、旧礼を案じて制を為し、功が人に著れる者には必ず報いる一方で襖淫の鬼はその間を乱さぬようにせよとの詔が出た。二年(266年)正月、有司が春分の厲殃祭祀・禳祠を奏したが、祀典に無いものとして除かれた。
宗廟の制(魏)
- 『王制』には天子七廟、諸侯以下の等差が詳細に記される。漢献帝建安十八年(213年)五月、河北十郡を以て魏武帝(曹操)を魏公に封じ、同年七月鄴に宗廟を建て諸侯礼の五廟を立てた。後に王に進爵しても改まらなかった。延康元年(220年)、文帝が王位を継ぎ七月に皇祖を大王、丁夫人を大王后と追尊した。黄初元年(220年)十一月受禅の際、大王を大皇帝、皇考武王を武皇帝と追尊した。二年(221年)六月、洛京の宗廟未成のため建始殿で武帝を祠り家人礼の如く親ら饋奠した。『礼』では宮室を営むには宗廟を先とし庶人は廟を持たず寝で祭るとされ、帝がこれを行ったのは礼に大いに反していた。
- 明帝太和三年(229年)六月、高祖大長秋を高皇、夫人呉氏を高皇后と追尊し鄴廟に併せ祀った。廟には文帝の高祖処士・曾祖高皇・祖大皇帝を一廟に、考太祖武皇帝を特に一廟に祀り百世不毀としたため親廟四室のみであった。同年十一月、洛京廟が成り親尽の処士主を園邑に遷し、行太傅太常韓暨・行太常宗正曹恪が高皇以下の神主を四室のまま迎えた。景初元年(237年)六月、群公有司が七廟の制を新たに定め、武皇帝を太祖、文皇帝を高祖昭祧、明帝を烈祖穆祧とし、三祖の廟は万世不毀、その余の四廟は親尽のたび迭遷し周の后稷・文武廟祧の礼に倣うとした。
- 文帝の甄后は賜死されたため廟に列せられなかった。明帝即位後、有司の奏で文昭皇后と追諡され司空王朗が陵で告祠した。三公はさらに周の姜嫄の廟の先例を引き別に寝廟を立てるべきと奏し、太和元年(227年)二月に鄴に廟が立てられた。四月、洛邑で宗廟を営む際に「天子羨思慈親」の文字を持つ玉璽が出土し明帝は改容して太牢で告廟した。景初元年(237年)十二月己未、有司が文昭皇后の廟を京師に立て永く享祀すべきと奏し鄴廟は廃された。
- 魏元帝咸熙元年(264年)、文帝(司馬昭)の爵を王に進め、舞陽宣文侯を宣王、忠武侯を景王と追命した。同年八月、王文(司馬昭)が崩じ諡は文王とされた。
宗廟の制(晋・泰始~太康)
- 武帝泰始元年(265年)十二月丙寅の受禅の翌丁卯、皇祖宣王を宣皇帝、伯考景王を景皇帝、考文王を文皇帝、宣王妃張氏を宣穆皇后、景王夫人羊氏を景皇后と追尊した。二年(266年)正月、有司の七廟設置の奏に対し帝は労役を重んじ一廟の権立を詔した。群臣は虞舜が唐廟を改めず旧宮に因った故事を引き有虞氏の故事に依り魏廟を用いるべしと奏し可とされた。ここに征西将軍・豫章府君・潁川府君・京兆府君を宣皇帝・景皇帝・文皇帝と併せて三昭三穆とした(宣皇未だ太祖として昇らず太祖の位が虚位であったため六世を祠り景帝を合わせ七廟とした。この礼は王肅説に依った)。七月、なお神明を祗奉する情に安からずとして改創が詔された。十一月、景帝夫人夏侯氏を景懐皇后と追尊した(任茂の異論は帝が採らず)。太康元年(280年)、靈壽公主を太廟に祔したが周漢に前例のない措置であり(魏明帝は別に平原主廟を立てた)、晋は魏と異なるものとなった。六年(285年)、廟の陥損により改修する際群臣が七廟異所説を議したが、詔は「一廟七室」の便を旧の如くとした。十年(289年)、宣陽門内に窮極壮麗な廟を改築したが坎位(太祖の虚位)の制は初めのままであった。廟成るや摯虞の議により征西以下の神主が帝者の儀で新廟に遷された。武帝崩後に征西を、恵帝崩後に豫章を遷し、恵帝の世には愍懐太子・哀太孫臧・沖太孫尚が祔廟され(陰室四殤)、元帝の世に懐帝の殤太子も祔廟された。懐帝の初め、武帝の楊后を武悼皇后と策諡し峻陽陵側に改葬、弘訓宮に別祠し廟には列しなかった。
宗廟の祧廟問題(東晋・元帝~簡文帝)
- 元帝は武帝に上継し(漢光武帝の元帝上継の故事に倣う)、西京の神主は虜庭に堙滅していたため江左の廟は全て新造された。懐帝の主を登せる際に潁川を遷し、位は七室でも実は五世であった(刁協の兄弟同世数説による)。太興三年(320年)正月乙卯、元帝は懐帝・愍帝に北面称臣する立場で太廟に有司行事とするのは情礼に安からずと詔した。太常恆は光武帝故事に倣い親執觴爵せずとし、また廟室は容主を限とし常数に拘らずとして豫章・潁川を復し七廟を全うすべきと論じた。驃騎長史温嶠は「兄弟不相入廟」の説は正しくないとしつつ、元帝の登録が光武帝の事情と異なることを踏まえ躬奉蒸嘗が経礼にも情にも適うとし、豫章・潁川の復帰に同意、驃騎将軍王導もこれに従った。帝は嶠の議に従い豫章・潁川を昭穆に復し、恵帝の嗣武故事に同じくし、恵懐愍三帝は『春秋』の尊尊の義により廟に留まった。
- 元帝崩御で豫章が再度遷り、明帝崩御で潁川も遷り十室のままとなった。太廟拡張に伴い遷主三は西儲に「祧」として遷された。成帝咸康七年(341年)五月、武悼皇后の神主が初めて作られ太廟に祔し世祖に配饗された。成帝崩後、康帝は兄弟の一世として京兆を遷さず十一室に至った。
- 康帝崩・穆帝立の永和二年(346年)七月、有司が京兆府君の祧遷を奏し、征西・豫章・潁川三府君の遷主を巡る議論が起きた。領司徒蔡謨は四府君を別室建立か太廟内に留めるべきとし、殷祭の日に征西が東面し宣皇の上に位するとの案を出した。護軍将軍馮懐は壇での祭を、輔国将軍譙王司馬無忌らは文武の祧に倣い府君の遷主を宣帝廟中に置くべしとし、尚書郎孫綽も無忌に同じた。尚書郎徐禅は石室保管・壇墠祭祀案を出し、会稽の処士虞喜に諮ったところ、漢代の毀主瘞園や魏朝の埋両階間の先例を引き応に毀して祭らずとの答えを得た。簡文帝(当時撫軍)と尚書郎劉邵らは四祖を西祧に同居させ石室に主を蔵し禘祫は先朝旧儀の如くとする案を奏し、これが実行された(京兆も西儲に遷り正室は十一のまま)。穆帝崩後、哀帝・海西公は兄弟世代のため登除なし。咸安の初め、簡文帝が元帝に上継し潁川・京兆二主が昭穆の位に復したが、簡文帝崩御で潁川は再び遷された。
宗廟の祧廟問題(孝武帝以降)
- 孝武帝太元十二年(387年)五月壬戌、太廟の太祖虚位・明堂未建を憂う詔が出た。祠部郎中徐邈は円丘郊祀は経典に二無く宣皇帝の説以来検証されてきたことを述べ旧を仍ぐべしとし、武帝が六世三昭三穆で廟を建て宣皇帝を太祖・王考としつつ兄弟相及は二世でないため世数未足として太祖の正位を定めきれない事情、京兆府君が既に六世に達し復室すべきこと、遷主は石室に蔵すべきも殯祭には及ばぬこと、太子太孫の陰室四主の従食の遷、明堂の配帝の祀の重要性を論じた。侍中車胤も概ね同意した。太元十六年(391年)、太廟正殿を改築(正室十四間・東西儲各一間、合十六間、棟高八丈四尺)し、征西から京兆までの四主と太子太孫を各その位の儀服で行廟に遷した(四主は帝者の儀に従わず太康期と異なる)。太元十九年(394年)二月、簡文帝の母会稽太妃鄭氏を簡文皇帝宣太后と追尊し太廟道西に廟を立てた。孝武帝崩御で京兆はまた遷った(穆帝の世の四祧故事に同じ)。
- 義熙九年(413年)四月、殷祠を前に遷毀の礼が広く議論された。大司馬瑯邪王司馬徳文は太祖虚位から征西までの延長線と漢光武帝の十一帝移主の先例を引き四府君の主は別室で永蔵し不祀とすべきと論じ、大司農徐広は西儲遠祧への移蔵・禘饗の永絶を、太尉諮議参軍袁豹は旧の如く殷祠が四府君にも及ぶべきと論じた。劉裕は大司馬の議に賛同し殷祠後に改制する予定だったが、安帝崩御により禘祭に及ばぬまま晋の天禄は終わった。
廃朝・服喪に関する礼
- 武帝咸寧五年(279年)十一月己酉、弘訓羊太后(羊太后)崩御に伴い宗廟は一時の祀を廃し天地明堂は楽を去り上胙もしなかった。穆帝升平五年(361年)十月己卯、殷祀は帝崩後のため楽を作らなかった。孝武帝太元十一年(386年)九月、皇女の死去に際し烝祠を控えるべきかが問題となり、中書侍郎范寧は『喪服伝』の宮中死者三月不挙祭の規定(長幼貴賤を問わない)を引き疑義を呈し、三公が代行することとなった。
- 武帝泰始七年(271年)四月、親祠に臨む夕牲の際、儀注が拝礼をしない旧慣に対し帝は「これは宗廟を敬う礼ではない」として実際に拝礼し、以後夕牲には必ず親臨拝礼する制となったが、江左以来また廃止された。
次殿・告廟の礼
- 魏の故事では天子の次殿(休息所)は廟殿の北東にあり天子は北門から入ったが、新礼は南門中門外右に次殿を設け天子は南門から入るとした。摯虞は次殿は休息の場であり尊者は不顕・由隠を恭とすべきで、上位に設け南門から入るのは謙厭の義に合わないとして旧説通りに定めるべきと述べ、これに従った。
- 礼では大事に祖禰を、小事に禰を告げるべきとされるが秦漢では久しく廃れていた。魏文帝黄初四年(223年)七月、東巡に大軍を出す際太常に特牛で南郊に告げさせ、文帝崩御時も太尉が策諡を南郊に告げた。以後晋まで郊を告げた後に廟を告げる慣行が続いたが、江左でその礼は廃れた。成帝咸和三年(328年)、蘇峻の乱で京都が覆乱した際、温嶠らが白石に行廟を立てこの典を復し、中宗元皇帝・粛祖明皇帝・明穆皇后の霊に蘇峻討伐の義挙を告げる祝文が捧げられた。
継嗣・追尊の礼
- 魏明帝太和三年(229年)、王后に嗣なく支子を立てて大宗を継がせる場合は正統を纂ぎ公義を奉ずべきで私親を顧みるべきでないとの詔が出た。漢宣帝が昭帝を継ぎ悼考に皇号を加えた例、漢哀帝が外藩から立てられた際に董宏らが亡秦の例を引いて恭皇を尊び京師に廟を立て寵妃を長信に准えるなど僭差に陥り、忠正な師丹の諫を罪して丁傅焚如の禍を招いた例を挙げ、後嗣が諸侯から入って大統を奉じる場合には人後の義を明らかにすべきこと、佞邪が考を皇、妣を后と称するよう導けば股肱大臣が誅すべきことを金策に書し宗廟に蔵すよう命じた。以後高貴郷公・常道郷公(曹奐)の擁立でも外尊は行われなかった。愍帝建興四年(316年)、司徒梁芬が追尊の礼を議したが帝はこれに従わず、左僕射索綝らも魏制を引いて不可としたため、呉王(愍帝の父)は太保を追贈されるにとどまった。元帝太興二年(319年)、有司が琅邪恭王を皇考と称すべきと言ったが、賀循は「子は己の爵を父の号に加えることはできない」と礼典の義を論じ、帝はこれに従った。