晉書卷十二 志第二

七曜総説

  • 日は太陽の精で恩徳を生む人君の象徴である。人君に過ちがあれば必ずその悪を日に露わにして示す。日月が有道の国を行けば光明が輝き人君は栄え百姓は安寧である。人君が土徳で王となり政が太平なら日は五色を示さない。日が変色すれば軍があれば軍は破れ、軍がなければ王侯に喪がある。君に徳なく臣が国を乱せば日は赤く光を失う。日が色を失えばその国は栄えない。日中に昼が暗くなり通行人の影が消え暮れても止まなければ刑罰が厳しく民が苦しみ、改めなければ一年以内に大水がある。日中に昼が暗くなり烏鳥が群れ鳴けば国は政を失う。日中に烏が見えれば主が明でなく政が乱れ、国に白衣の会があり将軍が出兵し旌旗が挙がる。日中に黒子・黒気・黒雲が現れ三つ五つと明滅すれば臣が主を廃する兆しである。日食は陰が陽を侵し臣が君を掩う象であり、国を失う兆しとされる。
  • 月は太陰の精で日に配され女主の象徴、徳に比べれば刑罰の意、朝廷に列すれば諸侯大臣の類である。君主が明であれば月の運行は度に依り、臣が権を執れば月の運行は道を失う。大臣が事を専断し兵刑の理を失えば月は南北に乱れて行き、女主・外戚が権を専らにすれば月は進退が乱れる。月が変色すれば災いが起こる。月が昼に明るければ奸邪が並び起こり君臣が明を争い女主が行いを失い、陰の国の兵が強まり中国は飢え天下に僭称の謀がある。同じ月内に数度月が重ねて見えれば国は乱れて滅びる。
  • 歳星(木星)は東方・春・木にあたり、人にあっては五常のうち仁、五事のうち貌にあたる。仁が欠け貌を失い春の令に逆らい木気を傷つければ歳星にその罰が現れる。歳星の盈縮はその宿る宿によって国運を占う。長く留まる国は徳が厚く五穀が豊かで討伐すべきでない。その対衝にあたる国には禍がある。歳星が安静で度に合えば吉、盈縮が度を失えばその国に憂いがあり挙兵すべきでない。人主の象徴ともされ、色が明るく潤沢であれば徳が天意と合致する。進退が度に合えば奸邪がやみ、色が変わり行いが乱れれば主に福がない。福・大司農・斉呉を主り、天下諸侯人君の過ちと歳の五穀を司る。星が赤く角立てばその国は栄え、赤黄色く沈めばその地は大豊作となる。
  • 熒惑(火星)は南方・夏・火にあたり、五常のうち礼、五事のうち視にあたる。礼が欠け視を失い夏の令に逆らい火気を傷つければ熒惑にその罰が現れる。熒惑の運行は常でなく、現れれば兵があり、入れば兵が散る。宿る国に乱・賊・疾・喪・饑・兵が起こり、その国は災いを受ける。環繞し鉤状になり光芒が動揺し変色し前後左右に移動すればその災いはいっそう甚だしい。南は丈夫、北は女子の喪となる。周旋し止まれば死喪、その野を侵せば土地を失う。運行が速く乱れれば兵がその下に集まり、順行すれば戦に勝つ。大鴻臚・死喪・司空を主り、また司馬ともいい楚・呉・越以南を主り、天下群臣の過ちと驕奢・乱・妖孽・歳の成否を司る。熒惑が動かなければ戦がなく将が誅される。出て赤く怒るように逆行し鉤状になれば戦は凶で軍が包囲される。鉤状で鋩角が刃のようになれば人主は宮を出るべきでなく下に伏兵がある。鋩が大きければ人衆が怒る。理(刑の執行)を主り、外にあっては用兵、内にあっては政治を治める天子の理となる。ゆえに明天子であっても必ず熒惑の所在を見るという。太微・軒轅・営室・房・心を犯し守れば、主の命に対して凶とされる。
  • 填星(土星)は中央・季夏・土にあたり信・思心を主る。仁義礼智はみな信を主とし、貌言視徳は心を正とするため、四星がすべて度を失えば填星が動く。動いて盈ちれば侯王は不安、縮めば軍は復さない。宿る宿の国は吉で土地・女子を得て福があり討伐すべきでない。離れれば土地を失い女の憂いがある。宿に久しく居れば国の福は厚く、易えれば薄い。度を越えて上へ二三宿進めば盈といい、主命が成らないか大水になる。下へ度を失えば縮といい、后戚の憂い、その年は元に復さず天が裂けるか地震がある。黄帝の徳・女主の象徴ともされ、徳の厚薄・安危存亡の機、天下女主の過ちを司る。天子の星ともいい、天子が信を失えば填星が大きく動くという。
  • 太白(金星)は西方・秋・金にあたり義・言を主る。義が欠け言を失い秋の令に逆らい金気を傷つければ太白にその罰が現れる。太白の進退は兵の吉凶を候う指標で、高低・遅速・静躁・出没に応じて用兵はこれに象る。西方に出て運行が乱れれば夷狄が敗れ、東方に出て乱れれば中国が敗れる。出現の期日を過ぎ天の参分の一を越えればその対する国に禍がある。もし経天(昼に天を横切る)すれば天下に革命があり民の主が替わる、これを乱紀といい人々が流亡する。昼に見え日と明るさを争えば強国が弱まり小国が強まり女主が栄える。太白は大臣を主り上公とも呼ばれ、大司馬の位はこれに慎み候うという。
  • 辰星(水星)は北方・冬・水にあたり智・聴を主る。智が欠け聴を失い冬の令に逆らい水気を傷つければ辰星にその罰が現れる。辰星が見えれば刑罰・廷尉・燕趙を主り、また燕・趙・代以北、宰相の象徴とされる。殺伐・戦闘の象でもある。野で軍があれば辰星は偏将の象、軍がなければ刑事を主る。陰陽の調和・応不応を占い、時と合わなければ寒暑が節を失う。出るべき時に出なければ撃卒といい大兵が起こる。房・心の間にあれば地震がある。辰星の出入りが速く常に夷狄を主るともいい、蛮夷の星・刑法の得失を主るともいう。色が黄色く小さければ地が大きく動き、光が月と重なればその国に大水がある。
  • 五星は色と大小が一様でなく、それぞれの運行と時節に応じて色が変わる。青は参の左肩に、赤は心の大星に、黄は参の右肩に、白は狼星に、黒は奎の大星に比べられる。本来の色を失わず四季に応じれば吉、色が運行に反すれば凶とする。
  • 五星が出現・運行する方角がその国の得位となる。得位とは歳星なら徳、熒惑なら礼、填星なら福、太白なら兵の強さ、辰星なら陰陽の調和を得ることをいう。運行の方角の色が正しく光芒があれば勝ち、色が害されれば敗れる。実(順当な位置)にあれば徳があり、虚にあれば徳がない。色は位に勝ち、行は色に勝ち、行が位色をともに得れば完全な吉となる。営室は清廟で歳星の廟、心は明堂で熒惑の廟、南斗は文太室で填星の廟、亢は疎廟で太白の廟、七星は員宮で辰星の廟とされ、五星がその廟に行けば謹んでその命を候う。
  • 五星の盈縮が位を失えばその精が地に降りて人となる。歳星は貴臣、熒惑は歌い戯れる童児、填星は老人・婦女、太白は林麓に住む壮夫、辰星は婦人となって降りるとされ、吉凶の応はその象に従う。
  • 五星の会合は次のように占われる。木(歳星)と土(填星)が合えば内乱・饑饉、水(辰星)と合えば謀が変わり事が改まる、火(熒惑)と合えば饑饉・旱魃、金(太白)と合えば白衣の会・戦乱、内乱・軍の破壊・水害が起こる。太白が南、歳星が北にあれば牝牡といい年穀が大いに実る。太白が北、歳星が南にあれば年の実りは不定である。火と金が合えば爍(焼失)・喪となり用兵すべきでない。従軍すれば軍の憂い、離れれば軍は退く。太白の陰に出れば領地が分かれ、陽に出れば偏将が戦う。土と合えば憂い・孽卿の兆し、水と合えば北方の軍で大敗する。火と水が合えば焠(すすぎ)といい用兵すべきでない。土と水が合えば壅沮(堰き止め)といい用兵すべきでなく覆軍・敗軍がある(一説に謀が変わり必ず旱になるという)。金と合えば疾病・白衣の会・内乱、国が地を失う。木と合えば国が饑える。水と金が合えば謀が変わり兵の憂いとなる。太白の中に入り上に出れば軍が破れ将が殺され客が勝ち、下に出れば客が地を失う。旗の指す方向で敗軍の主を判じる。太白を環繞し闘うようであれば大戦となり客が勝つ。木火土金と水が闘う象はすべて戦の兆しであり、兵が外になければ内乱となる。同じ宿に会するを合、互いに凌ぐを闘という。二星が近ければその災いは大きく、遠ければ害は少ない、七寸以内であれば必ず起こる。
  • 月食が五星を犯せばその国は皆滅びる。歳星なら饑饉、熒惑なら内乱、填星なら殺戮、太白なら強国との戦、辰星なら女の乱による。
  • 五星が月に入れば、歳星なら宰相が逐われ、太白なら将が殺される。
  • 五星が集まればその国が王となり天下が従うとされる。歳星が集まれば義に従い、熒惑は礼に、填星は重(信望)に、太白は兵に、辰星は法に従って天下を治めるという。三星が合すれば驚立絶行といい国の内外に兵と喪があり百姓が窮乏し諸侯が改立される。四星が合すれば大陽といい兵喪がともに起こり君子が憂え小人が流離する。五星が合すれば易行といい、徳ある者が天命を承けて改立され四方を統一し子孫が栄えるが、徳なき者は禍を受け国家を滅ぼし宗廟が絶え百姓は離散し四方に散らばるという。五星がすべて大きければ事も大きく、すべて小さければ事も小さい。
  • 五星の色はすべて円く、白なら喪・旱、赤で中が不均一なら兵、青なら憂い・水害、黒なら疫病・多死、黄なら吉である。光芒が角立てば、赤なら自国の城が犯され、黄なら土地の争い、白なら哭泣の声、青なら兵の憂い、黒なら水害がある。五星が同色であれば天下は兵を収め百姓は安寧に歌舞し災疫を見ず五穀が栄える。
  • 五星の運行の緩急も占いに用いられる。歳星は緩やかなら行かず急なら分を過ぎ、逆行すれば凶兆。熒惑は緩やかなら出ず急なら入らず、道に違えば凶兆。填星は緩やかなら還らず急なら舍を過ぎ、逆行すれば凶兆。太白は緩やかなら出ず急なら入らず、逆行すれば凶兆。辰星は緩やかなら出ず急なら入らず、時でなければ凶兆。五星が運行を失わなければ穀物は豊かに実る。
  • 五星が天の中央に集まれば、東方に積れば中国に利、西方に積れば外国の用兵に利がある。辰星が出なければ太白が客となり、辰星が出れば太白が主となる。出ても太白と方向が合わず各々一方に出れば格といい、野に軍があっても戦わない。
  • 五星の出没・留行・逆順・遅速が暦度に応じていれば行いを得て政治も常道に合うが、暦度に違い路を失い盈縮すれば乱行となる。乱行は彗星・孛星などの天矢となり、国が滅び政が革まり、兵・饑饉・喪乱の禍を招くとされる。

雑星気

図緯の旧説、および後漢末に荊州牧劉表が武陵太守劉叡に命じて天文の諸占を集めさせた『荊州占』による。雑星の種類には瑞星・妖星・客星・流星・瑞気・妖気・日月の傍気があり、それぞれの名状と占験の要点を以下に記す。

瑞星

  • 一に景星という。半月のような形で晦朔に生じ月の明かりを助ける。あるいは星が大きく中が空とも、あるいは三星が赤方の気の中にあり青方の気と連なり黄星が赤方の気の中にあるともいい、徳星とも呼ばれる。
  • 二に周伯星という。黄色で煌々と輝き、現れた国は大いに栄える。
  • 三に含誉という。光が彗星に似て、喜びがあれば光を発する。
  • 四に格沢という。炎のような形で下が大きく上が鋭く黄白色、地から立ち上る。現れれば種を播かずして収穫があり、土木事業や大客の来訪がある。

妖星

  • 一に彗星という。いわゆる掃き星。本体は星のようで末は箒のようであり、小さいものは数寸、長いものは天を横切る。現れれば兵が起こり大水となる。旧を掃い新を布く象徴とされる。五色があり五行の本精に依るとされる。史臣が案ずるに、彗星本体には光がなく日光を受けて光るため、夕方に見えれば東を指し、朝方に見えれば西を指す。日の南北にあってもその光に従って指す方向が変わる。芒の長短により災いの及ぶ範囲が定まる。
  • 二に孛星という。彗星の類。偏って指すものを彗、芒気が四方に出るものを孛という。孛孛として尋常でなく、悪気から生じる。国内に大乱がなければ国外に大兵があり、天下が結託し暗蔽して明らかでなく害を及ぼす。晏子は「君が改めなければ孛星が現れよう、彗星など恐るるに足らぬ」と言った。これにより孛の災いは彗より甚だしいとされる。
  • 三に天棓という。覚星ともいう。本体は星に似て末が鋭く長さ四丈。東北・西方に出て奮争を主る。
  • 四に天槍という。出現から三月を過ぎずして必ず国が破れ君主が乱れ、その罪により死する者が出る。禍が尽きなければ旱魃・饑饉・急病となる。
  • 五に天欃という。石氏は「雲が牛のような形」とし、甘氏は「本体は星に似て末が鋭い」とし、巫咸は「彗星は西方に出て長さ三丈ほど、捕制を主る」とする。
  • 六に蚩尤旗という。彗星に似て後ろが曲がり旗の象。赤雲が単独で見えるとも、色が黄上白下ともいい、あるいは長い雚(あし)のようで蚩尤の旗と呼ばれる、あるいは箕のような形で長さ二丈ほど末に星があるともいう。邪逆を伐つことを主り、惑乱を主る。見えた方角の下に兵が起これば大兵となり、そうでなければ喪がある。
  • 七に天衝という。人の姿で現れ、青い衣に赤い頭で動かない。現れれば臣が主に謀り武卒が発動し天子が亡ぶ。
  • 八に国皇という。大きく赤く南極老人星に似る。地上一二丈、松明のようとも、内寇内難を主るとも、下から挙兵し兵が強まるとも、内外に兵喪があるともいう。
  • 九に昭明という。太白のような姿で光芒があり動かない。あるいは大きく白く角がなく上下に動くともいう。赤い彗星が分かれて昭明になるとも、昭明が光を失えば覇業や徳を起こす兆しでその国の兵に多くの変事があるともいう。大きな人物にとって凶、大兵が起こるともいう。
  • 十に司危という。太白のようで目がある。西方に正しく出て地上六丈ほど、大きく白いとも、大きく毛があり両角があるとも、太白に似てしばしば動き見れば赤く乖争の兆しで強兵を撃つ象ともいう。現れれば主が法を失い豪傑が起こり、天子は不義により国を失い、名声ある臣が主の徳を行うとされる。
  • 十一に天讒という。彗星が西北に出て剣のような形、長さ四五丈。鉤のようで長さ四丈とも、白く小さくしばしば動き殺罰を主るともいう。出現すればその国は内乱し互いに讒言し合い、饑饉・兵乱となり千里が荒れ果て枯骨が散乱する。
  • 十二に五残という。五鏠ともいい正東・東方の星に出る。姿は辰星に似て地上六七丈。蒼い彗星が分かれて五残になるとも、辰星のようで角宿に出るともいう。星の周りに暈のような気があり毛があるとも、大きく赤くしばしば動き見れば青いともいう。乖亡を主り、五分・毀敗の兆し、急な兵への備えともされる。現れれば主が誅され、政治は覇者の手にあり、野が乱れ、急な兵・喪があり、突き当たる方角に不利という。
  • 十三に六賊という。正南・南方の星に出る。地上六丈ほど、大きく赤く動いて光る。彗星のような形とも、五残・六賊が出れば禍が天下に及び関枢を逆に侵すともいい、その下に兵があり突き当たる方角に不利という。
  • 十四に獄漢という。咸漢ともいい正北・北方の野星に出る。地上六丈ほど、大きく赤くしばしば動き見れば青みを帯びる。赤い表に三つの彗が縦横にあるともいう。王を滅ぼし王を刺すことを主る。出現すれば陰精が横行し兵がその下に起こる。また喪を意味し動けば諸侯が驚く。
  • 十五に旬始という。北斗の傍らに出て雄鶏のような姿。怒れば青黒く鼈が伏したような象になる。あるいは怒って雌となり争兵を主るともいう。黄色い彗星が分かれて旬始になるとも、君主擁立の兆しで乱・招揺を主るともいう。現れれば臣が乱れ兵が起こり諸侯が虐げ、十年を期して聖人が起こり伐ち、群猾が横恣する。あるいは出現すれば諸侯が雄々しく鳴くという。
  • 十六に天鋒という。彗星が矛の鋒のような姿。天下が縦横(合従連衡)になれば天鋒星が現れる。
  • 十七に燭星という。太白のような姿で出ても動かず、現れて久しからず消える。あるいは主星の上に三つの彗が上向きに出て、出現した城邑は乱れ大盗が成らず、また五色によっても占われる。
  • 十八に蓬星という。大きさ二斗の器ほどで色は白く、王星ともいう。夜の火のような光で多いときは四五、少ないときは一二現れる。西南に現れ長さ数丈で左右が分かれるともいう。現れて出処が変わり、出現から三年以内に乱臣が誅殺されるという。また、出現すれば大水・大旱・五穀不作・人が人を食むともいう。
  • 十九に長庚という。一匹の布が天に懸かるような姿。現れれば兵が起こる。
  • 二十に四填という。四隅の星に出て地上六丈余り、あるいは四丈ほど。大きく赤く地上二丈、常に夜半に出るともいう。現れて十月に兵が起こり、いずれもその下に兵が起こる兆しとされる。
  • 二十一に地維蔵光という。四隅に出る。大きく赤く地上二三丈、月が出始めたようだともいう。現れればその下に乱があり乱れた者は滅び、徳ある者が栄える。

『河図』にいう。 - 歳星の精は流れて天棓・天槍・天猾・天衝・国皇・反登・蒼彗となる。 - 熒惑は散じて昭旦・蚩尤の旗・昭明・司危・天欃・赤彗となる。 - 填星は散じて五残・獄漢・大賁・昭星・絀流・旬始・蚩尤・虹蜺・撃咎・黄彗となる。 - 太白は散じて天杵・天柎・伏霊・大敗・司姦・天狗・天残・卒起・白彗となる。 - 辰星は散じて枉矢・破女・拂枢・滅宝・繞綎・驚理・大奮祀・黒彗となる。 - 五色の彗星はそれぞれ長短があり、曲折もそれぞれ象に応じる。

漢の京房が著した『風角書』の「集星章」には、妖星がみな月の傍らに現れると記され、互いに五色の方位を持つ気があり、五寅の日に見え、それぞれ五星から生じるとする。 - 天槍・天根・天荊・真若・天榬・天楼・天垣はいずれも歳星から生じ、甲寅の日に見え両青方の気を伴う。 - 天陰・晉若・官張・天惑・天崔・赤若・蚩尤はいずれも熒惑から生じ、丙寅の日に出て両赤方の気を伴う。 - 天上・天伐・従星・天枢・天翟・天沸・荊彗はいずれも填星から生じ、戊寅の日に出て両黄方の気を伴う。 - 若星・帚星・若彗・竹彗・牆星・榬星・白雚はいずれも太白から生じ、庚寅の日に出て両白方の気を伴う。 - 天美・天欃・天杜・天麻・天林・天蒿・端下はいずれも辰星から生じ、壬寅の日に出て両黒方の気を伴う。

以上三十五星は五行の気から生じ、みな月の左右の方気の中に出現し、出現前の未出日数によって候うべきとされる。未出のうちに現れれば水旱・兵喪・饑乱があり、指す方角の国は土地を失い王が死に軍が破れ将が殺されるという。

客星

  • 張衡は「老子四星と周伯・王蓬絮・芮は各一星ずつあり五緯(五星)の間に交錯し、出現に定期がなく運行にも定まった度がない」とする。『荊州占』は「老子星の色は純白で、現れる国により饑・凶・善・悪・喜・怒がある。周伯星は黄色く煌々とし現れた国は大いに栄える。蓬絮星は青くきらめき、現れた国は風雨が節を失い旱魃で物が育たず五穀が実らず蝗が多くなる」とする。また「東南に三星が出れば盗星といい盗賊が起こる。西南に三星が出れば種陵といい穀物が十倍に高騰する。西北に三大星が白く出れば天狗といい人が人を食む大凶がある。東北に三大星が出れば女帛といい大喪がある」とする。

流星

  • 流星は天の使いである。上から下るのを流、下から上るのを飛という。大きいものを奔といい、これも流星の一種。星が大きければ使命も大きく、星が小さければ使命も小さい。轟く音は怒りの象、速く行くものは事の到来も速く、遅く行くものは遅い。大きく光がないものは衆人の事、小さく光あるものは貴人の事、大きく光あるものはその人が貴くかつ衆を伴う。明滅を繰り返すものは賊の敗北・成功を示す。前が大きく後が小さいものは恐憂、前が小さく後が大きいものは喜事を示す。蛇行するものは奸事、速く去るものは去って還らないことを示す。長いものは事が長く続き、短いものは事が速やかに終わる。奔星の落ちた下には兵が起こる。無風無雲の時に流星が見えしばらくして消えれば大風が起こり家屋が壊れ木が折れる。小さな流星が数百四方に流れれば民衆の流浪の兆しである。
  • 音を伴い炬火のように地に下る流星は野雉が鳴き天保と呼ばれ、落ちた国は安泰で喜事がある。小さな青赤い流星は地雁といい、落ちた地では挙兵がある。青赤い光の流星で長さ二三丈のものは天雁といい軍中の精華とされ、その国は挙兵し将軍がその方角へ向かう。暉きのある白い光で天を横切る長い流星は人主の星とされ、宰相・将軍がその方角へ向かう。
  • 飛星が大きく缶や甕のようで後ろが白く前が低く後ろが高いものを頓頑といい、これに従う者は多く死ぬ。飛星が缶や甕のようで後ろが白く消えた後に白いものが車輪のように輪を作るものを解銜といい、その国の人は互いを斬って爵禄を得る。飛星が缶や甕のようで後ろが白く長さ数丈、消えた後に白いものが雲となって流れ下るものを大滑といい、落ちた所には流血と積骨がある。
  • 枉矢は流星に似て色は蒼黒、蛇行し毛のように見え、長さ数匹(布の単位)に及び天に付く。反乱・射愚を主る。現れれば謀反の兵が集まり誅され射られる、あるいは乱をもって乱を伐つ象とされる。
  • 天狗は大きな奔星のようで色は黄、音を伴い地に止まる姿は犬に似る。落ちれば火光が炎々と天を衝き上が鋭く下が円い形で数頃の田ほどの広さになる。星に毛があり傍らに短い彗があり下に犬の形があるとも、出現の姿は赤白く光り下れば天狗となるとも、光を伴う流星で人の顔が見え墜落音がなく足のあるものを天狗と呼ぶともいう。色は白く中は黄色く遺火のようで、兵の討伐を候う。現れれば四方が互いに射合い千里の間で軍が破れ将が殺される。あるいは五将が闘い人が人を食み、行く先々で流血があるという。その君主は土地を失い大兵が起こり国は政治を改め守禦すべきとされる。
  • 営頭は雲が崩れる山のように現れるもので営頭の星と呼ばれ、落ちればその下の軍が覆滅し千里にわたり流血する。また昼に隕ちる流星を営頭ともいう。

雲気

瑞気には次の三つがある。 - 一に慶雲。煙のようで煙でなく、雲のようで雲でなく、鬱々紛々として蕭索輪囷とした様を慶雲、また景雲という。喜びの気で太平の兆しである。 - 二に帰邪。星のようで星でなく、雲のようで雲でない。二つの赤い彗が上向きに蓋をなし下に星が連なるともいう。現れれば必ず帰国する者がある。 - 三に昌光。赤く龍のような形で、聖人が起こり帝位を受け継ぐ時に現れる。

妖気には次の二つがある。 - 一に虹蜺。日の傍らの気で北斗の乱れた精。心を惑わし内淫・臣が君に謀る兆しを主り、天子が屈し后妃が権を専らにし妻が一心でなくなる兆しとされる。 - 二に䍧雲。犬のような形で赤色、尾が長い。乱君・兵喪の兆しとされる。

十煇

『周礼』の眡祲氏は十煇の法を掌り妖祥を観て吉凶を弁じたとされる。 - 一に祲という。陰陽五色の気が互いに浸食し合うもので、虹に似て短い抱珥・背璚の類をいう。 - 二に象という。雲気が形をなすもので赤烏のような雲が日を挟んで飛ぶ類をいう。 - 三に觿という。日の傍らの気で日を刺す形、童子が佩びる觿に似る。 - 四に監という。雲気が日の上に臨むものをいう。 - 五に闇という。日月の食、あるいは光を失うことをいう。 - 六に瞢という。ぼんやりと光が乏しいことをいう。 - 七に彌という。白虹が天に満ちて日を貫くことをいう。 - 八に序という。気が山のように日の上にあるもの、あるいは冠珥・背璚が重なり日の傍らに順に並ぶものをいう。 - 九に隮という。暈の気、あるいは虹をいい、『詩経』の「朝隮於西」の隮にあたる。 - 十に想という。気が五色の形を持つもので、青は饑饉、赤は兵乱、白は喪、黒は憂い、黄は豊作を示す。あるいは想とは思うことで、赤気が人の姿となる形を見て吉凶を思い知ることをいう。

  • 遊気が天を覆い日月が色を失うのはすべて風雨の前兆である。沈んだ陰りで日月ともに光を失い昼に日が見えず夜に星が見えないのは、雲が覆い両軍が対峙し陰に謀議している兆しである。日がぼんやりと光を失えば士卒の間に内乱がある。数個の日が同時に出て闘うように見えれば天下に兵が起こり大戦となる。日が闘えば城が抜かれる。日戴(日の上にまっすぐ立つ気)は徳を表し国に喜びがある。日の上に抱く青赤気を小さければ冠といい国に喜事、日の下に交わる小さな青赤気を纓、日の下の左右にある小さく丸い青赤気を紐という。日の上に半暈状にある青赤気を負といい土地を得る喜びを示す。日の傍らに斜めに長く倚る青赤気を戟という。日の左右に円く小さくある青赤気を珥といい、黄白なら喜事がある。軍があるとき日に一つの珥があれば喜び、西にあれば西軍が勝ち、東にあれば東軍が勝つ(南北も同様)。軍がなく珥があれば拝将の兆し。日の傍らに半環状に日へ向くものを抱という。日のように月が初めて生じたようで日に背くものを背といい、青赤く曲がり外に向けば叛象・分裂の城を示す。璚は帯のような形で日の四方にある。日の傍らに長く立つ青赤気を直といい、直が一つあれば片方が自立を図り、直の指す方から撃つ者が勝つ。直が二つ抱が三つあれば自立は成らず、順に抱を撃つ者が勝ち将を殺す。三角の形で日の西にあれば提、日の上下に横たわれば格という。半暈状で日の下にあれば承といい臣が君を承ける象。日の下に三重の黄気が抱くようであれば承福といい人主に吉喜あり土地を得る。履のような青白気が日の下にあれば履という。日の傍らに五重の抱があれば順に抱を撃つ者が勝つ。日に一抱一背があれば破走の兆し(抱は順気、背は逆気で両軍対峙の際は順抱を撃つ者が勝つゆえ破走という)。日が抱き両珥があり一虹が抱から日を貫けば順虹を撃つ者が勝ち将を殺す。日が抱き両珥に璚を伴い二虹が貫けば順虹を撃つ者が勝つ。日が重なって抱き内に璚があれば順抱を撃つ者が勝つ(軍内に反意ある者がいるとも)。日が重なって抱き左右に二珥があり白虹が抱を貫けば順抱を撃つ者が勝ち二将を得る(虹三本なら三将を得る)。日が抱き黄白く潤沢で内が赤く外が青ければ天子に喜びあり和親して降る者があり軍は戦わず敵は降伏し軍を解く(色が青黄なら将は喜び、赤なら将は兵を争い、白なら将に喪あり、黒なら将は死す)。日が重なって抱き背もあれば順抱を撃つ者が勝ち土地を得るか軍を解く。日が重なって抱き内外に璚があり両珥もあれば順抱を撃つ者が勝ち軍を破るが軍中は不和で互いに信じ合わない。日の傍らに円く周りを囲む気で内が赤く外が青いものを暈といい、軍営の象徴で日を囲む厚薄がなければ敵味方の勢力は互角、軍が外になければ天子が統治を失い民に叛く者が多い。日暈に五色が備われば喜びがあり、備わらなければ憂いがある。

  • 両軍対峙の占いでは日月の暈気を謹んで観察し、その起こり・留まり・遠近・応不応・遅速・大小・厚薄・長短・抱背の多少・有無・虚実・久近・密疎・潤枯を見る。相応じるものは勢力互角、近い方が遠い方に勝ち、速い方が遅い方に勝ち、大きい方が小さい方に勝ち、厚い方が薄い方に勝ち、長い方が短い方に勝ち、抱は背に勝ち、多は少に勝ち、有は無に勝ち、実は虚に勝ち、久は近に勝ち、密は疎に勝ち、潤は枯に勝つ。重なった背は大敗の兆し、重なった抱は和親の兆し、抱が多ければ親しむ者が増え、背は天下の不和・離散を示し、内に背けば内で離れ、外に背けば外で離れる。

雑気

  • 天子の気は内が赤く外が黄色で、四方に発する所に王者が現れる。天子が行幸する予定地にも先にこの気が現れる。城門のように霧の中に隠れ常に殺気を帯びるとも、華蓋のように霧中に現れるとも、手のない青衣の人の姿で日の西にあるとも、龍馬のようとも、雑色が濃く天に沖くともいい、いずれも帝王の気とされる。
  • 猛将の気は龍や猛獣のよう、あるいは火煙のよう、白く粉が沸くよう、火光のようで夜人を照らすよう、白く赤気に囲まれるよう、山林竹木のよう、紫黒く楼門のよう、上が黒く下が赤く黒旌のよう、弩を張ったよう、あるいは砂塵で頭が鋭く低く根元が大きく高い形で現れる。気が漸次雲のように起こり山の形になれば将に深謀がある兆し。
  • 軍勝の気は堤や坂のように前後に地を摩るよう、あるいは水光のようで将は勇猛・士卒は猛々しい、あるいは山堤や林木のようで将士は驍勇、あるいは埃塵が粉のように沸き黄白色、あるいは人が斧を持ち敵に向かう形、蛇が首を挙げ敵に向かう形、覆った舟のような雲、牽牛のような雲、闘鶏のような赤白の雲、黄気の発生など、いずれも将士が精鋭・勇猛である証。
  • 上が黄色く下が白い気を善気といい、対する軍の敵は和睦・退却を求める。
  • 敗軍の気(負気)は馬肝色や死灰色、偃せた蓋や偃せた魚のよう、崩れた山が軍に墜ちるような黒気(営頭の気)、群牛群豚のような気などがあり衰気とされる。懸けた衣や人が連なるよう、転がる蓬のよう、灰を揚げるよう、巻いた筵や乱れた布のような雲もすべて敗兆である。牛を繋いだよう、人が臥すよう、双蛇のよう、飛鳥のよう、堤が決壊するよう、家屋が崩れるよう、驚いた鹿が追われるよう、二羽の鶏が向き合うようなものもすべて敗軍の気である。
  • 降伏する軍の気は人々が十人五人と組み叉手し頭を垂れる形、あるいは人が叉手して向き合う形。黒い山のような気に黄色の縁取りがあれば降伏を望む象である。
  • 堅城の上に星のような黒雲があれば軍精という。白気が旌旗のよう、青雲・黄雲が城に臨めば大きな喜慶がある。青色の気が牛頭のように人に触れる形、城上の気が煙火のよう、双蛇のよう、杵の形で外に向く形、雲が二つの彗のように分かれる形は、いずれも攻めるべきでない兆し。
  • 屠城の気は赤く飛鳥のよう、赤気が壊れた車のよう、赤黒気が狸の皮の斑のよう、城中の気が楼のように集まり外に現れる、営上に人の頭のような赤い雲があれば、その城営はいずれも陥落しうる。雄雉が城に臨むような気があればその下に降伏者が必ずいる。
  • 伏兵の気は黒く渾々として長く赤気を含む、あるいは白気が粉のように沸き楼のように起こる、幢節のような形で烏雲の中にある、赤い杵のような形で烏雲の中にある、烏の人のような形で赤雲の中にあるなどがある。
  • 暴兵の気は白く瓜蔓のように連結し部隊が相追い、しばらく止んでまた現れるもの、あるいは白気が仙人や仙人の衣のように千万連なり部隊が相追い止んでまた興れば千里の外から兵が来る兆し。人が刀楯を持つような気、赤い人の形の雲は城邑に急な兵が至る兆し。赤気が節を持つ人の形なら兵が来て止まない兆し。雲が方形の虹のようであれば、これらはすべて暴兵の象である。
  • 戦気は青白く膏のよう、頭のない人のよう、死人が臥すよう、赤い蛇に赤気が伴えば必ず大戦となり将が殺される。四方に雲がなく赤気が犬のように営に入れば、その下に流血がある。
  • 十日連続で陰り昼に日が見えず夜に月が見えず乱風が吹き雨を望んでも降らないものを蒙といい、臣に謀反の兆しがある。霧気が昼も夜も青黄色で交互に覆い明滅を繰り返すのも同様である。四方に常に大雲があり五色そろえばその下に賢人が隠れている。潤沢な青雲が日を覆い西北にあれば賢良が登用される兆し。乱れた藁束のような雲気は大風の前兆でその来る方角を見る。潤いのある厚い雲は大雨が急に来る兆し。四始の日に厚く重い陣のような黒雲があれば雨が多い。霧のようで霧でなく衣冠が濡れない気が見えればその城は武装して事に赴く。日の出没時に横たわる霧気は白ければ喪、黒ければ驚き、三日以内の雨で解ける。蛟龍のような雲が見える所では将軍が気力を失う。鵠の尾のような雲が国を覆えば三日で滅ぶ。赤黄色の雲が四方に満ち昼夜地を照らせば大臣が横暴を極める。昧く濁った気の雲があれば賢人が去り小人が位に就く。
  • 白虹はあらゆる災厄の元、多くの乱の基である。霧は多くの邪気で陰が陽を冒すものである。白虹や霧は奸臣が君を謀り権を専らにする兆し。昼霧夜明であれば臣の志が通る。夜に霧・白虹が見えれば臣に憂い、昼に霧・白虹が見えれば君に憂いがある。虹の頭尾が地に至れば流血の象である。霧気が四季に順わず交錯し微風小雨があれば陰陽の乱れの象で、積もり重なれば昼夜が暗く天下が分裂しようとする。
  • 天地四方が塵を降らすように昏く十日五日以上、あるいは一月一時に及び雨が衣に土を付ければ霾(黄砂)といい、「天地霾すれば君臣乖く」という。
  • 海辺の蜃気は楼台のような形、広野の気は宮闕のような形になる。北夷の気は牛羊や群畜・穹廬のよう、南夷の気は舟船・幡旗のようである。華山以南は気が下が黒く上が赤い。嵩高・三河の郊では気は正赤。恒山の北では気は青い。渤海・碣石・泰山・岱山の間では気はみな正黒。江淮の間では気はみな白い。東海の気は円い簦(かさ)のよう、漢水沿岸の気は布を引くよう、江漢の気は杼(機織りの道具)のように鋭く、済水の気は黒豚のよう、渭水の気は狼の白尾のよう、淮南の気は白羊のよう、少室の気は白兎の青尾のよう、恒山の気は黒牛の青尾のようである。東夷の気は樹のよう、西夷の気は室屋のよう、南夷の気は闍台や舟船のようである。
  • 陣雲は垣を立てたよう。杼軸雲は軸のようで両端が鋭い。杓雲は縄のよう、前方に長く天を亘り半ばが天に及ぶ。蛪(欠けた形)は闕旗に似る。鉤雲は句状に曲がる。これらの雲はすべて五色によって占う。潤いを帯び密であれば人を動かし必ず兵が起こり戦いが合う方角がある。三匹の帛のような雲で前が広く後が鋭ければ大軍行進の気である。
  • 韓の雲は布のよう、趙の雲は牛のよう、楚の雲は太陽のよう、宋の雲は車のよう、魯の雲は馬のよう、衛の雲は犬のよう、周の雲は車輪のよう、秦の雲は行人のよう、魏の雲は鼠のよう、鄭の雲は絳衣のよう、越の雲は龍のよう、蜀の雲は囷(円い倉)のようである。
  • 車の気は高低を繰り返し集まりやすい。騎兵の気は低く広がる。歩卒の気は密集する。前が低く後が高ければ進撃が速い。前が方形で高く後が鋭く低ければ退く。気が平らであればその軍は緩やか。前が高く後が低ければ止まらず引き返す。校騎の気は青黒く長さ数百丈。遊兵の気は彗のように掃く形で長さ数百丈、根元がない。喜気は上が黄色く下が赤い、怒気は上下とも赤い、憂気は上下とも黒い。土木事業の気は黄白。移住の気は白い。
  • 気を候う法では、気が初めて出るとき雲のようで雲でなく霧のようで霧でなく、ぼんやりと見える。桑や楡の梢の上、高さ五六尺のものは千五百里外にある。平視すれば千里、目を上げて望めば五百里、天の中ほどを仰ぎ見れば百里以内である。平望で桑楡の間が二千里、高所に登り地に届く気を望めば三千里に及ぶ。敵が東にあれば日の出時に候い、南にあれば正午に、西にあれば日没時に、北にあれば夜半に候う。軍上の気は高い方が低い方に、厚い方が薄い方に、実が虚に、長い方が短い方に、潤いが枯れに勝る。気の大きさから期日を知り、大風雨・久しい陰りがあれば占いの兆しは成就しない。

史伝事験

天変

  • 恵帝元康二年(292年)二月、天が西北で大きく裂けた。劉向の説によれば「天が裂けるのは陽が不足し地が動くのは陰が余ること」といい、当時は人主が昏愚で妃后が専権していた。
  • 太安二年(303年)八月庚午、天の中央が二つに裂け雷のような音が三度した。君主の道が欠け臣下が専断・僭越する兆しとされ、この日長沙王(司馬乂)が帝を奉じて成都王・河間王と対峙し、後に成都王・河間王・東海王が相次いで権力を専らにしたのはこの応とされた。
  • 穆帝昇平五年(361年)八月己卯の夜、天の中央が広さ三四丈にわたり裂け、雷のような音がして野雉がみな鳴いた。この後、哀帝が病に沈み海西公が徳を失い皇太后が臨朝し太宗(簡文帝)が万機を総べ桓温が権を専らにして威が内外を震わせ、陰気が盛んで陽気が微かになった。
  • 元帝太興二年(319年)八月戊戌、天が東南で鳴り風水が擦れ合うような音がした。京房『易妖占』は「天に声あれば人主に憂いあり」という。三年(320年)十月壬辰、天がまた鳴り甲午に止んだ。その後王敦が石頭に入り官軍が敗れ、元帝は屈辱を受け強臣に制せられ、間もなく崩御し大恥を雪ぐことができなかった。
  • 安帝隆安五年(401年)閏月癸丑、天が東南で鳴った。六年(402年)九月戊子、天が東南で再び鳴った。この後桓玄が帝位を簒奪し安帝は逃避を余儀なくされ、憂いはこれより大きなものはなかった。鳴るたびに東南からなのは、中興の地が江南にあり天がこれに応じて鳴るためとされる。
  • 義熙元年(405年)八月、天が東南で鳴った。京房『易伝』は「万民が労苦すればその妖として天が鳴る」という。当時安帝は帝位に復したが兵革が年々起こり民衆は疲弊していた。

日蝕

  • 魏文帝黄初二年(221年)六月戊辰晦、日食があり、有司は太尉の免職を奏したが、文帝は詔して「災異は元首を譴めるためのもので、罪を股肱の臣に帰すのは禹湯が自らを罪する道理に反する。百官はそれぞれ職務に励め。以後天地の異変があっても軽々しく三公を弾劾するな」とした。三年(222年)正月丙寅朔、日食。十一月庚申晦、また日食。五年(224年)十一月戊申晦、日食。明帝太和初年、太史令許芝が日食を予奏し太尉と霊台で祈禳しようとしたが、明帝は「人主に不徳があれば天は災異で警告する。朕は即位以来先帝の聖徳を明らかにできず教化が神意に合わなかったため天が示しを与えたのだろう。政を修めて神明に報いるべきである。天の人に対する関係は父の子に対するようなもので、父が子を責めようとする時に盛饌を献じて免れようとするのはおかしい。太史令に祈禳させるのは筋が通らない。群公卿士大夫はそれぞれ職務に励み、朕の至らぬところを補うべく上奏せよ」と詔した。太和五年(231年)十一月戊戌晦、日食。六年(232年)正月戊辰朔、日食(呉暦に見える)。
  • 青龍元年(233年)閏月庚寅朔、日食。
  • 少帝正始元年(240年)七月戊申朔、日食。三年(242年)四月戊戌朔、日食。四年(243年)五月丁丑朔、日食。五年(244年)四月丙辰朔、日食。六年(245年)四月壬子朔、日食。十月戊申朔、また日食。八年(247年)二月庚午朔、日食。この時曹爽が専政し丁謐・鄧颺らが法度を改めていたが、日食の異変を機に群臣へ得失を問う詔が出された。蔣済は上疏し「舜の佐治は比周を戒め、周公の輔政は朋党に慎んだ。斉侯が災いを問えば晏子は施恵をもって答え、魯君が異変を問えば臧孫は労役の緩和をもって答えた。変異を塞ぎ天に応じるのは人事を実践することにある」と述べたが、君臣は悟らずついに敗亡した。九年(248年)正月乙未朔、日食。
  • 嘉平元年(249年)二月己巳朔、日食。
  • 高貴郷公甘露四年(259年)七月戊子朔、日食。五年(260年)正月乙酉朔、日食。京房『易占』は「日食が乙酉に起これば君は弱く臣が強い。司馬が兵を将い反して王を征す」といい、五月に成済の変(高貴郷公弑逆)が起こった。
  • 元帝景元二年(261年)五月丁未朔、日食。三年(262年)十一月己亥朔、日食。
  • 武帝泰始二年(266年)七月丙午晦、日食。十月丙午朔、日食。七年(271年)十月丁丑朔、日食。八年(272年)十月辛未朔、日食。九年(273年)四月戊辰朔、日食。また七月丁酉朔、日食。十年(274年)正月乙未、三月癸亥、ともに日食。
  • 咸寧元年(275年)七月甲申晦、日食。三年(277年)正月丙子朔、日食。四年(278年)正月庚午朔、日食。
  • 太康四年(283年)三月辛丑朔、日食。七年(286年)正月甲寅朔、日食。八年(287年)正月戊申朔、日食。九年(288年)正月壬申朔、六月庚子朔、ともに日食。永熙元年(290年)四月庚申、武帝崩御。
  • 恵帝元康九年(299年)十一月甲子朔、日食。十二月、皇太子が廃されて庶人とされ、まもなく殺された。
  • 永康元年(300年)正月己卯、四月辛卯朔、ともに日食。
  • 永寧元年(301年)閏月丙戌朔、日食。
  • 光熙元年(306年)正月戊子朔、七月乙酉朔、ともに日食。十一月、恵帝崩御。十二月壬午朔、また日食。
  • 懐帝永嘉元年(307年)十一月戊申朔、日食。二年(308年)正月丙子朔、日食。六年(312年)二月壬子朔、日食。
  • 愍帝建興四年(316年)六月丁巳朔、十二月甲申朔、ともに日食。五年(317年)五月丙子、十一月丙子、ともに日食。この時帝は平陽で捕らわれの身にあった。
  • 元帝太興元年(318年)四月丁丑朔、日食。
  • 明帝太寧三年(325年)十一月癸巳朔、日食、卯から斗宿にかけて起こった(斗は呉の分野)。その後蘇峻の乱が起こった。
  • 成帝咸和二年(327年)五月甲申朔、日食、井宿にあった(井は酒食・女主の象徴)。翌年、皇太后が憂いのうちに崩御した。六年(331年)三月壬戌朔、日食。当時帝はすでに成長していたが司徒(王導)の邸に行幸するたびその夫人曹氏に子弟の礼をとっており、人君が臣の妻に対し敬意を過度に示すのは君徳を損なう象とされた。九年(334年)十月乙未朔、日食。当時帝はすでに元服していたが政を大臣に委ねており、君道の欠けを示すとされた。
  • 咸康元年(335年)十月乙未朔、日食。七年(341年)二月甲子朔、日食。三月、杜皇后崩御。八年(342年)正月乙未朔、日食、都で大雨があり郡国から奏聞された。これを三朝の異変といい王者はこれを忌むとされた。六月に帝が崩御した。
  • 穆帝永和二年(346年)四月己酉、七年(351年)正月丁酉、八年(352年)正月辛卯、ともに日食。十二年(356年)十月癸巳朔、日食、尾宿にあった(燕の分野、北狄の象)。当時辺境で姚襄・苻生が互いに争い朝廷は憂労し征伐がやまなかった。
  • 升平四年(360年)八月辛丑朔、日食、角宿でほぼ皆既となった。日食は浅ければ禍浅く深ければ禍大きいとされ、角は天門で人主が忌む。翌年帝が崩御した。
  • 哀帝隆和元年(362年)三月甲寅朔、十二月戊午朔、ともに日食。翌年帝は病を得て万機を認識できなくなった。
  • 海西公太和三年(368年)三月丁巳朔、五年(370年)七月癸酉朔、ともに日食。いずれも海西公廃立の兆しとされた。
  • 孝武帝寧康三年(375年)十月癸酉朔、日食。
  • 太元四年(379年)閏月己酉朔、日食。この時苻堅が襄陽を攻め落とし朱序を捕らえた。六年(381年)六月庚子朔、日食。九年(384年)十月辛亥朔、日食。十七年(392年)五月丁卯朔、日食。二十年(395年)三月庚辰朔、日食。翌年帝が崩御した。
  • 安帝隆安四年(400年)六月庚辰朔、日食。当時司馬元顕が政を執っていた。
  • 元興二年(403年)四月癸巳朔、日食。その冬、桓玄が帝位を簒奪した。
  • 義熙三年(407年)七月戊戌朔、日食。十年(414年)九月丁巳朔、日食。十一年(415年)七月辛亥晦、日食。十三年(417年)正月甲戌朔、日食。翌年帝が崩御した。
  • 恭帝元熙元年(419年)十一月丁亥朔、日食。義熙元年からこの時まで、日食は毎回上位から始まる形で起こり、いずれも革命の兆しとされた。

『周礼』の眡祲氏が十煇の法で妖祥・吉凶を観たとされ、祲・象・鐫・監・闇・瞢・彌・序・隮・想の十種があるが、後代は呼称が変わり説も一致しない。以下その著しい応験を記す。

  • 呉の孫権赤烏十一年(248年)二月、白虹が日を貫いた。孫権は詔を発して戒懼した。
  • 武帝泰始五年(269年)七月甲寅、日暈が二重、白虹がこれを貫いた。
  • 太康元年(280年)正月己丑朔、五色の気が日を冠のように囲み卯時から酉時まで続いた。占では「君道が明を失う。丑は斗牛にあたり呉越を主る」とされ、この時孫皓は淫暴で四月に降伏した。
  • 恵帝元康元年(291年)十一月甲申、日暈二重、青赤の光を帯びた。九年(299年)正月、日中に飛燕のようなものが現れ数日で消えた。王隠はこれを愍懐太子の廃死の兆しとした。
  • 永康元年(300年)正月癸亥朔、日暈三重。十月乙未、日が暗く黄霧が四方に満ちた。占では「三年以内に城が抜かれ大戦がある」とされた。十二月庚戌、日中に黒気があった。京房『易伝』は「祭天が順わなければ日中に黒気が現れる」という。
  • 永寧元年(301年)九月甲申、月中に黒子。京房『易占』は「黒は陰であり臣が君の悪を掩わず表に現せば百姓が君を悪む兆し」といい、また「臣が主の明を蔽う兆し」ともいう。
  • 太安元年(302年)十一月、日中に黒気。
  • 永興元年(304年)十一月、日中に黒気が日を分けた。
  • 光熙元年(306年)五月壬辰・癸巳、日光が四散し血のように赤く地を照らし、甲午にも同様であった。占では「君道が明を失う」とされた。
  • 懐帝永嘉元年(307年)十一月乙亥、黄黒気が日を掩い照らす所がみな黄色くなった。『河図』の占では「日薄」とされ「日食は本来朔晦に起こるが、朔晦でない時に起こるものを日薄という。日月が同宿でなくとも陰気が盛んで日光を掩うものだ」と説かれ、日食に類する占とされた。二年(308年)正月戊申、白虹が日を貫き、二月癸卯、白虹が日を貫き青黄の暈が五重になった。占では「白虹が日を貫けば近臣が乱を起こすか諸侯に反する者がある。暈が五重なら国を有する者にその祥が及び、天下に兵があり土地が失われる」とされた。翌年、司馬越が人主を軽んじ暴虐に振る舞い、五年(311年)に劉聡が京都を破り帝は敵地に捕らわれた。五年三月庚申、日光が血のように地に流れ照らす所がみな赤くなった。日中に飛燕のようなものがあった。
  • 愍帝建興二年(314年)正月辛未辰時、日が地に隕ちた。また三つの日が連なり西方から東行した。五年(317年)正月庚子、三つの日がともに照らし虹蜺が天に満ちた。日に重暈があり左右に両珥があった。占では「白虹は兵気である。三四五六の日がともに出て争えば天下に兵が起こる、丁巳の日もその数の兆しに応じる」とされ、また「三つの日がともに出れば三十日を過ぎずして諸侯が帝位を争う。日の重暈は天下に立王があり、暈に珥があれば天下に立侯がある」とされた。陳卓は「大慶があり天下が三分されるだろう」と述べ、三月に江東で建武と改元し、劉聡・李雄も曹魏・劉氏の疆域にまたがり帝を称し、以後兵乱が連綿と続いた。
  • 元帝太興元年(318年)十一月乙卯、日が夜に出て高さ三丈、中に赤青の珥があった。四年(321年)二月癸亥、日が闘うように見えた。三月癸未、日中に黒子。辛亥、帝は自ら囚人を親しく取り調べた。
  • 永昌元年(322年)十月辛卯、日中に黒子。当時帝は劉隗を寵愛し威福を専らにさせて君道を損ない、王敦がこれを理由に挙兵して京都に迫り忠賢に禍が及んだ。
  • 明帝太寧元年(323年)正月乙卯朔、日暈で光がなかった。癸巳、黄霧が四方に満ちた。占では「君道が明を失い陰陽が昏く臣に陰謀あり」とされ、京房は「下が刑を専らにすれば分威といい、蒙が微かで日が明るくない」という。この時王敦は尚書令刁協・僕射周顗・驃騎将軍戴若思らを殺しており、刑を専らにした応とされ、王敦は上を凌いだ末にその罪に伏した。十一月丙子、白虹が日を貫いた。史官は見ておらず桂陽太守華軼がこれを報じた。
  • 成帝咸和九年(334年)七月、白虹が日を貫いた。
  • 咸康元年(335年)七月、白虹が日を貫いた。二年(336年)七月、白虹が日を貫いた。以後庾氏が政を専らにし后族から貴顕を得たのは婦人が国を専らにする象とされ、そのため連年白虹が日を貫いたとされる。八年(342年)正月壬申、日中に黒子、丙子に消えた。夏、帝が崩御した。
  • 穆帝永和八年(352年)、張重華が涼州にあった頃、日が火のように激しく赤くなり中に三足烏の姿が明瞭に現れ五日で止んだ。十年(354年)十月庚辰、日中に鶏卵ほどの黒子。十一年(355年)三月戊申、日中に桃ほどの黒子が二つ現れた。当時天子は幼弱で久しく親政していなかった。
  • 升平三年(359年)十月丙午、日中に鶏卵ほどの黒子。まもなく帝が崩御した。
  • 海西公太和三年(368年)九月戊辰の夜、二つの虹が東方に現れた。四年(369年)四月戊辰、日暈が厚く密で白虹が日中を貫いた。十月乙未、日中に黒子。五年(370年)二月辛酉、日中に李(すもも)ほどの黒子。六年(371年)三月辛未、白虹が日を貫き日暈五重となった。十一月、桓温が帝を廃し(簡文帝咸安元年)。
  • 簡文咸安二年(372年)十一月丁丑、日中に黒子。
  • 孝武寧康元年(373年)十一月己酉、日中に李ほどの黒子。二年(374年)三月庚寅、日中に鴨の卵ほどの黒子二つ。十一月己巳、日中に鶏卵ほどの黒子。当時帝はすでに成長していたが康献皇后が従嫂として臨朝しており君道を損ねたため日に瑕が生じたとされる。
  • 太元十三年(388年)二月庚子、日中に李ほどの黒子二つ。十四年(389年)六月辛卯、日中にまた李ほどの黒子。二十年(395年)十一月辛卯、日中にまた黒子。この時会稽王(司馬道子)が母弟として政を執っていた。
  • 安帝隆安元年(397年)十二月壬辰、日暈に背璚があった。以後帝は万機に親しまず会稽王世子元顕が威罰を専行した。四年(400年)十一月辛亥、日中に黒子。
  • 元興元年(402年)二月甲子、日暈、白虹が日中を貫いた。三月庚子、白虹が日を貫いた。まもなく桓玄が京都を制圧し官軍が敗れ、翌年桓玄が帝位を簒奪した。
  • 義熙元年(405年)五月庚午、日に彩珥があった。六年(410年)五月丙子、日暈に璚があった。当時廬循が京都に迫り内外が戒厳された。七月、廬循は敗走した。七年(411年)七月、五つの虹が東方に現れた。占では「天子が黜けられる」とされ、その後劉裕が晋に代わった。十年(414年)、日は東井にあり、南に十余丈の白虹が日を貫いた。災いは秦の分野にあり秦の滅亡の兆しとされた。
  • 恭帝元熙二年(420年)正月壬辰、白気が日を貫き東西に各一丈の直珥があり白気がこれを貫き交わった。

月変

  • 魏文帝黄初四年(223年)十一月、月が北斗を暈した。占では「大喪があり天下に赦がある」とされ、七年(226年)五月に文帝が崩御し明帝が即位すると天下に大赦が行われた。
  • 孝懐帝永嘉五年(311年)三月壬申の丙夜、月食が皆既となり、丁夜にもまた皆既となった。占では「月食が尽きれば大人に憂いあり」、また「その国の貴人が死ぬ」とされた。
  • 海西公太和四年(369年)閏月乙亥、月が軫宿を暈し、さらに月の北に白暈があり斗柄三星を暈した。占では「王者がこれを忌む」とされ、六年(371年)に桓温が帝を廃した。
  • 安帝隆安五年(401年)三月甲子、月に歯が生じたような異変があった。占では「月に歯が生じれば天子に賊臣があり群下が互いに殺し合う」とされ、桓玄篡逆の兆しとされた。
  • 義熙九年(413年)十二月辛卯朔、月がなお東方に見えた。これを仄匿といい侯王が粛清される兆しとされ、当時劉裕が輔政し威刑を独断していたのがこの応とされた。十一年(415年)十一月乙未、月が輿鬼に入り暈した。占では「主に憂いあり財宝が出る」、あるいは「月暈は赦がある兆し」とされた。

月奄犯五緯

月食が五星を犯せばその国は皆滅び、五星が月に入ればその国の宰相が逐われるとされる。

  • 魏明帝太和五年(231年)十二月甲辰、月が填星を犯した。
  • 青龍二年(234年)十月乙丑、月がまた填星を犯した(占は同上)。戊寅、月が太白を犯した。占では「人君が死ぬか兵乱がある」とされ、景初元年(237年)七月に公孫文懿(公孫淵)が叛き、二年(238年)正月に宣帝(司馬懿)が討伐に赴き、三年(239年)正月に天子(明帝)が崩御した。四年(240年)三月己巳、太白と月がともに昼間に現れ、月が太白を犯した(占は同上)。
  • 景初元年(237年)十月丁未、月が熒惑を犯した。占では「貴人が死ぬ」とされ、二年(238年)四月に司徒韓暨が薨じた。
  • 斉王嘉平元年(249年)正月甲午、太白が月を襲った。宣帝は永寧太后に奏して曹爽らを廃した。
  • 恵帝太安二年(303年)十一月庚辰、歳星が月中に入った。占では「国に逐われる宰相がある」とされた。十二月壬寅、太白が月を犯した。占では「天下に兵がある」とされた。三年(304年)正月己卯、月が太白を犯した(占は青龍元年と同じ)。七月、左衛将軍陳眕らが帝を奉じて成都王を伐ったが六軍が敗れ乗輿に兵が迫った。その二年後、恵帝が崩御した。
  • 元帝太興二年(319年)十一月辛巳、月が熒惑を犯した。占では「乱臣がある」とされた。三年(320年)十二月己未、太白が月に入り斗宿にあった。郭璞は「月は坎に属し陰府の法象である。太白(金)がこれを犯すのは刑理が中を失い自ら法を損なう天意である」と述べた。四年(321年)十二月丁亥、月が歳星を犯し房宿にあった。占では「その国は兵と饑饉があり人民が流亡する」とされ、永昌元年(322年)三月に王敦が反乱を起こし荊江の軍を率いて京都を攻め破り将相を殺した。また鎮北将軍劉隗が出奔し百姓は南畝を離れ兵革に苦しんだ。四月にはさらに湘州刺史・譙王司馬承と鎮南将軍甘卓が殺された。
  • 成帝咸康元年(335年)二月乙未、太白が月に入った。四月甲午、月が太白を犯した。四年(338年)四月己巳、七月乙巳、月がともに太白を掩った。占では「人君が死ぬか兵乱があり人主がこれを忌む」とされ、翌年石季龍(石虎)の軍が沔南に侵攻したため内外が戒厳された。五年(339年)四月辛巳、月が歳星を犯し胃宿にあった。占では「国が饑え人が流亡する」とされ、乙未、月が歳星を犯し昴宿にあった。冬になり沔南・邾城の敗戦があり百姓一万余家が流亡した。六年(340年)二月乙未、太白が月に入った。占では「人主が死ぬ」とされた。四月甲午、月が太白を犯した。占では「人主がこれを忌む」とされた。
  • 穆帝永和八年(352年)十二月、月が東井にあり歳星を犯した。占では「秦が饑え人が流亡する」とされ、当時兵乱が相次いで起こった。十年(354年)十一月、月が填星を掩い輿鬼にあった。占では「秦に兵がある」とされ、当時桓温が苻健を伐ち、苻健は長安に籠城し桓温は退いた。十二年(356年)八月、桓温が姚襄を破った。
  • 升平元年(357年)十一月壬午、月が歳星を掩い房宿にあった。占では「人が饑える」あるいは「豫州に災いあり」とされた。二年(358年)閏三月乙亥、月が歳星を犯し房宿にあった(占は同上)。三年(359年)、豫州刺史謝万が敗れた。三年三月乙酉、月が太白を犯し昴宿にあった。占では「人君が死ぬ」あるいは「趙の地に兵があり胡が不安になる」とされた。四年(360年)正月、慕容儁が卒した。五年(361年)正月乙丑辰時、月が危宿にあり太白を掩った。占では「天下が離散する」とされた。三月丁未、月が填星を犯し軫宿にあった。占では「大喪がある」とされ、五月に穆帝が崩御した。七月、慕容恪が冀州刺史呂護を野王で攻め落とし呂護は逃走した。当時桓温は大軍を宛に進めていたが呂護敗北の報を聞き退いた。
  • 哀帝興寧元年(363年)十月丙戌、月が太白を掩い須女宿にあった。占では「天下が離散する」あるいは「災いが揚州にある」とされた。三年(365年)、洛陽が陥落した。その後桓温は揚州の資財を尽くして北伐したが大敗し死者は半数を超えた。さらに袁真を征したことで淮南が荒廃した。後に慕容暐・苻堅が相次いで境を侵した。三年正月乙卯、月が歳星を掩い参宿にあった。占では「参は益州の分野」とされた。六月、鎮西将軍益州刺史周撫が卒した。十月、梁州刺史司馬勲が益州に入り反乱を起こし、朱序が周楚とともにこれを討ち平定した。
  • 海西太和元年(366年)二月丙子、月が熒惑を掩い参宿にあった。占では「内乱・帝の終焉の兆し」、あるいは「参は魏の地」とされた。五年(370年)、慕容暐が苻堅に滅ぼされた。
  • 孝武太元十二年(387年)二月戊寅、熒惑が月に入った。占では「乱臣が死ぬか互いに殺し合う者がある」、あるいは「女親が政を執り天下が乱れる」とされた。当時琅邪王(司馬道子)が輔政し、その妃の従兄王国宝が姻戚により寵を受けていた。また陳郡の袁悦が私利のために主相の間に立ち入り朋党を煽動した。十三年(388年)、帝は袁悦を市で処刑した。以後主相の間に不和が生じ乱の端緒となった。十三年十二月戊子、辰星が月に入り危宿にあった。占では「賊臣が主を殺そうとし三年以内に必ず内乱がある」とされ、以後慕容垂・翟遼・姚萇・苻登・慕容永が相次いで兵を構え強さを争った。十四年(389年)十二月乙未、月が歳星を犯した(占は同上)。十五年(390年)、翟遼が司州・兗州を拠点とし諸軍が討伐に苦しみ、慕容氏は并州・冀州を席巻した。七月、旱魃。八月、諸郡で大水があり兗州にも蝗害があった。十八年(393年)正月乙酉、熒惑が月に入った。占では「宮中に憂いあり賊か盗の類」、あるいは「乱臣が互いに殺し合う」とされた。二十一年(396年)九月、帝が内殿で急死し、民間では夫人張氏が大逆を行ったと噂され、また王国宝の邪悪もその罪に伏した。十九年(394年)四月己巳、月が歳星を掩い尾宿にあった。占では「饑饉があり燕国が滅びる」とされ、二十年(395年)に慕容垂が慕容宝を派遣して魏を伐たせたが反対に破られ数万人が死んだ。二十一年、慕容垂が死に国は衰亡した。
  • 安帝隆安元年(397年)六月庚午、月が太白を掩い太微端門外にあった。占では「国が兵を受ける」とされた。乙酉、月が歳星を掩い東壁宿にあった。占では「饑饉があり衛の地に兵がある」とされた。二年(398年)六月、郗恢が鄧啓方らに一万の兵を率いさせ慕容宝を滑台で伐ったが敗れた。三年(399年)九月、桓玄らがともに挙兵し内外が戒厳された。四年(400年)正月乙亥、月が填星を犯し牽牛宿にあった。占では「呉越に兵喪があり女主に憂いがある」とされた。六月乙未、月がまた填星を犯し牽牛宿にあった。十月乙未、月が歳星を掩い北河にあった。占では「饑饉があり胡に兵がある」とされ、その年五月、孫恩が会稽を破り内史謝琰を殺した。その後さらに高雅之を余姚で破り死者は十のうち七八に及んだ。七月、太皇太后李氏が崩御した。元興元年(402年)、孫恩が臨海を侵し人々は餓死し散亡がほとんどに及んだ。
  • 元興元年(402年)四月辛丑、月が辰星を掩った。七月、大饑饉となり人が人を食んだ。二年(403年)十一月辛巳、月が熒惑を犯した(占はすべて同上)。二年十二月、桓玄が帝位を簒奪し帝后を尋陽に放遷し永安何皇后を零陵君とした。三年(404年)二月、劉裕が桓氏を尽く誅した。三年二月甲辰、月が歳星を掩い左角にあった。占では「天下に兵が起こる」とされ、この年二月丙辰、劉裕が義兵を起こし桓修らを殺した。翌年正月、諸軍が桓振を攻め諸桓を滅ぼした。
  • 義熙元年(405年)四月己卯、月が填星を犯し東壁宿にあった。占では「その地の国が滅ぶ」あるいは「貴人が死ぬ」とされた。七月己未、月が填星を掩い東壁宿にあった。占では「その国が自ら伐たれる」あるいは「人が流亡する」とされた。十月丁巳、月が填星を掩い営室宿にあった(占は同上)。十一月、荊州刺史魏詠之が卒した。二年(406年)二月、司馬国璠らが弋陽を攻め落とした。三年(407年)、司徒揚州刺史王謐が薨じた。四年(408年)正月、太保・武陵王(司馬遵)が薨じた。三月、左僕射孔安国が薨じた。二年十二月丙午、月が太白を掩い危宿にあった。占では「斉が国を滅ぼす」あるいは「強国の君が死ぬ」とされた。五年(409年)四月、劉裕が大軍を率い北伐し慕容超をついに滅ぼした。七年(411年)六月庚子、月が歳星を犯し畢宿にあった。占では「辺境に兵があり饑饉となる」とされた。八月乙未、月が歳星を犯し参宿にあった。占では「益州に兵と饑饉」とされた。七月、朱齢石が蜀を平定したが蜀人がまもなく反乱を起こし再び討伐した。八年(412年)正月庚戌、月が歳星を犯し畢宿にあった(占は同上)。九年(413年)七月、朱齢石が蜀を平定した。十二年(416年)五月甲申、月が歳星を犯し左角にあった。占では「饑饉となる」とされた。十四年(418年)四月壬申、月が填星を張宿で犯した。占では「天下に大喪がある」とされ、翌年帝(安帝)が崩御した。
  • 恭帝元熙元年(419年)七月、月が歳星を犯した(占はすべて同上)。十二月丁巳、月が羽林で太白を犯した。二年(420年)六月、帝が位を退き宋に禅譲した。

五星聚舍

  • 魏明帝太和四年(230年)七月壬戌、太白が歳星を犯した。占では「太白が五星を犯せば大兵がある」とされ、五年(231年)三月に諸葛亮が大軍で天水を侵し、この時大将軍であった宣帝(司馬懿)がこれを退けた。
  • 青龍二年(234年)二月己未、太白が熒惑を犯した。占では「大兵が起こり大戦がある」とされ、この年四月に諸葛亮が渭南に拠り呉もこれに応じて挙兵し、魏は東西に奔走して対応した。
  • 恵帝元康三年(293年)、填星・歳星・太白の三星が畢・昴に集まった。占では「兵喪の兆し。畢昴は趙の地」とされた。後に賈后が太子を陥れて殺し、趙王(司馬倫)が皇后を廃してさらに殺し、張華・裴頠を斬って帝位を簒奪し帝を太上皇に廃したため、天下はこれより乱れ禍が連続した。
  • 永寧二年(302年)十一月、熒惑・太白が虚・危で闘った。占では「大兵が起こり軍が破れ将が殺される。虚危はまた斉の分野」とされた。十二月、熒惑が営室で太白を襲った。占では「天下に兵が起こり君を滅ぼす戒め」あるいは「宰相の交代」とされた。当初、斉王(司馬冏)が京都に赴きそのまま留まって輔政し専横を極めていたが、この月成都王・河間王が長沙王に討伐の檄を発し、冏と長沙王(司馬乂)が交戦し宮闕が焼かれ冏の軍は敗れ滅ぼされた。また兄の上軍将軍司馬寔以下二千余人が殺された。太安二年(303年)、成都王がさらに長沙王を攻め、公私ともに饑え疲弊し百姓は力尽きた。
  • 太安三年(304年)正月、熒惑が歳星を犯した。占では「戦がある」とされた。七月、左衛将軍陳眕が帝を奉じて成都王を伐ったが六軍が敗れた。
  • 光熙元年(306年)九月、填星が歳星を犯した。占では「填と歳が合すれば内乱がある」とされ、この時司馬越が権を専らにし、ついに無礼のうちに破滅したのはこの内乱の応とされた。十二月癸未、太白が填星を犯した。占では「内乱の兵があり大戦がある」とされ、その後河間王が東海王(司馬越)に殺された。翌年正月、東海王が諸葛玫らを殺した。五月、汲桑が馮嵩を破り東燕王を殺した。八月、苟晞が汲桑を大破した。
  • 懐帝永嘉六年(312年)七月、熒惑・歳星・太白が牽牛・須女の間に集まり往来した。占によれば「牛女は揚州の分野」とされ、その後両都(洛陽・長安)が相次いで陥落したが元帝が揚州の地で中興を果たした。
  • 建武元年(317年)五月癸未、太白・熒惑が東井で合した。占では「金火が合すれば爍といい喪がある」とされ、この時愍帝は平陽で捕らわれ七月に敵地で崩御した。
  • 元帝太興二年(319年)七月甲午、歳星・熒惑が東井で会した。八月乙未、太白が歳星を犯し翼宿で合した。占では「兵と饑饉」とされた。三年(320年)六月丙辰、太白が歳星と房宿で合した(占は同上)。永昌元年(322年)、王敦が京師を攻め六軍が敗れたが、まもなく王敦は死んだ。
  • 成帝咸康三年(337年)十一月乙丑、太白が歳星を営室宿で犯した。占では「兵と饑饉」とされた。四年(338年)二月、石季龍が幽州を破り一万余家を南へ移した。五年(339年)、石季龍の軍五万が沔南を侵し七千余家を略奪して去り、さらに騎兵二万が邾城を包囲し陥落させ五千余人を殺害した。四年十二月癸丑、太白が填星を箕宿で犯した。占では「王者が土地を失う」とされ、七年(341年)、慕容皝が燕王を自称した。七年三月、太白・熒惑が太微中で合し左執法を犯した。翌年、顕宗(成帝)が崩御した。八年(342年)十二月己酉、太白が熒惑を胃宿で犯した。占では「大兵が起こる」とされ、その後庾翼が大挙して兵を発し石季龍討伐を謀り上流の権を専らにした。
  • 康帝建元元年(343年)八月丁未、太白が歳星を軫宿で犯した。占では「大兵がある」とされ、この年石季龍の将劉寧が狄道を攻め落とした。
  • 穆帝永和四年(348年)五月、熒惑が婁宿に入り填星を犯した。占では「大兵が起こり喪があり災いは趙にある」とされ、この年石季龍が死に翌年冉閔が石遵と胡人十万余人を殺し、その後褚裒の北伐も軍を失って薨じた。六年(350年)三月戊戌、熒惑が歳星を犯した。占では「戦がある」とされた。七年(351年)三月戊子、歳星・熒惑が奎宿で合した。この年劉顕が石祗と諸胡の帥を殺し中原は大いに乱れた。十二年(356年)七月丁卯、太白が填星を柳宿で犯した。占では「周の地に大兵がある」とされ、この年八月に桓温が苻健を伐って退き、その帰途姚襄を伊水で破り周の地を平定した。
  • 升平二年(358年)八月戊午、熒惑が填星を張宿で犯した。占では「大兵が起こる」とされた。三年(359年)八月庚午、太白が填星を太微中で犯した。占では「王者がこれを忌む」とされた。五年(361年)十月丁卯、熒惑が歳星を営室宿で犯した。占では「大臣に隠謀あり」あるいは「衛の地に兵がある」とされ、当時桓温は権を専らにし晋室の簒奪を謀っていた。
  • 海西公太和元年(366年)八月戊午、太白が歳星を太微中で犯した。三年(368年)六月甲寅、太白が熒惑を太微端門中で掩った。六年(371年)、海西公が廃された。
  • 簡文咸安二年(372年)正月己酉、歳星が填星を須女宿で犯した。占では「内乱の兆し」とされ、七月に帝(簡文帝)が崩御し、桓温が権を専らにし侍中王坦之らの殺害を謀ったのがこの内乱の応とされた。
  • 孝武寧康二年(374年)十一月癸酉、太白が熒惑を営室宿で掩った。占では「金火が合すれば爍といい兵喪がある」とされ、太元元年(376年)七月に苻堅が涼州を伐って破り張天錫を捕虜とした。
  • 太元十一年(386年)十二月己丑、太白が歳星を犯した。占では「兵と饑饉」とされ、当時黄河以北はまだ平定されず兵が外征に続き冬は大饑饉となった。十七年(392年)九月丁丑、歳星・熒惑・填星が共に亢・氐にあった。十二月癸酉、填星が去り熒惑・歳星はなお合していた。占では「三星が合すれば驚立絶行といい内外に兵喪と饑饉があり王公が改立される」とされた。十九年(394年)十月、太白・填星・熒惑・辰星が氐宿で合した。十二月癸丑、太白が歳星を犯し斗宿にあった。占では「乱と饑饉、内兵の兆し。斗は呉越の分野」とされた。隆安元年(397年)に至り王恭らが挙兵し王国宝の罪を糾弾し朝廷が王国宝を殺した。以後連年水旱の饑饉が続いた。
  • 安帝隆安元年(397年)二月、歳星・熒惑が共に羽林に入った。占では「中軍に兵が起こる」とされた。四月、王恭らが挙兵し内外が戒厳された。
  • 元興元年(402年)八月庚子、太白が歳星を犯し上将の東南にあった。占では「楚の地に兵と饑饉」あるいは「災いは上将にある」とされた。二年(403年)、桓玄が帝位を簒奪した。三年(404年)、劉裕が桓氏を尽く誅した。二年十月丁丑、太白が填星を婁宿で犯した(占は同上)。三年二月壬辰、太白・熒惑が羽林で合した。二年十二月、桓玄が帝位を簒奪し帝后を放遷した。三年二月、劉裕が義兵を起こし桓玄は帝を伴い東へ逃れた。
  • 義熙二年(406年)十二月丁未、熒惑・太白がともに羽林に入りさらに壁宿で合した。三年(407年)正月、慕容超が淮北・徐州を侵し下邳に至った。八月、劉敬宣を遣わして蜀を伐たせた。三年二月癸亥、熒惑・填星・太白・辰星が奎・婁で聚まり填星に従った(徐州の分野)。この時慕容超が斉で僭号し兵が徐州・兗州に連なり、淮泗にまで及び、姚興・譙縦も秦・蜀で僭号し盧循と魏が南北から侵していた。五年(409年)、劉裕が慕容超を北方で滅ぼした。その六月辛卯、熒惑が辰星を翼宿で犯した。占では「天下に兵が起こる」とされた。八月己卯、太白が熒惑を掩った。占では「大兵がある」とされ、四年(408年)、姚略が兵を派遣し赫連勃勃を征したが大敗した。五年四月甲戌、熒惑が辰星を東井で犯した。占では「いずれも兵の兆し」とされた。十二月辛丑、太白が歳星を奎宿で犯した。占では「大兵が起こり魯の地に兵がある」とされた。この年四月、劉裕が慕容超を討ち六年二月に慕容超を魯の地で滅ぼした。七年(411年)七月丁卯、歳星が填星を参宿で犯した。占では「歳填が合すれば内乱がある」あるいは「益州で戦い勝てず土地を失う」とされ、この時朱齢石が蜀を伐ちのちにこれを滅ぼした。翌年、謝混・劉毅が誅された。八年(412年)七月甲申、太白が填星を東井で犯した。占では「秦に大兵がある」とされた。九年(413年)二月丙午、熒惑・填星がともに東井を犯した。占では「秦に兵がある」とされた。三月壬辰、歳星・熒惑・填星・太白が東井で聚まり歳星に従った(東井は秦の分野)。十三年(417年)、劉裕が関中を平定し、その後ついに晋の祚は遷った。十四年(418年)十月癸巳、熒惑が太微に入り西蕃上将を犯しそのまま順行して左掖門内に至り二十日留まって逆行し、恭帝元熙元年(419年)三月五日に西蕃上将の西三尺ほどまで出てまた順行して太微に還った。この時填星も太微にあり熒惑が填星を繞って鉤己の形をなし、その年四月丙戌に端門から出た。占では「熒惑と填星が天庭で鉤己をなせば天下の紀が改まる」とされ、十二月、安帝の母弟琅邪王が即位した(恭帝)。翌年、宋に禅譲した。